蓄音と蓄光

「音を受ける」ことは「音を出す」ことだとすると、蓄音機(gramophone の語に「蓄える」の意味はないようだが)は in と out の間を一時停止しているに過ぎないイメージなのか? もし同様に、「光を受ける」ことは「光を出す」ことだと言えるとしたら(光も波だ、という立場であれば、言えそうな気がする)、聴覚と視覚をめぐる連祷は要らなくなりそうですね。

ただし、そのような「知覚の絶対精神」と呼びたくなる境地に人間が到達(解脱)しうるのかどうか。「音響再生産」だけでも100年間に議論百出だから先は長い。

人間という動物は音と光を波として一括処理しない作りになっていて、音については「耳」と「口」がその入口と出口らしき部位だと目星を付けることができるけれど、光については、「目」という入口が見つかる一方、出口らしき部位がない、というような、厳密な自然科学としては雑駁で比喩的かもしれないけれども、それなりに通用してしまっている人間観をどこまで更新できるのか、そこがフロンティアでありリミットである、ということになるのでしょうか。

西欧の人間観は、おそらくルネサンスから啓蒙期に異文化・異民族と接触することで鍛えられて、19世紀から20世紀には、進化論や生態学が人間を動物界に投げ入れることで新しい人間像を描き出したと言えると思うのですが、蓄音・蓄光であるとか、情報であるとか、21世紀は、人間が機械から学ぶ時代である、ということになると、サイバー空間にはやっぱり未来がある、と言えるのかもしれない。