マゼッパとワルキューレが指し示すもうひとつの「音楽の国」

いまさらですが、リストの交響詩マゼッパとワーグナーのワルキューレの騎行は似てますよね。マゼッパはユゴーが歌いあげたコサックの英雄だから、今で言えば、もはや「ソ連」ではないウクライナの伝説の男。一方ワルキューレをワーグナーはドイツ・ゲルマン神話の女神と考えていたわけだから、どちらも、東欧や北欧を視野に入れた中央ヨーロッパの軍神を描いていることになる。

東欧からの移民に過ぎないリストがサロンを舞台に貴族の女性たちを渡り歩く離れ業を演じながらパリ→ワイマール→ハンガリー・ロシアと「東征」していくコスモポリタンぶりが、ワーグナーの崇拝する「強い女性」像と結びつくのは、ドイツ帝国を専門家(specialist)と将軍(general)の国とイメージする教養市民論(いわゆる「ドイツ教養市民」こそがニッポンの「高等遊民」の原像だよね)と、わかりやすくズレていると言えるのではなかろうか?

だから私には、「音楽の国」の中心人物はワーグナーではなくリストであるように思えるのです。フランツ・リストから見れば、ワーグナーは「困った婿殿」に過ぎないのではないかと(笑)。

(先月、授業で「献呈にみるショパンの交友」という話をしたのに続いて、今日は「編曲にみるリストの友情と愛情」という話をする。学生向けにアレンジしているが、ショパンの献呈は Silvan Guignard、リストの編曲は Dorothea Redepenning、いずれもいちおう、学生時代に読んだ Musikwissenschaft の博士論文を下敷きにして膨らませたお話のつもりです。いまどきの「音楽の国」論のひとたちが、まだこういうのを読み続けているのか知らないけれど。)