留学のインセンティヴが乏しかった世代の不幸

1990年代に入って、大学院改革のまっただ中にいた大学生・大学院生たちは、その前の世代に比べて留学する者が少なかったように思う。専任教員になってからようやく在外研究の機会を得た人が、「幸運にも私が海外で知り得た事実を日本国内の一般大衆は知らない」という昭和に逆戻りしたような話法で屈折したナショナリストになってしまうのは、単純に世代の不幸だろうと思う。

あなたが大学に残ること最優先で国内で過ごした30代まで(2010年頃まで)の間にそれに気付かなかったのは不幸なことだが、そういう特殊な人生を歩んでいない人たちは、既にそのことを知っている可能性が高いと思う。

例えば、在外日本人学校に派遣する教師は、市町村の普通の小学校中学校の校長等からの推薦があって選ばれるのだから、校長教頭クラスの先生たちは、みんなその事業を知っている(うちの父も、目をかけていた先生を推薦したりしていた)。全国の公立学校の校長経験者の数は、たぶん、在外研究の機会を得たことのある大学教員の数より圧倒的に多いよね。

そして海外出張、海外赴任を経験したサラリーマンの数は、さらに多いのは間違いない。(そうじゃないと、日本人学校では、教員のほうが生徒より数が多いことになってしまう。)

このことだけを考えても、「幸運にも私が海外で知り得た事実を日本国内の一般大衆は知らない」という話法は滑稽です。単に、あんたが(中年になって外国に行くまで)知らんかったに過ぎない。そしてオレは海外で覚醒したぞ、という自慢話は、留学経験者の少ない特定世代の大学教員の仲間内でのみ自慢話として成立する。まさしくエコー・チェンバー効果ですね。

単一民族神話は、ここでは、あまり関係ないし、そういう風に突如として話がでかくなるのは、あまりにも典型的にSNSな誇大妄想の風景だよね。