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傲慢と劣化 - 学位年齢の構造と、大学経理が現在の日本の学位を消耗品に計上する可能性について

吉田寛や増田聡は、不都合な指摘を受けると読者の関心を逸らすべく大急ぎで別の話題を書き込む、という作法が身についているようだが、こういう態度に対抗するときには、【拡散希望】というタグをつけて大騒ぎしたりして、明快な謝罪を引き出すまで頑張るのが「炎上時代のSNS」の流儀だったりするのだろうか。

あなたたちは「協賛」と「後援」の使い分けを知らないの? - 美学者の「籠池」的発想を憂う - 仕事の日記

私はそういうのはくだらないと思うので、話をどんどん先に進める。

考えてみれば、書店が主催する美学書のブックフェアは第一義的に商売、経済活動であり、その企画の知的な品質は商品の付加価値に過ぎない。そのブックフェアの知的な付加価値に当該分野の学会が意義を認めて後援することは、もちろん十分にありうるだろうけれど、学会が意義を認めたからといって、経済活動が経済活動ならざる何かに変質するわけではない。企画者・主催者のプレイヤーとしてのミッションは、経済活動として、損益を出さないように、できれば十二分な利益が出るようにベストを尽くすことである。

当該の美学書フェアは、十分な利益とまで言えるのかはわからないが、話題性があり、経済活動として一定の成功を収めたのではないのだろうか? だとしたら、企画者は

「皆様のご支援のお陰で、無事、イベントを完了することができました、ありがとうございました」

と関係各方面にお礼を言うのが筋ではないか。そして、その企画者を支援した側は、

「あなたの努力のお陰で、美学はいままでにない広い人たちに関心をもってもらうことができました。お疲れ様でした。こちらこそありがとうございました」

と返礼して、これで無事にイベントが終了する。それが礼儀・社交というものではないのだろうか。

ところが、あとになって、「今だから言うけど、あのときの美学会の態度は最悪だったんだよね」と悪態をつくとか、「いいことをやっていれば、いずれ認められるから我慢しなさい」と慰めるとか、経済活動としての円滑な進行とは関係のないリングサイドの、あって当然などとはとうていいえない「オマケ」「余得」がついてこなかったことに対する不平と不遇感がくすぶるのは、いったいどういうことなのか。(随分と下品な、やらずぼったくりな被害妄想、被害者の立場に身を置くことが常に闘いを有利に運ぶはずである、という、戦後民主主義の一番悪い面だと言えそうな「衆愚」の発想に見えてしまうのですけれど……。先に私が、あなた方を「籠池」的だと形容したのもそういうことです。日本会議は、弱者の運動としての新左翼の手法を摂取した右翼活動であるとされており、彼はそこに連なる人物なんですよね。あなたたちの物言いは、それと似すぎて恐いです。)

思うにこれは、学問が、直接的には利益を生まないけれど、続けていれば最終的には名声と栄光を得る「お得な道」なのだ(そうであるべきだ)という傲慢だと思う。

この傲慢は、東大法学部を出て官僚を目指す人たちが「退職後の天下りをコミで考えれば官僚はお得である」とそろばんをはじくのに似ている。

ただし、学問は基本的に個人の事業であり、官僚制のような上意下達のヒエラルキーを構成しない。おのれの脳味噌が頼りである。そして人間の脳味噌は、生物としての劣化=老化が避けられない。

そこで私は、そのような脳味噌の劣化を名指すために「学位年齢」という概念を提案したい。学者のキャリアが学位取得からスタートするように制度を変えていこう(人文においても)というのが現在の日本の動向であり、現在の大学は、既にそのような学位取得者の働き口になっている。しかし他方で、学位申請は、国際的な標準に従って、原則として年齢制限はなく、従来の日本の教育・就労の慣習のように、何歳で大学入学、何歳で一斉に就職、という風にはなっていない。学者の脳味噌のピークと劣化には個人差が大きいと思われるので、実年齢と切り離して学者の生態を観察するためには、実年齢とは独立に「学位年齢」という概念が必要だと考えた次第である。

例えば、私自身は学位を取得しておらず、「学位年齢ゼロ」である。増田聡や大久保賢は、私と同じ時期に同じ大学研究室で学んだが、既に学位取得から10年以上経過しており、「学位年齢は10歳代」で「ひとまわり歳上」である。そして私は、増田聡がはやくも(かつての内田樹のような)「おじさん的怠惰」を打ち出したり、大久保賢が(まるで大昔の小林秀雄や晩年の吉田秀和のような)「老人の繰り言」スタイルで発言するのは、実年齢とは独立した「学位年齢の経年劣化=老化」であると解釈する。

一方、増田や大久保はおろか私より実年齢が上の伊東信宏先生は、先日もクルタークの「遊び」に関するレクチャーコンサートに登壇して、知識人としての若々しさを炸裂させていた。そして分野は違うが、稲葉振一郎は、にわかに「政治の理論」(内容的には政治における「力 power」とは何か、という、力学的に明晰な議論)を世に問うている。伊東先生は、まだ学位取得から5年くらいしか経っていない「学位年齢的な幼児」(まさに「遊びざかり」)であり、稲葉先生に至っては、いまだに学位を取得していない「学位年齢的なゼロ歳児」である。学位取得から十年以上過ぎた者の「劣化」だけでなく、実年齢とは独立した学者としての「旺盛な若さ・現役感」を説明するときにも、「学位年齢」の概念は有効であるように見える。

(人文・社会科学における学位制度の改革が、いまはまだ過渡期なので、正確に言うと、実年齢と「学位年齢」が独立している、とまでは言えず、学制改革にいちはやく飛びついた者は「劣化」が早く、性急に動かなかった者が劣化を免れている、という見方をしたほうがいいのかもしれないが、いずれにせよ、現行の日本の学位は、脳味噌の劣化という時限爆弾のスイッチ・オンのスタート地点である可能性が高いように見える。)

「学位年齢」の概念を導入することで、東大の学位取得者の傲慢は、より広い文脈で構造的に理解することが可能になると思われる。彼らは、早々に学位を取得して、脳味噌の劣化の時限スイッチを既に押してしまっている。タイムトライアルである。多少の無理は承知で傲慢をかますのは、時間制限による焦りと表裏一体なのではないか?

すなわち、「学位年齢」という補助線を引くことで、まだタイムトライアルのスイッチを押していない者の自由(稲葉)、トライアルの初期段階の楽しさの横溢(伊東)、時間制限の苛烈を自覚して焦りつつ成果を出そうとあがく傲慢(「ザ・東大」なメンタリティ)、滅びゆく者の諦念(阪大を出た増田、大久保)という風に、学者たちの生態を統一的に理解することができるのではないかと、私には思われる。

(「すべてはゲーム」、ゲーミフィケーション、というような、最近の大学人好みの世界観に多少寄り添いつつ話を進めたつもりだが、学位のある先生方は、こういう話はお嫌いですか?)

以上で私の思考実験的な主張の本論は尽きている。以下、若干の補足である。

(1) 時間制限の焦りが傲慢という形に結晶化するのは、学位取得者のコミュニティを、彼らが中学高校時代に体験していたのであろういわゆる「スクール・カースト」のアップグレート版として生きようとしているからではないか、とも思われる。すなわち、学位修得を、スクール・カーストにおけるオールマイティ、全能の力であるかのように思いなす、ということである。吉田寛が、近年、かなり露骨に「依怙贔屓」(後進の支援と称して自分が気に入った者だけを優遇しようとする態度)を打ち出すのは、部外者から見ると、滑稽なくらいスクール・カースト風である。

(2) 概念の発明は、しばしば、純粋な知的好奇心の充足で終わることなく、実生活に適用・応用されて提唱者の意図を越えて運用されることがある。

「学位年齢」という概念は、大学のように研究者を雇用する事業体から見れば、研究者を終身雇用すべき人材・耐久財としてではなく、経年劣化で最終的には消滅する消耗品として会計処理する可能性に道を開くかもしれない。現在の学者の給与体系は、多少修正されているとはいえ、まだまだ終身雇用が前提であり、就労年数とともに昇級することが多い。しかし、研究者が消耗品なのだとすれば、学位取得後間もない雇用時の年俸が最も高く、特別に考慮すべき事情がない場合は、就労年数とともに年俸を下げる契約形態がありうるかもしれない。この契約形態は、研究者がしばしば口にするような、「前途有望な若手を我々は積極的に支援すべきである」というスローガンを劇的に明快に実現することだろう。

この文章は、具体的な政策提言ではない。既に劣化がはじまっているのであろう中堅研究者は、よくよく考えて行政にコミットしないと、何がどういう結果を生むか、あとで泣いても知らないよ、という戒めとして、私はこの文章を書きました。

(以上)