いただきもの2冊(吉田寛『ヴァーグナーのドイツ』と長木誠司『戦後の音楽』における関西歌劇団・大栗裕で、奇しくも両方オペラ関係、私の感想は、奇しくも両方「音楽研究における作者の自白主義」への留保)

[10/30 真ん中当たりの大栗裕自筆資料のいわゆる「いいかげんさ」問題について、色々加筆・修正を重ねています。最後にも若干の追記あり。]

昨日と今日と一冊ずつ本が自宅へ届きました。

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

戦後の音楽――芸術音楽のポリティクスとポエティクス

戦後の音楽――芸術音楽のポリティクスとポエティクス

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吉田さんから「何かの機会にお目通し頂ければ幸いです。」とメッセージを添えてワーグナーの本を頂いてしまうと、店の中で騒いでお金をせしめとるゴロツキみたいなことになってしまいますが……、白石にモノを送っても別に良いことはない、という事態を公然化するしかないと思いますので、ひとまず、著者から送られてきた物体が一冊ここにあるという事実のみ、ここに書かせて頂きます。

ワーグナーの住む土地は、自由都市や王国が乱立していたけれども、政体として国民国家が誕生したのは(ドイツ帝国が国民国家であるとして)彼の後半生になってからだということになるらしいので、「ドイツ」という言葉が(現実の、あるいは建設されるべき)「国家」以外の何かを指す自由度を有していたのはむしろ言われてみれば当然で、この本は、「自白主義」と言うべきか、主にワーグナー自身の著作から、この単語を音楽に関連づける用例の変遷を追っていて、その変遷が一冊の本になるほど波瀾万丈だというだけでも、ワーグナーがこの単語を音楽の文脈に導入することによる喚起力から様々な可能性を汲み取る人だったことが推察されますが、

「ヴァーグナーが生きた時代と場所に密着」(30頁)しようとすると(著者は「ヴァーグナーに密着」ではなくその「時代と場所に密着」と言っているので、本人の「自白」を調書にまとめるだけで終わるとは思えず)、「ドイツ」という言葉をめぐるワーグナーの著作と活動の活気が彼固有のことだったのか、1830年頃から急速に饒舌になった言論出版の格好の「ネタ」だったということなのか、あるいは、当時は誰もが「様々なドイツ」を語り合っていたのか、あるいは19世紀以前から引き継がれた何かがあったのか……等々、次から次へと知りたいことが浮かびます。

(スイスへの「亡命」も、「ドイツ」という概念が地理的な場所に特定されずに拡散するうえで大事な契機のひとつとされているけれども、近代国家成立以前の「亡命」がどういう行為だったのか、たぶんラフマニノフが合衆国へ逃亡したのとは違う感覚だったろうと思うのですが、私はヨーロッパの当時の旅券制度とかをよく知らず、いまひとつ「時代と場所に密着」してイメージすることができなかったりします……。)

「音楽における“ドイツ的なもの”のルネサンスから数百年にわたる歴史的考察」の全貌を私は知らないので、そうした諸々のうちのどれくらいが著者の射程内なのか、射程外なのか、何をどう裁いて、無限に広がりそうな事案(この記事の後半で扱っている大栗裕という一介の地方音楽家の足跡ですら「時代と場所に密着」すると話が途方もなく広がるのですから生前から著名人だったワーグナーを本気で「一次資料」で調査したらどんなことになるのか見当もつかず、ましてルネサンスから19世紀までの数百年をすべてとは!)がひとつの論考に収まり得たかは、よくわかりません。(10/31追記:改めて思い返すと、ワーグナーに関する本書は、先行研究を整理する手つきについては、ちょうど少し前の国際コンクールを席巻した若手日本人ソリストの緻密な演奏みたいに、ほぼ限界を極めたと思えるほど高精度で鮮やかではあるのだけれども、事実認定に関してはほぼワーグナーの著作と作品と既存研究に依拠しており、思索・研究の途上で何らかの疑問が浮かんで自ら「一次資料」を探索・調査した、というような痕跡を少なくとも私は見つけることができなかったので、「音楽におけるドイツ的なもの」をめぐる議論の展開上必要であるにもかかわらずワーグナーほど先行研究の厚味がない論点を著者がどう処理したのか、読む前から心配になってしまうところではあるのですが、「音楽学者」ではなく「美学者」だから書斎の外に出る必要はない、ということになるのでしょうか。テーマ自体が、promotionにはオーバースペック気味に大きく、ドイツには制度として存在する教授資格論文として考えても、音楽学的にデカすぎる話であって、だから私は、吉田さんが、むしろ逆に「美学者」であることに居直り、これを読んだらもはや「ドイツ音楽」について何かを言ったり書いたりする気持ちが萎えてしまって、明治以来の教養主義的ドイツ音楽語りの伝統が消滅してしまうハルマゲドン的最終兵器を構想し、書き上げたのかと思っていたのですけれど。)

ワーグナーはとにかく書いた文章が膨大で、その周囲には、(ここではあまり出てきませんけれどもニーチェとかヘーゲルとか)同じかそれ以上に大きな本をたくさん書いた人が色々いて、全部お読みになったのでしょうからとんでもない労作だとは思いますが。

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もう一冊、長木さんが『レコード芸術』の連載をまとめた新著を送ってくださったのは率直にびっくりしたのですが、以前、長木さんが大阪音大にいらっしゃったときに大栗文庫のオペラ関係資料をご案内させていただいたことがありまして、本には、そのときの調査をもとに、大栗裕と関西歌劇団の項目(272-275頁)が書き足されていました。そのご縁ということのようです。かえって恐縮しております。

(なお、あとがきでわたくしの名前が間違っておりますが、長木さんから既にご連絡をいただいており、2刷りが出たら直すことができるとのことでしたので、ちょっと高価な本ですが、重版を目標にして、皆さん買いましょう。)

とりあえずここでは、その「第四章 戦後のオペラ」に加筆された一節「関西歌劇団の挑戦」の3頁について。

「赤い陣羽織」と「夫婦善哉」の譜例が出ていて、ここにかぎらず、この本の譜例のサイズは、レコ芸連載時よりも大きく、ちゃんと中身を読めるサイズなので、これだけでも貴重。「夫婦善哉」の譜面が(譜例とはいえ)印刷・出版して一般にアクセス可能な場に出たのは、これが初めてではないかと思います。

で、せっかくの機会なので、気の付いたことをいくつかメモします。

一九五三年に中村扇雀との『曽根崎心中』によって……(272頁下段)

扇雀(現・坂田藤十郎)さんを武智鉄二が見出し、育てたのは確かですが、扇雀ブームに火を付けた松竹の「曽根崎心中」(ちなみに、脚色は同じ頁の上段に清水脩「炭焼姫」の脚本家としても名前が出てくる宇野信夫)には、武智鉄二は関わっていなかったと思います。(武智鉄二がのちに扇雀とやった対談で、「あなたは、お初よりも、武智歌舞伎でやった「合邦」の玉出御前がさらにすばらしかった」と発言していたのを読んだ記憶があります。)

これ[清水脩「修禅寺物語」]は文部省芸術祭参加の特別公演であり、(同上)

もちろん長木さんもご存じだと思いますが、当時の芸術祭に大阪の公演が参加することはあり得ず、『芸術祭三十年史』で参加主体は「朝日放送」になっているので、放送による参加だったようですね。[10/30追記:放送音楽の章の最後に、放送局の芸術祭参加作品一覧があることに、あとで気づきました(「修禅寺物語」は456頁)。失礼しました。]

朝日放送の年史によると、「朝日放送3周年記念番組 オペラ「修禅寺物語」54.11.18 木 23:00〜24:00 洋楽部門 芸術祭賞」。ABC開局三周年記念を謳った朝日会館の公演は11月5〜7日ですが、11月18日の放送はライヴ録音だったのか、それとも、別に放送用に収録したのでしょうか?

[関西歌劇団は]同年六月の芝祐久《白狐の湯》と大栗裕《赤い陣羽織》の二本立て初演によって、「創作オペラ」シリーズを開始する。(同上)

「創作オペラ」という言葉が、二期会と大阪労音の提携企画などでタームとして定着しそうな雰囲気だった時代ですけれど、ものすごく細かいことを言うと、関西歌劇団の武智鉄二演出による一連の公演は、いちおう「創作歌劇」という表記ではじまったみたいです。

プログラムが歌舞伎風に縦書きで、「国民演劇を」という言葉が踊っていて、内容も谷崎ものと狂言調なので、当初は“歌劇”という言葉がしっくりくるシリーズだったようです。音楽雑誌などでは「創作オペラ」と書かれたりしていますし、関西歌劇団自身も、そのうち「創作オペラ」と表記するようになるので、すごく微妙な話ですが。

第1幕第2場(273頁上段)、第2幕(274頁上段)

この件はまだ経緯を資料でちゃんと調べたわけではないですが、「赤い陣羽織」は常に1幕3場として上演されますので、第1幕/第2幕の区別は紙の上だけと考えざるをえないのかな、と私は今のところ思っております。(関西歌劇団の創作歌劇というシリーズの理念も、「1時間の一幕物」をたくさん作る、というところからスタートして、「赤い陣羽織」はその最初のサンプルとして世に送り出された作品ですし……。)

長木さんの表記は「赤い陣羽織」の譜面の表記に依拠したのだと思うのですが(自筆スコアも、各場に「Act. I Scene 1」、「Act. I Scene 2」、「Act. II」と書いてある)、大栗裕の楽譜は、特にタイトルなどが初演以後、パブリックに流通している認識と一致していない場合が頻出します。現場で(稽古中などに)何か変更があっても総譜に反映させないまま放置されることがあったようです。(総譜をこの段階では指揮者=ほとんどの場合朝比奈隆が持っていて、もはや作曲家が細かく手元で直せなかったという事情もあるかもしれませんし。)

いわゆる「原典主義」、作曲家肉筆楽譜の最終段階(草稿なり清書稿なりの最終段階)を最優先するアプローチは、「ベーレンライター版によるベートーヴェン交響曲全曲演奏」とか、「自筆譜をもとに削除箇所を復活!」とか、音楽学の資料研究が音楽市場に影響力を行使して存在感をアピールする格好の「ネタ」ではありますが、大栗裕の場合は、(もちろん調査をそこからスタートしなければならないわけではありますが)調査をそこで止めて、これを「最終審級」(判決)にしてしまうと、どうにもおかしなことになりそうなのです。

  • 大栗裕のいた環境では(関西歌劇団にせよ放送局にせよ)、最優先・最重要課題は舞台の幕を開けること、完品を「オン・エア」することであり、そうやってお客さんに届いたものこそが「作品」だった。
  • 楽譜は、あくまで上演の準備途上の「舞台裏」のマテリアルに過ぎず、しかも、作曲家が逐一最新の状態にアップデートできる環境ではなかった可能性がある。
  • もちろん、楽譜の音楽情報、「譜面」は、プレイヤーが理解できるように明確に書かれている。
  • けれども、外題・演奏順などの周辺情報は、作曲家に最終決定権があったとは思われず、楽譜には、作曲・準備段階での「とりあえず仮に」の情報が書いてあるに過ぎない場合が少なくない。
  • 様々な修正は、総譜ではなくパート譜(これを使ってプレイヤーが本番に臨んだ)のほうが詳しい場合も少なくない。従ってパート譜は、譜面自体は作曲家の自筆ではないけれども、決しておろそかにしてはならない。

こんなところが、大栗裕の譜面を扱うときの心構えになるのかなあ、と思っております。「赤い陣羽織」の場合は、幕構成が大栗文庫のスコアもパート譜も全2幕になっているので、

  • 最終的には、楽譜だけでは真相不明、他の資料に当たらなければわからないことも少なくない。

ということになるのですけれど。

以下、余談:長木さんはそうではないと思いますが、クラシック音楽が上品で行儀の良い世界であって欲しいと思う方のなかには、大栗裕の楽譜のこうした「混乱/いいかげんさ」に眉をしかめる方もいらっしゃるようです。

(あと、これも長木さんとは別件ですが、作曲家の自筆譜という「モノ」を、あたかも美術品、書画骨董に準じた「文化遺産」に認定してもらおうとする動きもあるようですね。

そうした場合、展示物としての体裁が重要ということなのか、関係者は、自筆譜の「モノ」としての状態に拘泥されるようで……、大栗裕の譜面がゴチャゴチャした状態にあることは当惑の対象、扱いに困ってしまわれるようです。そもそも自筆譜を骨董的文化遺産としてお金をゲットする「戦略」は、音楽研究の本筋とはちょっと違うのではないかという気もしますが、それはともかく、その種の需要への対策を考えなければいけないのかなあ、とは思っています。)

「お行儀の悪さ」と判定されてしまいかねないことへの対策は、色々なパターンが考えられると思いますが、

(1) これまでいわゆる「大阪人」が一般にやってきたとされる処世術は、面倒を避けて、「すんまへんなあ」とポリポリ頭をかきながら謝ってしまう、というもの。

大阪の民間人のやることは、東京のキチッとした感覚にフィットしない、大阪という「文化のタンツボ」はそういうところである、というイメージを自ら振りまきつつ、そのイメージの乗っかってしまう、というやり方です。

「大阪学」等として、この「創出された伝統」が商売にもなったので、一世代前までは、たいてい、この「大阪人」の仮面を被って、腰を低くして、最後に「どうかひとつ!」と言って乗り切ってきたような気がします。

(2) でも、たぶん作曲家としての大栗裕を弁護すれば、オケマン出身で、「建物が設計図どおりに建つわけがない」という現場の職人感覚、と見なすこともできるか、とは思います。

ついでに言えば、演出の武智鉄二も、コンクリート・パイルの建設会社の息子ですし……。指揮技術が高くないとされる朝比奈隆は、そのあたりの細かいことを現場に任せる元締め。

(3) そしてさらに大きく出て、オペラ論として考えると、融通無碍に上演を作っていく姿勢は、むしろ、こっちのほうが劇場の本性に素直に寄りそうやり方だと、開き直ることも不可能ではないかもしれません。

「イタリア・オペラも、そういうエエカゲンなとこ、あるやないですか(笑)。芝居っちゅうのはこーゆーもんでっせ」と切り返す考え方です。

L. K. Gerhartz(Dahlhausのイタリア・オペラ論のネタ元らしいと、昔、岡田暁生に教えてもらった)が40年以上前の1968年にヴェルディ初期に関して、オペラにはドイツ器楽とは別の詩学があることを素描していますし、最近では山田高誌さんが、ナポリのレチタティーヴォを専門に書く職人たちの実態を資料をもとに明らかにしています。レチタティーヴォが、著名作曲家の書くアリアの単なるつなぎではなく、お芝居としてのオペラを成り立たせる重要な要素だったことを改めて考えたほうがいいし、音楽(periodicalに構造化されたような)に特化した人間だけで舞台の幕を開けることはできなかった、ということだと思います。そして岡田暁生『オペラの運命』は、そうしたヨーロッパ型の「歌い演じる劇場」の興亡・盛衰を綴ろうとした本だったのだと思います。

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

たしかにイタリア・オペラにはヴェルディ/トスカニーニ/ムーティという劇場の惰性を排した全体設計重視の改革の系譜もありますがそれはともかく、このイタリア風のやり方のほうが、劇場芸能としては汎用性が高く、他の劇場パフォーマンスや他の地域の音楽劇とも共通点を見つけやすいのではないでしょうか。

関西も、そういう劇場文化が前近代からずっとある地域なのだと、ひとまず主張しうるような気がします。関西歌劇団には、歌舞伎や狂言、宝塚や松竹のレヴュー、映画撮影所、放送局といった興行界と共通の人脈が出入りしていたわけですし。

  • 楽譜は単なる設計図、芝居はナマモノ
  • 歌・オケ・演出・美術は全部分業。(各部署にコワ〜イ親方がいる。そういえばその昔、大阪の朝日会館の美術には若き日の妹尾河童もいたのだとか。)
  • 音楽(作曲)はパフォーマンスの一要素、one of themに過ぎない。(各方面に気持ちよくやっていただくためには調整・ネゴも大切な仕事。)
  • 指揮者はスタッフのone of themに過ぎない。(ただし、ちゃんとしてくれないと外聞・見栄えが悪いし、みんなやる気をなくしてしまうので、あまりペコペコしすぎない方向で。)
  • 歌手は同時に役者。歌と演技は同等の重み。オペラ歌手は「女優」。(そういえば、一世を風靡した佐藤しのぶさんも大阪・高槻のご出身なんですよね。)

劇場音楽や放送音楽(そして大栗裕はほとんどやっていないけれども映画音楽)は、「原典主義」や「自筆譜=文化遺産」大作戦とは相性が悪いということです。

そしてその種の「作曲家&原典」崇拝にぴったりの劇場音楽といえばワーグナーなわけですが、ドイツの片田舎に神殿を造ったワーグナーの未来型総合芸術のほうが、劇場の在り方としては特殊なわけですよね。(岡田暁生はオペラのドラマトゥルギーを非アリストテレス演劇と呼んでいましたが、プラトン大嫌いでディオニソスの演劇を夢想したニーチェもワーグナーから離れていったわけで……。)前近代からの都市にはイタリア・タイプが自然だけれども、近代のトップダウン開発にはワーグナー・タイプがなじむ。東京に明治になってから乗り込んできた藩閥系教養人(の末裔の皆様)のワーグナー好きとか、国家の威信を賭けた中国のイベントのワーグナー上演は、そういう風に整理できるんじゃないでしょうか。

作曲家が口々に「楽劇」風オペラ観を語り合っていた東京の環境だと信じられないかもしれませんが、たぶん関西の劇場環境には、作曲家が劇場のあらゆる細部を管理・掌握するワーグナー流とは水と油なところがあって、東国から「プリンス沼尻」(笑)が来るまで、ほぼワーグナーが関西で皆無だったのは偶然ではないのかもしれませんね。

おやじが孫太郎を呼ぶときの軽妙なシンコペーション的リズム(273頁下段)

これは私の勝手な意見ですが、「こら g-f」「孫太郎 f-g-g-g-g」「こっち c-d」「向かんか g-a-a-a」「てめえは c-d-d」「どうも d-c-c」などなど、ほぼすべての単語において、二音節目で音が動く(音程が変わる)のが大栗裕の科白まわしの特徴であるようです。「二字目起こし」風なのです。(これはその後もずーっとそうです。)武智鉄二が細かく節回しをチェックしたと伝えられていて、武智鉄二にとっても、思うように新作をゼロから作る絶好の機会なので、芝居風(狂言の精神を応用したような)のイントネーションを徹底的に大栗裕にインストールした結果がこの作品の声楽パートなのではないかと思っています。

(大栗裕の二字目起こしについては、こちらもどうぞ。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101109/p1

重唱などのオペラ独特の手法は、やはりこの作品でもほとんど採り入れられていない。(274頁上段)

これは、実は前の頁でご指摘の庄屋とお代官のやりとりなどがまさにそうで、声と声が絡む重唱は確かにないのですが、でも、舞台を実際に見ると、ちゃんとお芝居が成立してしまっています。なにやら面白げに囃し立てる音楽に乗せて、細かい所作・段取りで人物たちのカラミがあります。カラミの芝居にぴったり合うように音楽が書いてあって、作品としてはこれで十分、というものではあるようです。

音楽が貧しいとの團伊玖磨の批判があるわけですが、たぶん、「音楽が主体でなければならない」という風に発想していない作品なのだと思います。(関西歌劇団は、いわば、「歌劇」の団であると同時に、歌う「劇団」でもあったと思われ、それは目指す方向が違うというだけで、團伊玖磨の一言で否定される筋合いのものではない。理念の水準ではそう言えるのではないでしょうか。実際にその路線が成功したかどうかと考えると、また色々な論点が出てくるとは思いますが。)

武智鉄二は、文楽における太夫と太棹の緊張関係(太夫は、太棹の「糸に乗る」ようではダメ、とされているらしいのです)を歌手とオーケストラでやってみたかったのかもしれませんね。そうやって、いわば音楽を抑圧するのが、たぶん「赤い陣羽織」や「夫婦善哉」の一番挑発的なところで、大栗裕のその後の歌劇がメロディアスになっていくのは、武智鉄二の呪縛が解けた、ということなのかな、と思います。

「いつでも音楽が主役でなければいけない、なんて言ってる奴はビョーキだ、イイカゲンに夢から覚めろ!」とモダニストでアヴァンギャルドの武智鉄二は考えていたに違いなく、それは、音楽門外漢の演出家の無理解というよりも、案外、そこらの中途半端な音楽家・作曲家よりも、20世紀の音楽劇の動向を的確に把握した発想だったと私は思っています。

(ベル・カントで整理された重唱を書くための作曲家としてのトレーニングを大栗裕が受けていないのは、確かだと思いますが。)

この作品[「夫婦善哉」]は大阪弁を用いた現代的な日常生活を描く(274頁上段)

映画「夫婦善哉」もご覧になっているはずなので、ご存じとは思いますが、時代は大正末から昭和初期で、上演時の昭和32年から見ても既に、同時代というより四半世紀前。記憶は鮮明だけれども急速に失われつつあるような風俗に焦点を当てた歌劇だったようです。

(30年前の風俗を回顧するというと、2000年代に「バブルへGO!」を作るくらいの微妙な距離感ですが、もともとの小説が日華事変後・太平洋戦争直前に昭和初期のことさら「古め」の下町情緒の懐かしさを強調して描いており、昭和30年代の映画版&歌劇版「夫婦善哉」は、原作にある懐古調を、昭和初期の街並みの再現などによって増幅して作られていると思います。だから「現代的な日常生活」と言われると、ちょっと違和感があるような……。)

で、どこの言葉であろうとそうだと思いますが、下町の天麩羅屋の夫婦が言い争うのと、その二人が実の娘にあれこれ言いつけるのと、娘と恋仲の大店の御曹司に挨拶するのでは調子が変わるし、好き合って暮らしてる男女の会話はまた雰囲気が違ってくるし、そのあたりにフェティッシュにこだわりたかった作品なのだろうと思います。だから歌手パートの記譜法が細かくなっていったのではないでしょうか。この科白をどういう風に言わせようか、と細かく知恵を絞っている感じで。

大阪弁で書く、という大枠だけではなくて、ネイティヴな言葉を採用することで可能になる「写実」の芝居。

大栗自身が失敗作であったことを認めている。(275頁上段)

さきほどの、楽譜が作品の「決定版」ではない、というのとも関わりますが、大栗裕のことは、「自白」の調書を取る、「自白」こそが決め手である、という手法では上手くいかないような気が最近しつつあります。

オペラにおいて、何をもって「成功/失敗」を言うかと考えたときに、たしかに日本のオペラは、ずーっと採算度外視で、公演は一回きりで、だから、いわゆる「作品そのもの」の品質で善し悪しを言うしかなかったわけですけれども(「音楽藝術」の作品合評会はまさにそういうことですよね、作曲家同士で、あれはよかった、あれはダメだ、と言い合うしかなかった)、

昭和30年頃の関西歌劇団は、どうも、本気で興行を成立させよう、いつかは(歌舞伎や、宝塚・松竹のレビューのように)儲けを出すところへ持っていこうと夢みていたフシがあります。霞を食べて芸術をやっているというのではなく、オーケストラ部門に続いて、「朝比奈・関響」という会社が新規事業を立ち上げた、という風に思えるのです。(前にも書きましたが、関西歌劇団は、初期の「研究公演」時代は入場料を格安にしていて、武智鉄二を招いた1954年4月の正式に関西歌劇団を名乗ったときに、はじめて、オーケストラ演奏会より高い料金を設定しました。これからは、本気で商売しまっせ、と言わんばかりに。)

で、「夫婦善哉」を作曲者が、失敗作だ、と書くのは、もちろん、内容的な不満ということがあるとは思いますけれど、沈んだトーンで敗戦の弁を語らなければならなかった大前提は、要するに当たらなかった、「赤い陣羽織」(再演がずっと続いていました)のような興行成績を上げることができなかった、ということだと思います。

もちろん実際には、歌劇は(武智鉄二がやったような小さな作品であっても)金食い虫で、収益は期待できなくて、すぐにそんな風に考えられる状況でなくなっていくわけですけれど、ちょうど浅草オペラ出身の藤原義江や、藤原義江が高く評価していたらしい立川澄人がそうであったように、この時期の関西歌劇団の人たちは本気でオペラで食っていこうとしていたし、大栗裕が謙遜したり、反省したりするのも、そういう文脈での話じゃないかという気がします。

それから、

注32 大栗裕「創作オペラ『夫婦善哉』をめぐって」、『音楽芸術』一九五七年七月号、九四-九八頁(501頁上段)

『音楽芸術』該当号該当箇所の「創作オペラ『夫婦善哉』をめぐって」という記事は、上野晃、柴田仁、菅野浩和の鼎談で、大栗裕は参加していないですね。

上野晃は、ご存じのとおり、この直後に登場した松下眞一と一緒に関西の「前衛音楽」運動を推進した人で、大栗裕の戦前風のスタイルにはデビュー以来批判的だけれども、その辛口評を作曲者は割合率直に受け止めていたフシがあります。大栗裕は上野の批判を踏まえつつそれに答えるような文章を残したりしていますし、上野・松下らの「現代音楽研究所」に参加して、そこに表現主義風の無調の歌曲「擣衣」(1959)を出品しました。彼は彼なりに、評論家の批判をクリアする音楽を書こうとしていたようです。

柴田仁は、夕刊紙音楽担当記者から、のちに独立して音楽評論家になった人(故人)。業界事情通で庶民派・人道派。朝比奈・関響と武智鉄二の結託を大企業の市場独占に見立てて批判したり、事務局と楽員の関係を労使対立風に報道したりしていますが、同時に、『音楽の友』に大栗裕を紹介する記事も書いています。

上野、柴田両氏とも作曲者に近く、少なくとも当時は、本音をぶつけながら関西楽壇を盛り立てていこう、という連帯意識をもっていたと思われます。

以上、「夫婦善哉」についての初演当時のジャーナリズムでの論評は、そのあたりの話者の立ち位置込みを踏まえると、読みが立体的になるかな、と思いましたのでご参考まで。

[11/10追記]

大栗のオペラは、むしろこのあと《飛鳥》から一九七四年の《ポセイドンッ仮面祭》にいたるまで、こうした地方色とは無縁になっていく。(275頁上段)

私もそうなのかな、と思っていたのですが、その後、「飛鳥」(1967)と「地獄変」(1968/1970)、特に後者を調べて、むしろこれらは、上方の歴史劇だと考えるようになりました。

「飛鳥」は「走れメロス」の舞台を上代奈良に置き換えて、大臣の命令で巨大建築のための苦役を強いられる民衆の姿に、現代(当時)の急速な都市開発への批判を滲ませる設定になっています。

また「地獄変」はそもそもが平安朝の京の都の物語で、生田流の箏の演奏を採り入れて、1970年万博での公演は、狂言の茂山千之丞さんの演出、絵師・良秀の絵は京都の日本画家に依頼して、上方カラーを打ち出したようです。

古代史への関心は、上方こそが「中央」であった時代へ思いを馳せることだったのではないか。そう考えると、むしろこの2つの作品は、やや大風呂敷を広げれば、そもそも明治以後の「東京=中央/関西=地方(のひとつ)」という図式を受け入れない歌劇だと言えるかもしれません。

[11/10追記おわり]

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とはいえ、こんな「ケッタイな」(変な)西国のローカル集団の話を3ページ半にわたって書いてくださるとは。素直に驚いている今日この頃でございます。

参考:大栗裕のオペラ概観はこちら。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100211/p1。他に、大栗裕の歌劇・声楽の節付けの特徴についての考察(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101109/p1)、関西歌劇団での配役についての考察(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101103/p1)も、あわせてご参照ください。

[追記 10/30]

他の部分も少し読んだので、関西関連を補足。

またここ[朝日会館]は一九六三年以降、松下眞一などが中心となる「大阪の秋」現代音楽祭の会場ともなった。(14頁下段)

「戦後の音楽」の大著が東京の空襲を経て残った建物、なくなってしまった建物の話からはじまるのは(ウォーナー・リストの話を本当に信じていいのかどうかはともかく)かっちょよくて、そのあとに大阪のホール事情の話が添えられているのですが、惜しい。

「大阪の秋」音楽祭の会場は、初期は(1962年の松下眞一による幻の1回を含めて)本町の御堂会館、のちに大阪厚生年金会館へ移ったようです。

御堂筋の名前の由来は西本願寺派津村別院「北御堂」と、大谷派難波別院「南御堂」があったことで、現在の建物と同じものを指しているとしたら、御堂会館は大谷派のほうの集会施設だと思います。肥後橋の朝日会館よりもかなり南東です。

朝日会館はフェスティバルホールができた1958年から、コンサートホールとしてほとんど使われなくなったようです。

朝日新聞社がまずもって応援しようとしたのは吹奏楽だった。新しい時代を画す器楽の優位は、ここにも読み取れる。(73頁)

事実関係として、朝日新聞社は戦前から吹奏楽を支援していて、それはどうやら自社主催の中等野球大会の応援盛り上げの意図があったようです。「吹奏楽ができるまで(戦後復興するまで)とりあえず合唱を」という朝日幹部の発言は、そこを踏まえた可能性がありはしないでしょうか。

もうひとつ、アマチュア音楽サークルとしての吹奏楽vs合唱で見逃せないのは、吹奏楽のほうは、楽譜さえあれば「身ひとつ」でできてしまう合唱と違って設備(楽器など)が必要で、ぶっちゃけ、音楽産業にとって儲かる、ということがあったのではないでしょうか?

直後に、「戦前から[……]職業としての吹奏楽ないしブラスバンドは、合唱など比べものにならないほど普及していたし」とのご指摘がありますが、確かに軍楽隊から民間音楽隊やジンタまで視野に入れると、吹奏楽は「黒船以来」の洋楽受容のメインストリームのひとつだと思うので、アマチュア音楽として「吹奏楽vs合唱」と横並びの現象であるかのように考えるのは、たしかに「うっかりそう思ってしまいがちな現代の思いこみ」(←渡辺裕風の言い回し)かと思います。

でも、それを言うなら、合唱のほうにも戦前からの流れがあったはずだし、そうでなければ、戦時中の巨大な交声曲は難しかったのではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

グリー・クラブとか女学校とか、あと、戦前から存在したプロの合唱団ということでは、放送合唱団とか……。戦前から合唱をやっていた人たちは誇り高くて、音楽ソサエティへの愛着の強い人が多いような気もしますが。

[写真キャプション]大阪千里丘の新日本放送、総合新スタジオ(154頁)

NJB新日本放送(ラジオ)、OTV大阪テレビ、MBS毎日放送、ABC朝日放送の関係は落ち着いて調べないとややこしいのですが、万博会場予定地を北へ望む千里丘の高台に最先端設備の総合新スタジオができた1960年には、既にNJBはなく、ラジオもテレビもMBS毎日放送になっていたようです。[NJB新日本放送は1958年6月には既にMBS毎日放送へ商号を変更しています。1959年2月のOTV解散を受けて翌3月からテレビ放送を開始。]

武満徹がミュージック・コンクレートをやったNJB新日本放送は、千里丘の広大な設備ではなく、大阪駅そばの阪急デパート屋上にありました。[1959年から開始したテレビ放送のスタジオは、千里丘に移転するまでは四ツ橋の毎日会館内。]

なお、MBS毎日放送は、千里丘の新社屋に移ってからのテレビ中心時代にも東京から人を招いて大きな芸術大作企画をやっていて、武満徹はそっちにも絡んでいたようですね。

(で、放送の関東・関西の違いは、これもちゃんと考えようとするとややこしいことだと思いますが、加えて有名な新聞社系列のねじれがあって、NJB/MBSは毎日新聞系、ABCは朝日新聞系ですが、関東とのネットワークは、ご存じの通り、70年代半ばまではABC朝日放送がTBS東京放送系列、MBS毎日放送がNET系列でした。ABCやMBSの制作番組のうち、どれくらいが関東でも放送されていたのかというのは、……いつか調べなければと思っているのですが、今は私はあまりよくわかっていません。

戦後の話を、メディアが東京一極集中していたバイアスを解きほぐしながら整理するのは、やっぱりかなり面倒そうですね……。)

ザ・テレビ欄0 1954~1974

ザ・テレビ欄0 1954~1974

  • 作者: テレビ欄研究会
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テレビといえば新聞の番組欄。毎年4月・10月第2週の新聞テレビ欄。音楽番組のような単発ものは漏れてしまいますが、「何曜日の何時」という枠の意識がテレビ・ライフの基本だったことを再確認させられて、見事な企画ですね。
ザ・テレビ欄 大阪版 1964〜1973

ザ・テレビ欄 大阪版 1964〜1973

  • 作者: テレビ欄研究会
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大阪版もあり。NHKは「2チャンネル」、よみうりは「10チャンネル」、やはりこうでなければ感じが出ない。