ディレッタントの強み

たとえば川崎弘二の仕事は、「日本の電子音楽(の研究)って面白い、自分もやってみたい」と思わせる質と量を誇っているが、彼は本業を別に持つ日曜研究者だ。

(彼を見いだした大谷能生もそうですね。他には、イタリアオペラ研究の水谷彰良のような人もいる。)

人文科学の(もしかすると世界的かもしれない)「危機」が囁かれているのは、このジャンルに括られている営みが、本業としてフルタイムの大学教員として遂行するのに向いていない性質を備えているのではないか、という疑念が広がりつつあるからではないかと思う。

(ポストモダン華やかなりし80年代は、むしろディレッタントが大らかに肯定された時代であり、一方「失われた20年」は、政治的反動の時代であるだけでなく、「改革/選択と集中」という名の公金投入にエンパワーされた「専門家」が反動的に復権する時代だった。そのようなバックラッシュが一段落したことで、人文科学への疑念が「専門家(Specialist←またもや special の語が登場した)」への疑念と絡み合いながら再び表面に浮上しつつあるのが当節の状況ではないかと思う。)

ディレッタントがフルタイムの大学教員(「専門家」)を尊敬はするけれども「嫉妬」することがなくなったとき、大学教員(「専門家」)は、どのように自らの存在意義を主張するのか。

今は、「高等遊民」が批判されているわけじゃない(「高等遊民」は今でも十分に/過剰なくらいロマンチックに「嫉妬」の対象であり続けている)。そうではなく、職業としての「専門家」の地位が揺らいでいるのだと思います。そこを混同すると、たぶん議論がかみ合わなくなる。

高等遊民は、いつまでも天然のままじゃなく、遊民の自覚を持って欲しい。