「歩留まり」と「とかげのしっぽ」:研究の経済のために

ものづくりに関わる仕事をしている人たちは、投入した資金・人材・原材料を100%一切の無駄なく製品に変換する夢の工場など存在しないことを知っているから「歩留まり(率)」を組み込んで会社を経営しているはずだ。

学問・研究も、先生たちの教室での授業を学生として受講したり、スタンダードな事典・叢書・啓蒙書だけ利用している読書人は気がつかないかも知れないけれど、学会や大学のような新しい知見を発表したり、そのための人材を育成する現場には「製造業」と見ることができそうな面があって、学問・研究はものづくりでいえば職人的な家内工業の段階に近いので、「歩留まり率」は個人差が大きくて、全体として、あとに残る知見・研究が出てくる率は、高くて3割、低ければ1割以下。ほぼ、プロ野球のバッターの打率くらいだと思う。

だから、ネット上に公開された「発表要旨」や「論文」をしつこく検索してチェックする、というようなことを趣味的にやりはじめると、プロの野球選手に「すべての打席で出塁しろ」とヤジを飛ばしているような状態になる。

(そのような趣味をもつ人は、しばしば、アマチュア草野球の強者だったりして、アマチュアのなかでやっているが故に、いつも試合で5割以上の打率を誇っていたりするかもしれないが、草野球の打率5割を基準にしてプロ野球の打率3割を野次るのは、野球がお好きな人なのだろうとは思うけれど、タチが悪いと言わざるを得ない。)

しかも、そのような観客が、「打率がたった3割であるような選手を起用するのはチームの責任だ」とか、「そのような選手は出場できないようにルールを改正するべきだ」とか言いだして、そのような「お客様のご意向」を業界が最優先するようになったら、野球というゲームを興行として運営することはできなくなるかもしれない。

「研究は個人がやるものであって、○○大学の論文という言い方には違和感がある」

という研究現場の関係者と思しき人の発言は、そのあたりのことを言っているのだろうと思う。

しかし一方で、研究・教育機関を「経営」している人たちは、少なくとも現状では、自分たちの団体・組織がいかにすばらしいか、ということを、少々「盛り気味」に宣伝するのが現在の潮流になっている。マスコミやミニコミの言論や、機関を許認可する役所や、機関に「うちのこども」を行かせるかどうかを判断する親御さんも、宣伝パンフレットのキラキラ度合いを重要な判断材料にしているという風に信じられている。

だから、研究・教育機関の「経営」では、ホームランの場面やシュートが決まった場面だけをつなげたスポーツニュースの名場面集風の「成果・業績の編集」で、自らのすばらしさをアピールする。

そして最近では、研究・教育機関も個々の研究者・教員と個別に文書で雇用契約を結ぶように指導されていて、そうした契約書には「機関の名誉を毀損する行為」を禁止する服務規程が含まれていたりするから、「広報はああいう風に言っているけど、実際はそうじゃなくてね……」というようなことを言いにくいところがありそうだ。

この状態では、知と研究における「歩留まり率」が舞台裏に隠されて、学問は「ヴァーチャルなお花畑」であるかのようなイメージが拡散することになる。

(「音楽の国」というお花畑のイメージが音楽業界に拡散してしまっている経緯も、ほぼこれと同じですよね。)

そしてこのような経営・広報体制だと、

「研究は個人がやるものであって、○○大学の論文という言い方には違和感がある」

という発言は、発言者としては研究者の尊厳を守る意図で言っているのだろうけれど、不祥事があったときに、「それは大学の責任ではなく、その論文の執筆者個人の過失なのだから、個人で責任を負っていただきます」という判断の根拠になって、いわゆる「とかげのしっぽ切り」が起きる可能性がある。

「立命館大学の論文」という文言が流通していることへの違和感を、立命館大学の(別の部署の)教員が表明する、という構図は、かなりきわどいような気がする。

プロの研究者は、「打率10割」などありえないにしても、「2割5分を2割8割に上げるにはどうするか」「でも、そのやり方では2割9分で頭打ちになることが目に見えている、3割越えを目指して別の方法を考えよう」とか、そういう精度で鎬を削っているように思う。それが、よくもわるくも「専門家」の生態だろう。

(今回の一件でも、研究者・大学教員たちは、そんな視点から、件の研究者や研究を分析・評価して、今後に活かせるところがあるかないか、考えている雰囲気ですよね。)

長い目で見れば、そういった周囲の動きを含めた専門家の生態系を開示して、世間にそういうものなのだとご理解いただく、というのが「オトナの態度」だろうし、(いつもこれを引き合いにだして恐縮だけれど)「学芸賞」なんぞを贈られて名前が目立っちゃっている人は、そういうところで「名声」を活用するのが、「個人利益」にすべてを回収しない生き方ということになるかと思う。

(もしそうではなく、「学芸賞」にそこまでの利用価値はないよ、というのであれば、そのあたりも、収支決算を開示しちゃっていいんじゃないかと思うし……。もう少し今の「名声」から「個人利益」を得ておきたい、というのであれば、それを他人がとやかく言うことはできないけれど。)

凍雲篩雪 - 猫を償うに猫をもってせよ