都市は学生を生意気にする:関西編(大阪放送管弦楽団や宝塚交響楽団を当時の学生はどう思っていたのだろう)

明治の作曲家たちが、どうしてみんな、揃いもそろって少年期を関西で過ごしているのか問題(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120906/p1)に、すぐに手がかりは見つかりそうにないので、その次の大正末から昭和初期について、メッテルの評伝を読み直して思いついたことを書いてみます。

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ロシア革命でハルビンへ亡命したエマヌエル・メッテルが1926年3月に来日したのは、大阪の放送局(JOBK、1925年6月1日開局)のオーケストラの指揮者としてだったようです。このオーケストラは、大阪フィルハーモニック・オーケストラ(というのがあった)のメンバーなどから選抜して、東京音楽学校のハインリッヒ・ヴェルクマイスターが指導するはずだったのが、ヴェルクマイスターは1926年早々に日本を離れてしまい、メッテルはその後任。

メッテルが指揮していたハルビン交響楽団のメンバーは日露交歓交響管弦楽演奏会(1925年4月26〜29日)にも参加していたので、この人ならやってくれる、ということだったのでしょう。

で、これとあわせてメッテルの奥さんエレナ・オソフスカヤは、メッテルがカザフの歌劇場で知り合ったバレリーナで、メッテル来日より先に1925年秋には宝塚音楽学校のバレエ教師の職を得ていたみたい。新しくできた放送局の指揮者と、宝塚の先生が夫婦だったんですね。

宝塚というと、ヨーゼフ・ラスカ(1923年から1935年まで関西在住)を招いてオーケストラの演奏会もやっていて、この時期の関西のプロのオーケストラの拠点のひとつだったことは、根岸先生がお調べになった通り。

大正から昭和の変わり目、東京でもオーケストラをやろうと盛り上がりはじめていたときに、関西でプロの管弦楽を持っていたのは、放送局とタカラヅカの2つで、夫婦でそれぞれに関わっていたのですから、当時のメッテルの存在感は大変なものだったのだろうと思います。

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そうして、貴志康一は宝塚のラスカに作曲のことを相談して(1931年頃)、ボストン、パリから1936年に戻った大澤壽人も宝塚の仕事をし、そこで奥さんを見つけて、服部良一は放送局のオケ、朝比奈隆は京大オケでメッテルに認められて……という戦後へ続く人脈の話がはじまるわけですが、

私はここでちょっと立ち止まってみたい気がしました。

だって、関西のプロオケが、東京のように近衛秀麿や山田耕筰のような洋行帰りの大物音楽家の呼びかけではじまったのではなくて、私鉄終着駅の温泉場の少女歌劇やラジオ放送というモダンな風俗・メディアの付属物としてスタートしたのは、面白いことだし、いかにも関西っぽいと思ったからです。

関西のプロオケは、西洋かぶれの理念ではじまったわけじゃなくて、「民」の大物、小林一三の野望とか、ニューメディアの立ち上げとか、音楽の外で起きた大きな話にのっかる、というか、付随する形で、別にそれ自体を目的とするわけではなく、それが必要とされる理由があった、その成り立ちが、文化とか藝術とか高邁なことを持ち出さなくても説明できてしまうということです。最初から、商売や何かとくっついております。

だから夢がない、とも言えますが、そういう後ろ盾がないと、理念だけではメシは食えない、ということでもあったんでしょう。

(そして逆に、こういうわかりやすい成り立ちと比較すると、お公家さんや音楽家が理念だけでオーケストラを作ってしまうのは、不思議な現象だったとも言えそうです。もしかすると、なんでそんなことが実現するのか、文化・藝術と言われても、現在の大阪市長に理解できないのは仕方がないかもしれません(笑)。

現にこういう街が日本にもあったのだ、ということを踏まえると、高邁な理念に理由を求める文化・藝術談義を相対化できて、心と頭の健康に役立つんじゃないかと思うのです。)

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それから、しかしここが本題なのですが、それでもやっぱり、当時、このように夢や理想のない形で、実用本位にオーケストラがあっさり誕生してしまったことを、それでいいのか! と思う人が関西にもいたんじゃないか、いておかしくないのではなかろうか、と思ったのです。

(大栗裕は、1930年代の天商時代、宝塚や京大のオケのコンサートに眼を輝かせながら通ったようで、オーケストラという新種のエンターテインメントを素直に楽しんだ人は多かったと思いますが。)

それがタイトルの「都市は学生を生意気にする」という思いつきでありまして、今でも、大学生(とりわけ学生オケやブラバン少年、元大学生を含む)は、頭の回転が速くて口が達者で、情報をたくさん迅速に集めますから、地元のプロと称する音楽家を思いっきりバカにするじゃないですか(笑)。あの原形がこのときにできたのではないか、寄ってたかってネタにできる格好の標的の誕生だったのではなかろうか、と思ったのです。

実際に、京都帝大の朝比奈隆がラスカのブルックナーをけちょんけちょんにけなした批評が残っているらしいです(未見ですが)。たぶん、京都帝大音楽部とか、清水脩がいた大阪外語学校のグリークラブあたりでは、ラジオから流れてくる放送オケのミストーンとか聞きつけて、「これがプロかよ」みたいに思っていたのではないか。

そしてそんな感じに生意気に育った人たちが、戦後「帝大・朝比奈隆」のもとに集まって、あんなのとは違うこれが本当のプロオケだ、とスタートしたのが、関西交響楽団だったのかもしれません。(関響のスタッフには関西の有力私学出身者が少なくないようですし。)

関西楽壇に、ちょっと過剰なくらい東京と張り合うような風潮がでてきたのも学士指揮者の時代になってからかもしれません。そして東京と張り合うことのできるような「歴史」を語ろうとすると、おなじみの、亡命外国人がいて、彼らに学んだ人たちがのちに大成し……ということになるようです。「地方都市・東京の頭越しに、外国と直接コミュニケーションする関西人」の物語ですね。

(意識が高いとされる北摂に支持されているらしい維新の市長さんが「大阪都」を言うのは、だから、理由のないことではないかもしれない。東京のインテリ層の無意識に「満州」的未来都市の残像があるように、関西のある種のインテリは「国際化」の掛け声に弱い。この傾向は、岡田暁生が大澤壽人を絶賛するときに「本物の国際人」と呼び、彼の帰国後を周囲の無理解による失意・不遇の日々と決めつけ、関西での仕事の意義を一切無視するところまで尾を引いている。)

残念ながら、私が学生だった頃には、歴史は繰り返すということなのか、今度はその大阪フィルに音楽好きが微妙な感想を抱くことになったわけですが、それはともかく、「大学人が地元の音楽活動をバカにする構図」は、それほど特殊ではないけれども、自明で普遍的というわけでもなさそうなので、そういう構図が発生する条件など、一度整理してみたいと思いました。

たぶん、関東(現東日本)支部とはちょっと肌合いの違う音楽学会関西支部な人たちのことを考えるポイントにもなると思うので。

(というか、この人たちの階層としての来歴を私は知りたいのです。人が入れ替わっても「大学人」としての物言い・発想みたいなものが反復されたりするわけですから、知識人論風に個人の出自・各種資産だけでは説明できない社会上の位置・役割の特性みたいなものがありそうな気がするのです。本来の社会学は、興信所のように個人の文化資本等々を査定して……という風に使うものではなく、集団としてのヒトの特性を扱う学問だから、こういうことを考えていいんですよね。

このブログでときどきそういう人たちにちょっかいを出すのは、ここが「フィールド」なのであって、こういうアプローチにはどういう反応が返ってくるか、こっちから突くとどうなるか……という「参与観察」です(笑)。割合、本気。

だって、阪大の人たちとか、大学の外で何かするときに、すぐ、あたかもそれが「研究」「フィールドワークの一種」であるかのように語る(=自分自身の責任を負うべきことであるにもかかわらず妙に他人事めいた口ぶりで語る(=学問の「客観性」というのをはき違えているのか、「私」という主語を引き受ける正常な発話行為ができなくなってしまっていたりする))じゃないですか。大学の外の人間が、大学の中の人たちに対して、それをやり返したっていいはずだ、と私は思う。やられたら、やり返す。こうやって「学問」から一方的に観察されてしまうという、精神的苦痛を伴うイジメに立ち向かう(笑)。データを集めたいので、アホなことを言うこのオッサンをどんどんバカにしてください。)