予算申請書の「見込まれる成果」は実体のない美辞麗句ではない

科研費も公的予算の執行なので「見込まれる成果」を書く欄があるが、そこに書き連ねられた素晴らしい成果は、実現しているのだろうか? 「問題提起」を重視して、その成果の実現可能性の見積もりが甘くなっていることはないだろうか?

現状では、多くの人文家は、自身の語る計画に疑問を突きつけられたときに、その場で(=まだ予算獲得の競争をしている段階で)取り繕うのは得意だが、その予算が執行されたあとで、本当にその計画が成果を生んだかどうかの検証が弱いのではないか。

例えば、「○○というケースが有りうるのだから、こうしておくべきである、これでいいのである」と主張して自身の計画を擁護する論法があるけれど、実際にその計画が実行されたあとで振り返ったときに、本当にその「○○というケース」はあったのか。あったのであれば、「ほら言ったとおりでしょ」と相手を説得できるが、起きなかったときにどうするつもりなのか。不都合な現実にほおかむりする狼少年を続けていたら、そりゃ、信頼を失うよ。

何が起きているのか?

「言語論的転回」なる20世紀の人文の作業仮説に含まれていた「○○が起きたときの備えである」という仮定が、本当だったのかどうか、随分たくさん、実際には起きそうにない仮定が含まれており、そこが作業仮説の提案から100年経って、盛大に検証されている。それが現在の状況なのではないだろうか。

実現できないけれども耳障りのいい成果、可能性としては否定できないけれども事実上起きそうにない仮定を計画に盛大に盛り込んだら、後世にツケが回ってくる。やっぱりそういう風になったよね、ということだと思う。

多くの人文家の研究計画は、彼らがSNSで冷笑しがちな2回目の東京オリンピックや2回目の大阪万博よりも、はるかに「空論」度が高いと私は思う。

そんな状態で「警世の人」を気取っても、誰も耳を貸さないだろう。