シュトゥットガルト放送交響楽団

ザ・シンフォニーホール。サー・ロジャー・ノリントン指揮。ベートーヴェン「エグモント序曲」、「ピアノ協奏曲第1番」(独奏:児玉桃)、「交響曲第5番」。

ピリオド奏法は、過去の再現や骨董趣味ではなく、オーケストラの表現のパレットの拡張だ、ということを思い知らされる演奏会でした。

のびのびと響く弦楽器、おしゃべり好きの木管楽器、軍楽隊から召還されたかのように、屈強で恐ろしく態度のデカイ(笑)金管楽器、アフリカのトーキングドラムのように表情豊かなティンパニー。それぞれのキャラクターがくっきりと立ち上がって、オーケストラが、均質に訓育されたピラミッド状の組織から、未知の集合体に再編成されたかのようでした。

ピアノ協奏曲は、ソリスト(楽器の蓋を外して、弾きぶりの時のように客席に背を向けて座る)の下手脇に指揮者が控えて(どことなく、ルイ14世に仕えるリュリみたい)、弦楽器がその周囲を同心円上に囲み、外周に管楽器とコントラバスという配置。聴衆は、フィールド上の大がかりな室内楽を、スポーツ観戦のように、さらに外側のスタジアム席から見守ることになります。

視覚的にも、音響的にも、会場の中で、ピアニストが最も良い位置にいるわけで、この席に迎えられるというのは、最高の栄誉。児玉さんは、(もっと大胆になれたら、とは思いましたが)バロックのチェンバロ協奏曲風に、確実にアンサンブルの一翼を担っていたと思います。去り際の最後のソロは、この人らしい透明な響き。

エグモント序曲のコーダ直前のホルンのフレーズが、2+2小節の直線的なクレシェンド・デクレシェンドに仕上げられていたり、第5交響曲のフェルマータを、わけのわからないやりかたでふくらませたり、ミスマッチを楽しむ、遊び心のある演奏でもありました。

交響曲の第1楽章は、およそ深刻さからほど遠い、周到に仕組まれた、スラップスティック風の「大騒動」。第2楽章は、意気揚々とした歩みが、思い切り長く引き延ばされたフェルマータを境に、シュンと萎んでしまう、道化の笑い泣きのような音楽。第3楽章の三連符のテーマは、第1楽章のリズムとは別物。切っ先鋭く鍛えられていました。第4楽章、展開部では、金管の強者どもが本気になって、はち切れんばかりに音楽が膨張。でも、最後は、オペラ・ブッファ風に笑顔で締め。(「ド・レ・ミ・“ソ”|ミ・レ・ミ・“ソ”|……」の“ソ”のアクセントは、とっておきのギャグのように、たまらなく可笑しい。)

ベートーヴェンの交響曲を、彼自身のメトロノーム表示にもとづく速めのテンポで演奏するのは、今や、ピリオド奏法の常識ではありますが、この速度で、弾きとばすことなく、細かいニュアンスをフォローするのは、とてつもなく大変なこと。ベートーヴェンは、おそらく、無謀なことをやる人だったのだと思います。その無謀さを本気で受け止めようとすると、こういう演奏になる、そんな気がしました。

それにしても、シュトゥットガルト放送響が、こんなに凄いオーケストラだったとは。

[追記]
アンコールは、協奏曲後のピアノ、終演後のオーケストラ、ともにメンデルスゾーンでした(「紬ぎ歌」と「真夏の夜の夢」スケルツォ)。ベートーヴェンのメンデルスゾーンへつながる側面??ベルリオーズでもワーグナーでもブラームスでもブルックナーでもなく??というのが、このプログラムの隠しコンセプトのようなものだったのでしょうか?