コンサート会場で音を立てると説教される問題がどう推移しているのかは、全然知らないのですが、前から思っていることに関連づけると、少し書けそうな気がしてきたので、そんな話。
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18世紀の音楽会が、歌ありコンチェルトありのごちゃまぜでダラダラ何時間も続いて、会場は出入り自由だったらしい、とか。
お城の中では、音楽家は部屋の隅に立ちっぱなしで、王侯貴族がトランプをしたり、お茶飲みながらしゃべってる脇で演奏していたらしい、とか。
そういう「音楽の社会史」の情報は、たぶんもう常識になっているんだろうと思いますが、ちょっと違う視点から、この件について考えてみたいと思います。
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昔はヨーロッパでの音楽がノイズ混じりで聞かれていたという話に対して、「昔の音楽家は可哀想、音楽をもっと大事にしなきゃ」という感想をもってしまうと、話はそこでおしまい。「王侯貴族のような自分勝手を謹んで、音楽への尊敬の気持ちをもって、演奏会では静かにしましょう」という結論になりそうです。
一方、この種の「音楽の社会史」をさかんに調べていたのは、たいてい60年代の学生運動やヒッピー文化の洗礼を受けた世代と言っていいように思います。
彼らが暗黙に言おうとしたのは、過去のヨーロッパのおおらかな光景が、ロックコンサート(ウッドストック神話)や、BGMの「ながら聞き」、あるいは、世界の諸民族のお祭りなどでの多様な音とのつきあい方に案外近いということ。
「音楽の社会史」派には、音「だけ」に集中したりしない態度のほうが人間としては「自然」なのだ、と、クラシック・コンサートの「不自然」で「人工的」な在り方を暗に告発する含みがあったのだと思います。
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ただし、これも当時を知っている人にとっては言わずもがなの前提なのでしょうし、「今さら」感を拭えませんよね。そんな攻め方で事態が変わるといまだに信じている人がいるとしたら、その人は政治や経済のことがわかっていなさすぎる。(私も他人のことを言う資格はなく、世の中の動きは、あまりよくわかってはいませんから、東浩紀さんの本など読みつつ勉強中ですが……。)
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ここでちょっと書いてみたいなと思ったのは、あくまで勝手な想像ですが、王侯貴族の連中が、案外、音楽をわかっていたんじゃないかということです。
王侯貴族の尊大さについては、主に音楽家の側からの批判や愚痴の証言(モーツァルトが手紙でこんな文句を言っている、とか、ベートーヴェンがだれそれと大げんかしたとか)ばかりがクローズアップして言い伝えられていますが、
例えば、王様が実際の演奏を聴いたのは通りすがりに数分間だけなのに、翌日、その音楽家が楽長に抜擢されたとか。オペラの間中、領主様は桟敷席でどこかの貴婦人としゃべりつづけていたのに、その日の演奏について実に的確な感想を述べられた、とか。王様側の美談は本当になかったのでしょうか? (日本の歴史小説だと、大名や武将など為政者側の美談ばかりで辟易することがありますが、ヨーロッパの音楽史では、逆に、そういう王侯貴族の美談が不自然なほど少なすぎる気がします。)実際には、王様たちも、それなりに上手くやっていたんじゃないかという気がするのです。そうでなければ、百年以上もの間、宮廷文化が一定レベルを維持できたはずがないですから……。
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傍証にしかなりませんが、18世紀には、サロンの文化人(哲学者や文学者)たちが、さかんに「美beauty」や「感性aesthetic」ということを言うようになっています。
(そして、美や感性に関わる技術(art)が「美しい諸技術(fine arts=まだ複数形だった)」と総称されるようになる。これが、今日の「芸術(art=単数形でこの意味をもつ)」の語源。)
そういう哲学・美学談義の背景には、遊び人な貴族連中が案外的を射た判断をすることへの驚き、あの能力はいったい何なのか?といった疑問があったのではないかと私は思っているのです。
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もちろん最初に書いたように、以上は私の勝手な想像ですが、でも、そういうことが起こりうる程度に、音楽は「冗長性」のあるメディアだと思います。
(余談ですが、情報理論で言うところのエントロピーとか冗長性の説明、データと情報の区別については、梅津信幸さんの「あなたはコンピュータを理解していますか?」のみそ汁の比喩が感動的にわかりやすいと思います。JPEGで「データ」を間引いて圧縮しても、何の写真なのかという「情報」は伝わるというような話。人間には認知限界があるから、データ内の情報含有量(みそ汁の中の塩分濃度)が高ければいいってものじゃない。ホドホドが美味しいのだ、というのを読むと、シェーンベルクの表現主義や戦後のトータル・セリーは「濃度高すぎ=塩辛すぎ」だったのだなあ、と思ってしまいます。)
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バロック・古典派までの音楽は繰り返しが多いですし、前にも書いたように、オペラは、聞き所と聞き流せる所をはっきり書き分けるスタイルが早くから確立していますし……。「美」や「感性」というのは、そんなに神秘的・抽象的な議論ではなく、こういう「冗長」な芸能から、美味しいところを逃さずザッピングできる直感力&要領の良さのことだったような気がします。
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そういう「貴族的」な態度を新興ブルジョワが形だけ真似するのが、いわゆる「成金趣味」ですね。どこかの首相が、王侯貴族風にオペラ劇場の貴賓席で拍手しているのは、どこか、浅ましい感じがするというアレです。
一方、「音が鳴り響きつつ動く形式こそが音楽の内容だ」と啖呵を切ったハンスリック(ブラームスの友人)の形式主義というのは、古き良き「貴族趣味」が過去のものになった時代の一種の開き直りだと思います。
一般庶民(含む、自分)が貴族の真似をして鷹揚な「通」を気取っても、所詮は付け焼き刃だから、どこかに必ずボロが出る。それだったら、謙虚に最初から最後まで集中して聴きなさい。そうすれば、全体の構成の面白さや、聞き所がだんだんわかってくるはずだから。……いわば、庶民(正確には中産階級)が背伸びすることを戒めた、一種の「教育的配慮」の助言ですね。それがドイツ市民の教養主義というもの。
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ただし、その場合であっても、音楽の「冗長性」は有効だと思います。
最初から最後まで通して聴けば、音楽の表現の粗密、作曲家や演奏家が大事にしているところと、ある程度「流して」いるところが見えてくるはずで、音楽の「形式」は、おそらく、そういう起伏や粗密の把握を含む広い概念。集中して聴けといっても、丸暗記できるくらい、あらゆる音に均等に耳を傾けろということではなかったはずです。
だから、大事なテーマが終わって、次へ移るべくひと息ついているところに来たら、聴いているほうも、多少、気を抜いて良いはず。そうやって音楽の粗密に同調していくのが、ライブの愉しみ。そう考えると、クラシック・コンサートが確立したと言われる19世紀になっても、音楽における「データ」(音そのもの)と「情報」(何を求めて聞くか)の区別はやっぱりあったと見るべきだと思われます。
(ノイズの中から音が漏れてくるようなAMラジオや状態の良くない蝋管やSPレコードでも、演奏について判断が下せるというのも、別にオーラとか神秘的な話ではなく、広い意味での音の「形(式)」をつかめるからじゃないかと思います。圧縮率の高いJPEG画像でも、誰の顔なのかわかる、みたいなことですね。)
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一音たりともゆるがせにできない、一瞬でもノイズが混入するのは許し難い、というのは、マニア道で言うコレクターに似たところがある気がします。
結局のところ、俺にとっての書物とは印刷されている「中身」が重要なのであり、「ガワ」である形態としての書物に対するフェティシズムは、あまりなかったのだといえる。[…中略…]しかし「書痴」と呼ばれるレベルの本好きになると、価値観はまったく違う。彼らにとっての「本」とは、それこそ抱いて寝るような崇拝の対象である(折れ曲がると嫌なので実際には抱かないと思うが)。一冊の本を保存用・閲覧用・なにかあったときの非常用と数冊購入するのは当たり前だし、重度の書痴ともなると、よく引かれる例だが、たとえば世界に2冊しか現存を確認されてない本を「2冊とも」手に入れて、一冊を密かに焼却処分にし、「これでこの本を持っているのは世界で俺一人だ!」と考えてエクスタシーに達するような人種なのである。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_2f51.html
コンサートで入場料を払って「演奏家のナマの音」を買ったのだ、と考えている人は、たぶん、咳払いやチラシのガサガサ音で、新品の本にベタベタ指紋を付けられたりしたように感じるのでしょう。「十分読めるんだからいいじゃん」というのはコレクターには通用しない。
そういう人ばかりではないのかもしれませんし、実はそういう真性の音フェチ・音コレクターはほとんど実在しないのかもしれませんが……、
先の貴族に関する仮説と同じで、もし、そういう人がいたとしてもおかしくないような条件がクラシック音楽の世界にはたくさんある。クラシック音楽の世界は、「音フェチ」な人たちにとって、まことに住みよい世界であろう、ということまでは、言えそうな気がします。
ハンスリック流の形式主義は「音楽は形式こそが内容だ」→「音楽に<内容>などというものはない」→「音楽とは音にすぎない。だからこそ音が大事」という風に、音そのものへのフェチに容易に変換(曲解?)できてしまいますし。
若手の登竜門と思われているコンクール(もともとは、ツテや人脈のない周縁的な人たちへの補助的な救済措置・慈善事業にすぎなかったし、今でも保守的なヨーロッパ人はそう思っている気がしますが)では、ミスや傷が減点対象になると思われていたり(本当にそうなのか、私は知りません)、
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レコーディングでは、ミスをチェックするディレクターがいたりするので……、
最初から最後まで全部集中していて、「流す」ところのない演奏スタイルの方が受け入れられやすい……。「音楽の社会学」とセットにして散々言い古された話ですが、そういう流れは実際にある。少なくともつい最近までありましたよね。
(まんべんなく集中した演奏というのは、私の半可通な情報理論の理解によると、エントロピーをどんどん下げることになって、退屈なものになるのは必定、という気がしますが。)
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ともあれ、もし、音フェチ的な人が存在するのだとしたら(近代社会はどの分野であれ一定数のコレクター的感性の人を生み出す構造になっていると思いますが、私自身は「元来マナーが悪い」とされている関西在住ですし(笑)、音フェチの実在を確認してはおりません、だから、書きながら、ツチノコの話をしているような感覚がつきまとうところではありますが)、
もし、音フェチな人が存在するのだとしたら、形式主義もどきの理論武装や、コンクール/レコーディング的な演奏スタイルと相性抜群で、コンサート会場を「安住の地」として、快適にお暮らしになっていらっしゃったとしてもおかしくないと思います。
で、もし、そういう方々が、「のだめ」ブームで大挙して訪れた新参者によって(でも、本当に「のだめ」のクラシック・ブームのせいなのでしょうか?これも私は信憑性を確認できておりません、最近、関西でもオーケストラ演奏会のお客さんの入りが若干良くなっているような気がしないでもないですが)、平穏な日々をかき乱されているとお感じになっていらっしゃるのだとしたら、これは、ちょっと面白い構図かもしれませんね。
岩陰に人知れず潜んでいたヘビが、マングースと挌闘している絵が思い浮かびます。(そういえば、「のだめ」といえば、マングースでしたね。)
でも、本当にそういう話なのだろうか?