熱海と関西人

 八月の末で馬鹿に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日間があるというのを拝み倒して三百円ほど集ったその足で、熱海へ行った。

ブラタモリ(昨年末の放送の録画)によると、熱海が全国区の温泉場になり、大阪から熱海へ行く人が増えたのは丹那トンネルが開通した昭和9年以後のことであるらしい。

「夫婦善哉」(昭和14年発表)の冒頭で、蝶子と柳吉が熱海に行って震災に遭う(そして避難列車で苦労して大阪へ戻ってくる)のは、大正12年のエピソードとしてはちょっと不自然かもしれない。昭和14年であれば、最近評判の湯治場・熱海へ行くのは、小説後半の有馬での療養と響き合って、梅田新道の化粧品問屋のボンボンでB級グルメ好き、という維康柳吉のミーハーなモダンボーイぶりを強化するが、大正12年に大阪人が愛人との旅行先に熱海を選ぶのは、かなりハイソに、別荘持ちの東京の成金たちの真似をしている感じになってしまいそうだ。

織田作之助は、鉄道にはあんまり詳しくなかったのかもしれませんね。