その方面の教養がないだけなのかもしれないのだけれど、欧米の ludus 系の言葉 play や jeu や Spiel と、日本語の「遊び」という言葉に互換性がある、というのが、どうも腑に落ちない。そういうえば、音楽に関して「遊び」という日本語で呼ばれるのがぴったりな行為・状況がどういうものか、とか、play / jeu / Spiel と呼ばれるのがぴったりな行為・状況がどういうものか、ということを正面切って考えたことは、今までなかったかもしれない。
どうやら、フィクション論の隆盛の背景には、ludus や 遊び の概念が見え隠れするのだけれど……。