オペラの誕生から黄昏まで?

「コンヴィチュニーごっこ」をやるとワーグナーのDVDを飽きずに見続けることができるとわかったので(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130827/p1)、今度は応用編。

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》 [DVD]

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》 [DVD]

コンヴィチュニーだったらここをどういう風に演出するだろう、と考えながらシェローの「ワルキューレ」を観てみた(←バカ)。

第1幕でいったい何をノートゥンクに見立てるアイデアがあるんだろう、とか、第2幕は、観客がヴォータンではなくフリッカに感情移入できるやり方を考えて(シェローのフリッカも結構素敵)、なおかつ、ブリュンヒルデは、こんなパパ(←シェローはちゃんとDVさせる)と、こんな継母のところで育ったら、そりゃ大変だ、と納得させる手を考えるんだろう、とか(ブリュンヒルデはこんな辛い少女時代を送ったからこそ、のちに息子のように年の離れたジークフリートと一緒になれて、ようやくつかんだ幸せの表情になるわけだ)、後半の憔悴しきったジークリンデや、白い布を着せられそうになって拒否するジークムントは、このままでも結構コンヴィチュニー好みかも等々と思いましたが(概して「コンヴィチュニーごっこ」の目線だと、よく演奏される1幕とか管弦楽で抜粋される3幕より、間に挟まれてとばされちゃう2幕が仕事のしどころ満載に見えますね、「黄昏」もコンヴィチュニー流だと第2幕から第3幕前半が盛り上がったし)、

そんなことよりも、ブリュンヒルデ(ワルキューレの女たち)のあの妙な声は、考えてみたらイタリア・オペラのコロラトゥーラのパロディというか、ゲルマン・北方神話ヴァージョンによる対案なんでしょうね。

イタリアにカストラートが異能の声でギリシャの神々を演じる音楽劇があったのだから、ドイツにラインの軍神が奇声を発するドラマがあってもいいじゃないか、という発想なのでしょう。

と、ここまで考えて気がついたのですが、「ワルキューレ」はワーグナー流のオペラ・セリアですね。神々が人間たちを操る世界観のなかで英雄が死ぬ話。で、そのはずなのに人間がただ死ぬのではなく、次の世代へ希望をつなぐところが伝統的なオペラ・セリアを踏まえつつ乗り越えたことになるのでしょう、ワーグナー的には……。(ワーグナーの音楽劇自体がイタリア・オペラを自分たちの手元へ引き寄せる「読み替え」の試みだったと言えるかもしれない、ということです。)

そうしてさらに考えてみると、「ラインの黄金」はモンテヴェルディがいた頃のヴェネツィアでやっていたかもしれないような仕掛け満載の祝典劇で(「金のリンゴ」とか)、「ワルキューレ」が18世紀風のオペラ・セリアを換骨奪胎した話で、「ジークフリート」は、森と角笛と大蛇と小鳥でお姫様と結ばれるメルヘン・タッチのロマンティック・オペラだから、これでワーグナー的にはオペラの誕生から先輩のウェーバーのあたりまでの歴史を自分なりにやり直したことになっていて、その先に「神々の黄昏」の夫婦が別れ別れになって、世界が壊れてしまう近代劇が来る。

岡田暁生が、ワーグナーは親子と家族の話しかやってなくて、ホフマンスタール/リヒャルト・シュトラウスのほうが捻りが効いたオトナの恋だ、と言ったそうですが、ワーグナーは「家族」というのが出来るまでの話を(神話ですけど)やりたくて、ポスト・ワーグナーは家族が壊れた先の世の中で人間に何ができるか、ということなのかもしれませんね。聖者の首を皿に乗せたり、弟と一緒に母親を殺したり……。

どちらにしても、業の深い人たちではある。