新国立劇場オペラトーク「修禅寺物語」

[最後のほうに、補足を少しずつ書き足しています]

新国の「修禅寺物語」を観れないのはあまりに悔しいので、せめても、と思って、先週末、日帰りでオペラトークを聴いてきました。

http://ent-nntt.pia.jp/event.do?eventCd=0922438&perfCd=001

演出の坂田藤十郎さんが自らご出席ということだったので、それだけでも行く価値はあるだろうということで。

(なお、清水脩のオペラ「修禅寺物語」の上演史については、先にこんな記事を書いていますので、まだの方はついでにどうぞ。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090505/p1

さて、オペラトークは神山彰さんの司会で、日本オペラ協会の大賀寛さん、坂田藤十郎さんが順にご登壇。何度か武智鉄二のことも話題に出ました。

でも、神山さんや大賀さんが直接ご存じなのは、東京での晩年の武智鉄二……。藤十郎さんも、オペラ「修禅寺物語」初演の頃は、武智のもとを「卒業」して「大人の芝居」をやっていて、武智鉄二とほとんど会っていなかったとのこと。残念ながら、初演の舞台について、具体的な話は出ませんでした。

(オペラ「修禅寺物語」をちゃんと調べようとしたら1954年秋の大阪での初演のことが欠かせないと思います。今では、初演の舞台をご存じなのは、演技指導をした鶴之助(現・中村富十郎)さんくらいかもしれません。どなたか、是非、お話を伺っておいて欲しいです!)

ただ、会場での配付資料に、日本オペラ協会公演パンフレットの武智鉄二の文章が含まれていて、これが大変興味深いものでした。1987年、武智鉄二が亡くなる前年に書いた文章です。

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オペラ「修禅寺物語」については、初演のパンフレット、清水脩が『音楽芸術』1955年4月号の合評座談会のために提出した覚え書、清水脩「わがオペラの軌跡」所収の文章などを見ましたが、この1987年の文章に出てくるエピソードは、今まで読んだことのないものでした。このオペラの上演史については、ある程度把握しているつもりだったのですが、この武智証言が本当だとしたら、今度は成立史のほうをもう一回考え直さないといけないかもしれない、そう思いました。

武智鉄二は、「昭和二十七年晩冬の頃」、安宅英一の仲介で筆の進まない清水脩と会うことになり、清水の要望で、「修禅寺物語」を全文(二代目左団次の新歌舞伎の様式を損なわないような息で)「本読み」したと言うのです。

清水脩と武智鉄二がどこで知り合ったのか、オペラ「修禅寺物語」の初演を武智が演出することになったのはどういう経緯だったのか、これまでに読んだ資料では曖昧だったのですが、そういう会見があったのだとしたら、話のつじつまが合いそうです。

関西歌劇団の初演パンフレットを読み返すと、このあたりの事情がこんな風に書かれています。

清水脩氏が『修禅寺物語』を歌劇に作曲されるという話は、大分前からきいていた。その後お目にかかって修禅寺の話をし合ってからも、もうずいぶん久しくなる。どうなったのかしらと思っていたころ、作曲が完成したから演出をするように、ということになった。5年にわたる労作である。

「その後お目にかかって修禅寺の話をし合って」というくだりが、昭和27(1952)年冬に清水脩の前で本読みをしたというエピソードに相当するのでしょう。書き方は曖昧ですが、三十年後の回想と矛盾する内容ではなさそうです。少なくとも、オペラ完成前に清水は武智と会っており、この出会いが武智への演出依頼につながったと思われます。

でも、それじゃあその場で、本当に「本読み」があったのか?

清水脩のほうも、少なくとも初演パンフレットの文章(「わがオペラの軌跡」に再録)では、このオペラの意図のひとつとして、

歌舞伎の伝統的な、完成された様式美、科白まわしの音楽的なリズム感、歌舞伎の芸術性をオペラという洋楽の様式の中へ完全に移しかえ、それとの結合をするということ

を挙げています。

「科白まわしの音楽的なリズム感」という言い方は、歌舞伎全般を新劇(「夕鶴」の原作になったような)などと比較した場合の一般論とも読めます。私もずっとそう思っていました。

でも、冷静に考えると、歌舞伎数百年の歴史、様式の変遷は、そう簡単に一般化して「大文字の歌舞伎」に要約することができるものではない。

そして、もし清水脩が武智鉄二の「本読み」を体験していたとしたら、もっと具体的に、歌舞伎としての「修禅寺物語」の科白まわし(の印象)を踏まえて、この歌劇が作曲された可能性が出てくるように思います。(一度の「本読み」だけで、清水脩がどこまでこの新歌舞伎作品の特徴や歌舞伎史のなかでの位置づけを把握しえたか、検討の余地が残るにしても。)

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ただ、清水脩の発言は、初演後、少しずつ力点が変わります。

東京公演後に「音楽芸術」へ提出した覚え書では、東京の上演で歌舞伎調演出がドビュッシー風の音楽と合わないと批判されたことを踏まえてなのか、「歌舞伎とオペラの融合」を匂わせる言い方が避けられています。

そしてのちの回想では、歌舞伎の公演を見ないで作曲したことを明言するようになります。例えば、

一旦、こうときめた[「修禅寺物語」に作曲しようと決めた]私は、それから毎日、くりかえしくりかえし読んだ。が、大概年一回は歌舞伎座などで上演されるにもかかわらず、私はあえて舞台を見ようとはしなかった。作曲の第一小節にペンをおろして五年、苦しみながら書き進めていった。その間、舞台上演は三、四回はあったと思う。だが、私は「誘惑」に対して執拗なまで抵抗した。

武智鉄二の1987年の証言が事実だとしたら、歌舞伎の「誘惑」を恐れていたはずの清水脩がどうして武智に全文を朗読させたのか。歌舞伎の「舞台」の影響を受けることは望まなかったけれど、「科白まわし」については歌舞伎を参考にしたということなのか?

そして武智鉄二の「本読み」はどのようなものだったのか? 前のエントリーで書いたように、武智は二期会での稽古でも顔合わせで「本読み」をやったそうですし、既に歌舞伎「修禅寺物語」を関西実験劇場(いわゆる「武智歌舞伎」)で演出したあとですから、本気で「本読み」をしたとすれば、左団次の様式と、黙阿弥や團十郎との違いを彼なりに意識したものであっただろうと思われます。(しかも藤十郎さんによると、武智演出の歌舞伎「修禅寺物語」公演では、左団次の1911年の初演でかつらを演じた市川壽海から演技指導を受けたそうです。武智鉄二も、このとき壽海から、左団次の演技様式や初演時の舞台について、具体的な情報を得ていたのではないでしょうか。)武智鉄二は何が左団次様式の特徴であると考えていたのか、そしてそれは、どのように「本読み」に反映されたのか?

さらに、そのあたりを踏まえてスコアを読み直したとき、清水脩のデクラメーションに、左団次様式の台詞回しを踏まえた特徴を見出すことができるのか、それとも、スコアに左団次様式の影響を認めることは難しいのか?

さらにさらに、武智鉄二は、清水脩の前で「本読み」をしたというエピソードを、何故、初演時には黙っていて、1987年になってから書いたのか?

武智鉄二は毀誉褒貶の激しい人なので、彼の仕事を評価しない人は、ひょっとすると、この「本読み」のエピソードをどうせ大げさな自慢、後日の作り話だろうと取り合わないのではないかと、ちょっと心配ではあります。でも、武智鉄二の1987年の文章は、会見のあった料亭の名前や当時の彼の体調などを詳細に述べて、記録を残そうとする意志を感じさせて、作り話にしてはあまりにもリアル。初演時にこの話を書かなかったのは、むしろ、自分が作曲を手伝ったというような、自慢に聞こえる話を遠慮して、作曲家に花を持たせた、ということではないかと、私には思えます。

(そして、もし清水脩の作曲したデクラメーションが、左団次様式の科白まわしとかけ離れたものになってしまっている(と武智が思った)としたら、今更、自分がかつて左団次風の「本読み」を作曲者に披露したことがある(のに……)と言いつのるのは野暮だ、と思ったかもしれない。)

「本読み」のエピソードは、こんな風に、このオペラの成り立ちについて、かなり色々な可能性を想像させる貴重な証言だと思いました。

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あと、清水脩の発言の揺れは、武智鉄二の「本読み」問題を離れて、それだけを取り出しても気になります。

清水脩は大阪のお寺の次男坊で、外語学校から作曲家(東京音楽学校)へ転身した変わり種。戦争中は、職場の合唱運動(厚生音楽)で音楽における総動員体制の旗振りの役回りをして、戦後はカワイの社長に迎えられた合唱界の重鎮。一筋縄でいかない経歴で、自作「修禅寺物語」に関する発言も、二枚腰、三枚腰。なかなかガードを下げない人だなあ、という印象を受けます。

また、「修禅寺物語」をめぐる発言が慎重で防御的なのは、1950年代の創作オペラをめぐる当時の騒然とした状況のせいではないか、とも思います。

1950年代の日本は、保守と左翼、旧世代と新世代、反米と親米が入り乱れて、まるでのちの東南アジアやアフリカの新興国みたいに揺れていたわけですが……、

創作オペラ運動=日本語でオペラを!という運動には、そんな国情に連動して本当に色々な立場の人が参入していたようです。

山田耕筰が皇紀二六〇〇年の歌劇「夜明け前」を「黒船」と改称して再演するかと思えば、團伊玖磨は、左翼系民話劇にもとづく「夕鶴」で着々と上演実績を重ねますし、関西では労音が二期会と提携して、委員会形式でのオペラ制作構想を発表して(結局は頓挫)、朝比奈隆の関西歌劇団が武智鉄二と組んで創作歌劇シリーズを開始。ラジオ・テレビの放送オペラの試みも色々とあったようです(「修禅寺物語」は関西初演がABC朝日放送でテレビ放映され、東京公演はラジオ中継。清水脩は、ひきつづき放送用のオペラをいくつか書いています)。

「修禅寺物語」を単独でみると、空海の創建とされる修禅寺における鎌倉二代将軍、頼家の悲劇ですから、いかにもストイックな中世武士の世界。面作師、夜叉王の芸術至上主義は、運慶・快慶らの鎌倉仏教美術の連想で、一種のルネサンスの息吹きを感じさせますし、頼家とかつらは「新しい恋」をまっとうしようとします。静謐な古典詩劇の佇まいです。

でも、初演時には、労音系の評論家から「物語が封建的である」(「封建的」はご存じのように戦後民主主義が旧弊を批判する殺し文句でした)との批判が出たりもしていますし、あちこちと闘わなければならない状況があったようです。作曲家としては、普遍妥当的な原理原則を言うだけでは済まず、状況に応じた発言をせねばならなかったのかもしれません。

そういう意味でも、オペラ「修禅寺物語」の周辺を探るのは、なかなか面白そうです。

私自身は、清水脩のことをこれ以上調べる余裕はなさそうですが、歌舞伎とオペラと戦後日本の作曲に関心のある人は、どなたか本格的に「修禅寺物語」と取り組んでみてはどうでしょうか?

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なお、「本読み」や日本語による朗読、芝居の科白まわしについては、最近聴いたこのCDが面白かったです。(アマゾンで試聴も可能。)

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坪内逍遥による「ハムレット」と「ヴェニスの商人」の朗読(文芸協会のハムレットは、水村美苗が大好きだという夏目漱石「三四郎」にも言及あり)、さまざまな詩人による詩、和歌、俳句の朗誦などが入っています。(作曲家、池内友次郎のお父さん、高浜虚子の声も収録されています。)明治以後の文学者は、詩や演劇の日本語を、新劇調・口語体に回収できない抑揚で身体化していたようなのです。

日本語のオペラのデクラメーションをどうするか、という問題は、このような「日本語の音」の多様性を背景にして、日本語の西洋音階、西洋リズムの型にはまらないイントネーションが生きていた時代の議論として、考えられるべきことなのだろうと思います。

歌舞伎の科白まわしということでは、

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二代目市川左団次の「鳥辺山心中」は、真っ直ぐに押して、寄り切ってしまうような語り口。

歌舞伎の独特の科白まわしというと、漠然とイメージするのは弁天小僧の派手な名乗り(知らさあ言って聞かせやしょう)。あるいは同じ河竹黙阿弥の「三人吉三」の七五調(月も朧に白魚の……こいつあ春から延喜がいいわえ)だと思いますが、左団次の新歌舞伎は、科白まわしのリズムがはっきり違いますね。

「勧進帳」の畳みかける山伏問答は、聞いていると、ベートーヴェンみたいにやればオペラになるかも?と思ってしまいます。歌舞伎とオペラの融合というアイデアは、ひょっとするとこういう素朴な連想と無縁ではなかったのかも……。

演じられた近代―“国民”の身体とパフォーマンス

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