音楽とロマン主義

(4/22追記:romanticの語源の話の最後に絵画と歴史観のことを書き足しました。)

(4/22追記その2:ロマン派のオーケストレーションの話のあとに、オーケストレーション=音の「化学」であろうという話から、19世紀の科学と芸術の関わりについて、やや長めに思うところを書き足しました。)

突然ですが、音楽史の講義で配ったレジュメを貼り付けてみます。19世紀の「音楽とロマン主義」の話の導入的な概説の回。

「今さらロマン派なんて……」という方でも、音楽のロマン主義の参照元になっている各種文学作品を知っている(読んでいる)人は意外に少ないのではないでしょうか。

セナンクールを読まずにリスト(「オーベルマンの谷」@「巡礼の年」)を語れるのか? 「クライスレリアーナ」というタイトルの元になった楽長クライスラー@E. T. A. ホフマンってどんな人? など、「知ってるつもり」になって通り過ぎるのは勿体ないかもしれませんよ、という提案でもあります。

実際の授業では、「オーベルマンの谷」、「クライスレリアーナ」、ウェーバーの各種序曲を実際に流しながら、「主人公が悩んで問いかけていますねえ」とか、「さっきまで悶々としていた楽長ですが、彼の人格は分裂していて、突然、真顔でお祈りをはじめたりもします」とか、音楽の「実況中継」もやっております。「魔弾の射手」序曲では、演奏を流しながら、ストーリーを「舞台は霧がたちこめるボヘミアの森……夜が明けて、信心深い村人が朝のお祈り……しかし、村はずれには悪魔の住む狼谷があるのです……」と紙芝居的に説明してみました。

(授業では日常的にやることですが、適度にコメントをかぶせながら音楽を聴くというのは、クラシック音楽でも十分可能だし、効果的なことだと私は思っています。音「だけ」を聞くというのは、ちょっと窮屈すぎる。それに、言葉を差し挟む程度で台無しになるほど音楽の力は脆弱ではないと私には思えます。クラシック音楽の「実況コメント」の副音声つきDVDを作ってみると面白いのではないかと前から思っているのですが、どうでしょう?)

ちなみに、この授業、本題に入る前に、晩年のコルトーがシューマン「詩人は語る」(「子供の情景」終曲)のレッスンをしている映像を見てもらいました。

アート・オブ・ピアノ-20世紀の偉大なピアニストたち- [DVD]

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「アート・オブ・ピアノ」の中にある映像。古ぼけた薄暗い照明の中で、コルトーがポエム的なコメントとともにピアノを弾く姿、どこか遠くを見て焦点の合わない目は、まさにロマンチシズム。この人は本気だな、という風に思わされます。ロマン主義というのは、この「本気で<あちら側>の世界へ視線を馳せた人々」とつきあうことなんですね。

一方で、カッコ内の「補足」で書き加えましたが、ロマン主義というのは、サブカルチャー的なものでもあり、若いインテリのロマンチストには、社会不安から生まれた「18世紀末のニート」みたいなところもあります。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

……21世紀の私たちが興味をもちうるかもしれないポイントがあるように思うのですが、いかがでしょうか?

(なお、この話はロマン主義の概略をつかむことが目的で、細かい年号など、ひょっとすると間違いがあるかもしれません。「データ」として使われることを想定して書いた文章ではないので、その点はご注意ください。あくまで授業で使った準備用の台本・メモですから。)

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音楽とロマン主義

●romanticの語源

romantic(英語)/romantique(フランス語)/romantisch(ドイツ語)は、「ロマンス語の」を意味するromanic(英語)/romanique(フランス語)/romanisch(ドイツ語)から派生したと考えられる。

romanic:ロマンス語の、→ ラテン語(中世以来の公用語)ではない、俗語の、 → 素性の怪しいでっちあげの、空想・想像上の、 → 「空想・想像上の」を意味するromanticが派生。

(補足:「romantic」が今日の意味で用いられるようになったのは18世紀後半からであるらしい。ラテン語vs俗語の対比を拡張して、しばしば、「古典的」vs「ロマン的」という対で使われ、「古典=規範・手本・標準」と対立する「いかがわしさ」の含意がある。例えば、韻文による神話劇・歴史劇が「古典的」と呼ばれ、散文による小説が「ロマン的」と呼ばれた。現代に置き換えれば、「言文一致体」のマスメディアによるニュース報道=「信頼できる」=「古典的」、だらだら会話体で綴られるブログやインターネット掲示板の情報=「いかがわしい」=「ロマン的」という感じかもしれません。)

起源の小説と小説の起源

起源の小説と小説の起源

挑発としての文学史 (岩波現代文庫)

挑発としての文学史 (岩波現代文庫)

(補足2:「古典的」vs「ロマン的」という対比を歴史に適用するときには、しばしば、古代ギリシャ=「古典的」、中世以後のキリスト教世界=「ロマン的」という区分が用いられました。イエスの死という「原罪」を背負った「A. D. =紀元後」の人類は、もはや、「古典的」ではありえないという考え方です。C. D. フリードリヒの「山上の十字架」(1808)で、太陽(「古典的な世界」)がが十字架のある山に隠されて見えないという構図は、「ロマン的時代を生きる我々」の視座から見た世界像を端的に示していると言えるでしょう。

フリードリッヒ(1774-1840) 山上の十字架 テッチェン祭壇画

中心は夕日の光線である。

沈みゆく太陽は、旧約の過ぎ去った世界を表している。十字架が黄金に輝き、その光が大地に照り返されている。

http://art.pro.tok2.com/F/Friedrich/CrossMountains.htm

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ (パルコ美術新書)

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ (パルコ美術新書)

音楽様式史では、18世紀後半が「古典派」、19世紀が「ロマン派」と呼ばれていますが、これは、言ってみれば、「古典ギリシャからロマン的中世へ」というマクロコスモスの歴史を「近代の音楽芸術」というミクロコスモスが縮小反復しているという解釈です。ちなみに、フランス革命の英雄ナポレオンは古代ローマに強い関心を示していたと伝えられ、フランス革命時代の式典では、ローマ風の意匠が好んで用いられたようです。音楽史に「古典的/ロマン的」の対比が適用されたのも、フランス革命を古代ローマになぞらえようとする当時の心性と無関係ではないでしょう。)

革命下のパリに音楽は流れる

革命下のパリに音楽は流れる

●文学におけるロマン主義

  • ゲーテ (1749-1832)
    • 小説「若きウェルテルの悩み」(1774) *自殺ブームを誘発。
  • セナンクール (1770-1846)
    • 小説「オーベルマン」(1804) *スイスの自然の中での哲学的瞑想。
  • シャトーブリアン (1768-1848)
    • 小説「ルネ」(1805) *「自分探し」で新大陸の西部開拓地へ。
  • 一人称(書簡体や日記体)
  • 若い主人公の孤独と不安 → 「自分探し」の旅 → 芸術、自然、恋などに救い
  • 「みじめな現実」vs「どこかにある理想の世界」の対立

時代背景:フランス革命(1789-)による社会不安(「世紀病」)

(補足:要するに、ロマン主義というのは18世紀末の「世紀末思想」であり、ロマンチストの若者の「自分探し」というのは、要するに18世紀版のニートだと思うといいかもしれません。)

●音楽とロマン主義

(補足:音楽に対するロマン主義の影響は、「評論 → オペラ台本&歌曲のテクスト → 器楽一般」というように、文学/言葉に近い領域から段階的に進展している。本格的な音楽のロマン主義が1830年代からというように文学より一世代遅れているのは、この頃ようやく、ロマン主義文学で育った世代が成人して活躍しはじめた=旧世代との世代交代が1830年にようやく実現したからでもある。)

1800-1810
ロマン主義作家の芸術家小説や音楽評論の出現。
1810-1830
オペラの台本や歌曲の歌詞がロマン主義の影響を受ける。(ウェーバー、シューベルト)
1830-1850
詩的・文学的なタイトルをもつ器楽曲の出現。(シューマン、ベルリオーズ、ショパン、リスト)

<ロマン主義作家の芸術家小説と音楽評論>

  • ヴァッケンローダー (1773-1798)
    • 小説「ある修道僧の心情告白」(1797)
  • ジャン・パウル (1763-1826)
    • 小説「宵の明星」(1797)など
  • ホフマン (1776-1822)
    • 「ライプチヒ一般音楽新聞」にベートーヴェン第5交響曲論を発表(1810)
    • 小説「牡猫ムルの人生観(1820)

注意:ロマン主義作家の芸術論・音楽論では、音楽全般(特に交響曲や室内楽などの特定の標題をもたない器楽曲)が「romantic」と形容されている。

絶対音楽の理念

絶対音楽の理念

<オペラの題材へのロマン主義の影響>

  • ヴェーバー
    • 「リュベツァール」(未完)→序曲「幽霊の支配者」(1811)
    • 「魔弾の射手」(1821)*17世紀ボヘミアの狩人の生活
    • 「オイリュアンテ」(1823)*中世フランスの騎士物語
    • 「オベロン」(1826)*イギリスの精霊の王と妖精たち

(補足:序曲「幽霊の支配者」などロマン派オペラにおける超自然現象には、観客を本気で怖がらせる「ホラーもの」の要素がある。そして「魔弾の射手」序曲における「霧→夜明け→悪魔の出現→恋」や、「オベロン」序曲での「安穏とした妖精界=ホルン、フルート」、「中世ボルドーの騎士=トランペット」など、まるでカラフルな絵本のように、オーケストラを状況描写の「色彩」として用いているのが特徴。)

管弦楽法

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補足2:

同じ音型が楽器や奏法によってまったく異なった表情と色彩を獲得するという楽器法・オーケストレーションへの関心は、音楽における「化学」の発見と言えるかも知れません。最初に夢遊病的なコルトーの映像を紹介しましたが、ロマンチストは、夢想的であると同時に知的・科学的sientificなインテリでもありました。鉱物技師であると同時に詩人であり、鉱石の神秘に魅惑されながら<青い花>を追い求めたノヴァーリスはその典型でしょう。

青い花 (岩波文庫)

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また、複製芸術論やパサージュ論で知られるヴァルター・ベンヤミンの博士論文は、ロマン主義の反省概念(=「私とは何なのか?」という内省を実現する概念装置)がカントの精緻な批判哲学から派生したことを論証しています。

ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念 (ちくま学芸文庫)

ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念 (ちくま学芸文庫)

さらに、ロマン主義文学はしばしば童話・メルヘンを偽装していますが、注意して読んでみると、非現実的な事態に巻き込まれる主人公たちは、ほぼ完璧に「近代的自我」を確立しています。近代人が中世にタイムスリップしたような意識と状況の落差が、ロマン主義の「近代文学としてのメルヘン」を可能にしているわけです。

同様に、自殺ブームを巻き起こしたゲーテの「ウェルテル」は、刃物ではなくピストルで自殺します。ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」の舞台は17世紀、三十年戦争後のボヘミアという意外に新しい時代であり、森の村人たちは猟銃を持っています。内省し、悪魔信仰に立ち向かうロマン的主人公たちは、火薬を使いこなすことのできる文明人です。

音楽においても、ロマン主義者の一部は大学に通ったインテリであり、ロマン主義者の中で最も「ニート」っぽく定職につくことのなかったシューベルトも、少年時代はかなり学業成績優秀であったようですし、デムリンクは、ベルリオーズのオーケストレーションが極めてリアルであることを指摘しています。

ベルリオーズとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

ベルリオーズとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

緻密な設定なしには面白いSFやファンタジーを書けないし、特撮やCGアニメーションが最新テクノロジーの成果であるように、ロマン主義は、現実逃避の傾向を帯びているにもかかわらず、19世紀の「知とテクノロジーの最先端」だったのだと思います。

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ただし、19世紀初頭の知=科学が20世紀以後の科学、現在、義務教育などで教えられるような科学的常識とはずいぶん違っていることも見落としてはならないでしょう。

上で述べたように、この時代の歴史観は、古代ギリシャまでを「古典時代」、キリスト教以後をまとめて「近代」と呼ぶ大ざっぱなものでした。

ヘーゲル美学講義〈上〉

ヘーゲル美学講義〈上〉

フランス革命は確かに大事件ではありましたが、本当にここから「新しい時代」が始まるという確信はない。一部のロマンチストは、彼らの夢想するユートピア的なヴィジョンが「未来」において実現する、いや、実現させなければならないのだ!と煽り、結果的に、今では19世紀こそが「近代のはじまり」とみなされていますが、このように、19世紀を歴史の大きな分水嶺とする見方は、同時代的には、一部の人々の夢想でしかなかったと思われます。

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)

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例えばシューマンは、「新しいポエジーの時代のために」と宣言して1834年に新しい音楽雑誌を創刊しました。音楽評論家としてのシューマンは、作曲家としてのメランコリーに比べるとものすごく「オプティミズム」です。「こちら側」と「あちら側」を橋渡しするエージェント。いってみれば、シューマンは「ロマン主義の梅田望夫」。そういう風に考えると、この時代のロマン主義の位置づけをイメージしやすくなりそうです。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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(そういえば、梅田望夫さんという方は、童話作家のご子息であったり、「こちら」と「あちら」という言葉遣いとか、「熱いオプティミズム」とか、ともすれば、ロマン主義の再来?に見えるものを身に纏っているようにも見えてしまう人ですね。「歴史は反復する」ということなのでしょうか……。というより、そういう時代の転機に人が意図せず反復してしまう部分と、そうではなく本当に意味のある部分とを選り分けて受け止めるのが、リテラシーというものなのでしょうね。以上、余談。)

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その他、19世紀初頭の数学はまだ集合論も知りませんし、

ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

光を巡る考察が相対性理論をもたらす気配はなく、ゲーテのような人文系教養人が「色彩論」を書いたりしています。

ゲーテ全集〈14〉自然科学論―色彩論

ゲーテ全集〈14〉自然科学論―色彩論

ヘルムホルツの音響学は19世紀後半の理論ですから、「音」の知覚メカニズムやそれに対応する物理現象についての知識も19世紀前半にはまだまだ曖昧。それに、DNAはおろかダーウィンの進化論以前ですから、「ヒト」が「動物の一種」だとする発想は希薄だったと思われます。

こうした世界認識のパラダイム転換的な話を、フーコー「言葉と物」の議論(「不透明な内面を抱えた人間」という観念は、19世紀になってはじめて言説空間に浮上してきた比較的新しい表象である、という文献調査報告)であるとか、ヘーゲルの観念論は「精神」という「霊的」な何か(精神=Geist(独)=spirit(英)は同時に幽霊や精霊を意味する言葉ですから……)をキーワードにする人間論だなあ、といった哲学談義へ展開すると非常に面倒なことになってしまいそうですが……、

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

精神現象学

精神現象学

とりあえず、19世紀の産業革命にとって蒸気機関の発明が決定的であり、19世紀が熱力学の時代だったというのは、この時代の科学と思想の有り様をイメージするときのひとつのポイントのような気がします。

世界の名著 79 現代の科学 1 (中公バックス)

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「熱」というのは、それ自体、姿・かたちのない現象ですが、その振る舞いは、ニュートン的な「力」の向こう側に「エネルギー」という知覚できない何かを仮定しないと上手く説明できなくて、蒸気機関は、そうした熱エネルギーを運動エネルギーに変換する19世紀のハイテク、ということだったのではないかと思うのです。

(19世紀には、「Perpetuum mobile」という、最初から最後まで休みなく素速い音符で動き続ける曲芸的な小品が流行しました。音楽の世界では、これを「無窮動」とか「常動曲」と訳していますが、Perpetuum mobileは、もともと、物理学の夢であった「永久機関」を指す言葉ですね。音楽におけるPerpetuum mobileは、18世紀風のロンド形式で、ちょこまかした指先のトレーニングを極めるジャンルなので、決して「最先端」の音楽ではありませんが、「永久機関」という名前の曲が流行するというのは、いかにも、19世紀=エネルギー論の時代、という気がします。)

自然科学における熱とエネルギーの理論、産業における「内燃」機関としての蒸気エンジン、哲学における「内面」の「精神」活動という「人間」観。この三つは、たぶん19世紀の同じ時代を特徴づけるもので、そういう時代の空気を巧みに掬い上げるように台頭したのが、芸術における「ロマン主義」なのだと思います。いわば、19世紀前半の若い世代の思考と感性・ライフスタイルにジャストフィットした「<芸術>進化論 - 本当の大変化はこれから始まる」論です。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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(ちなみに、19世紀半ば、二月革命の挫折以後には、ロマン主義の「時代の先端」としての賞味期限が切れて、文学は、自然主義リアリズムに転じ、絵画はアカデミックなサロンや、家庭の居間を飾るビーダーマイヤーを経て、そうした凡庸さへの反発から世紀末に印象主義や表現主義が生まれます。音楽におけるロマン主義も、19世紀の前半と後半でも意味合いが変わってくるのですが、それはまた別の話。)

(以上)