びわ湖ホールのことなど

「滋賀県議会最大会派の自民党が予算修正案を提出予定(びわ湖ホールへの補助金の大幅削減要求を含む)」という趣旨の京都新聞の記事が発端でプチ騒動になっているのかもしれないびわ湖ホールの件。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008030100040&genre=A2&area=S00

現状では県議会の自民党が、最大会派ではあるけれど過半数ではない(しかも栗東の新幹線駅問題のときには、いわゆる「嘉田派」に自民党が負けて、嘉田知事の建設凍結案が通っている)といった微妙な事情が全部吹っ飛んで、昨日のイシハラ リリック アンサンブル演奏会でちょっと立ち話していたら、「びわ湖がホールなくなるの?」という乱暴な噂話になってしまっていて、びっくりしてしまいました。それは煽りすぎ。
音楽業界の怪情報を冷静に解毒するには、やくぺん先生、渡辺和さんのページが一番。まずはこちらをどうぞ。

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/archive/20080307

正直に告白すると、実はわたしも滋賀県議会の微妙な勢力分布(現在議席の過半数を撮っている会派はなくて、立場としては知事さん寄りと見られる人のほうが多数であるらしい、政治は「水物」なので、どうなるかは、いわゆる「予断を許さない」ということになるのでしょうが)はよくわかっていなくて、風評は話を思い切り単純化して広がるものだから気をつけないといけないな、とちょっと反省しました。

ただ、例えば、少し前の大阪の「オーケストラ統合発言」では、「ありえない!」とか「そんなことは認められない!」という声がすぐにあちこちから上がって、各オーケストラが活性化したわけですが、びわ湖ホールについては、オペラハウスの運営の大変さを皆さん知っているせいか、びわ湖ホールがいわゆる「市民オペラ」的な地元密着とはちょっと肌合いが違っていて、最近の関西の得意技である「地元の音楽家を結集して」というのでもなくて、東京や海外から人材を集めて国内トップクラスを目指すという風に目線が高いせいか、「自分たちの劇場を死守せよ」的受け止め方になりにくいところがあるのかな、とは思いました。

関西はオペラとどういう風につきあってきて、今、どんな風に思っているのか……ですね。

ここでまたもや朝比奈隆さんを引き合いにだして申し訳ないのですが、昔の雑誌を調べて見つけた、1950年代の朝比奈さんの発言

私はシンフォニーは国際的なものだけれども、オペラは民族と結びついたものだと思っています。

という交響曲とオペラの対比が個人的には非常に強く印象に残っていています。

非常にシンプルで、朴訥な感じにも見えますけれど、でも、これぐらい大胆な線引きを最初にしてしまって、そこから順番に考えていくのが、オペラという怪物、関西とオペラというお題にアプローチする良い準備運動かもしれないな、と思っているのです。

以下、長々と書いたことは、知っている人には今さらであるような、わたし自身にとっての勉強のメモ、あんまり情報量のない独り言ということでご理解くださいませ。

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「民族芸能としてのオペラ」。中国に京劇があり、スペインにサルスエラがあるように、日本の音楽劇は日本の文化に根差した芸能であるべきだ!などという主張は、あまりにも既視感があって、今さらこういうスローガンにグローバルな高度消費社会・情報社会の皆さまが振り向いてくださるとはとても思えないのですが……。

でも、とりあえず1950年代の朝比奈さん自身はたぶん「本気」だったし、言行一致の人・朝比奈隆を軸に関西を見ていくときには、踏まえておかないといけないキーワードなのかな、と思うわけです。

実際、朝比奈時代の関西歌劇団の方針(創作オペラに力を入れたり、日本語の訳詞で場合によってはレチタティーヴォを台詞にしたりもする)はこの考えがベースにあったのだろうと思います。

そしてここで要注意なのは「民族」という言葉。たぶんこれは、国粋主義というよりも、

オペラは映画やミュージカルのように敷居の低い、地元密着型でなければ興行としても芸能としても定着しない(逆にヨーロッパではそういうローカルな芸能として定着している)。

という認識だったんじゃないかな、と思っています。(50年代は、戦前の築地小劇場の流れを汲みのちに安保闘争の先頭に立つような新劇系の人たちが「民話劇」に取り組んだ時代ですから(要するにそれが「夕鶴」)、「民族」について考えることは、タブーや特定の立場の符丁ではなく、アクチュアルで「開かれた問題」だったんじゃないかと思うのです。)

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けれども、その後、60年前後から70年代にかけて、NHKのイタリア歌劇団公演や大阪国際フェスティバル、70年大阪万博のときのフェスティバルホールでの「万博クラシック」(万博期間中に連日のようにフェスで開催された演奏会シリーズですが、興行としては万博の公式行事だったようです)で、ちょうどパンダのような珍獣やキャビア、フォアグラ、トリュフのような世界の珍味を現地から直送するみたいにして、各国のオペラを直輸入するようになったことで、朝比奈さんご本人にはどうにもならないところで潮目が変わっていったように、色々な資料を読んでいると思うのです。

現地の環境(それらを楽しむお客さんたちのノリ)から切り離して、人(とんでもない声と演技・存在感の歌手たち)とモノ(大がかりな舞台)がやって来たことで、オペラは、むしろ半端な努力では追いつけない(オーケストラのさらに上を行く)「高い目標・お手本」(すぐには手が届かないような)になってしまったのかな、と。(それまでクラシック音楽を「音」としては知っていた方々も、現物を見ることはできなかったわけですから、いわゆる「本場のオペラ」、本当に人が舞台上で動く姿は、相当なインパクトがあって当然だっただろうな、と想像しております。)

朝比奈さんの立場も、調べてみると70年代については、ちょっとわかりにくいところがありそうです。

「万博クラシック」の大フィル公演のプログラムには、朝比奈さんの

オーケストラは国力の象徴である

という趣旨の言葉があるんです。この言葉をどう読めばいいのか。

「オーケストラはローカルルールに閉じこもるべきではなく、国際的な場で競い合うべきだ」という風に読めば、上で引用した「オーケストラは国際的」という50年代の発言の延長ということになりますが、「国力」と言ってしまうと、国の代表が「敵同士」として競うようなニュアンスが出てしまいますよね。今読むと、大阪万博が「文化のオリンピック」(東京五輪の6年後のイベントであり、東京がスポーツだったら大阪は科学と文化だ、という東西対抗の雰囲気もあったらしい)として喧伝されていた時代の空気に感染しているように見えなくもありません。

(オーケストラで「国力」を競うという言葉だけを取り出すと、第一次大戦前後の日本を含む列強各国が軍艦の数と威力を競い合っていた時代を連想してしまいます。アドルノは、R. シュトラウスのオーケストレーションを新時代の最新鋭艦に喩えたりしていたわけですし。山田耕筰のオペラ「黒船」は、かつてそんな帝国主義時代のベルリンに留学した作曲家が、「日本のシュトラウス」「日本のプッチーニ」の威信を賭けて完成した作品だったわけですから……。)

1976年に大フィルが初めての欧州演奏旅行に出て、ノヴァーク博士ご臨席で戦前のハース版のブルックナーを演奏したり、ベルリンで自主公演を打ったことも、「シンフォニーの国際性」の文脈で受け取るのか(=1956年に単身ベルリン・フィルへ出演したときと心の構えは同じだったのだと取るか)、「国力の発揚」の文脈で捉えるか(=朝比奈・大フィルが山田耕筰流の「日本の黒船」の覚悟でヨーロッパへ乗り込んだのだと取るか)によって、意味が変わってくると思います。

片山杜秀さんが近著「音盤考現学」で「無国籍」と形容した晩年の境地にたどりつくまでに、朝比奈さんは波乱の60, 70年代をくぐりぬけているんですね。

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

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「シンフォニー」の意味が動揺していた波乱の60,70年代(朝比奈さん自身の揺れなのか、朝比奈さんを取り巻く「時代」の揺れなのかの見極めは困難であるにせよ)に、オペラのほうも、朝比奈さんにとって「民族との結びつき」という風に割り切れるものではなくなっていったように見えます。この過程は、私にはまだ具体的なところがよくわかっていないのですが、少なくとも80年代以後、朝比奈さんは完全にオペラから切れていますね。

そして、簡単には手が届かない「高い目標・お手本」としてのオペラに高額の「付加価値」を見出すことで、現在の、岡田暁生さんが「オペラの運命」の最後でアマゾンの奥地に劇場を建てる映画「フィッツカラルド」を引き合いにだすような「究極の道楽としてのオペラ」の時代が来る。

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

(ちなみに、これも音楽業界の方々には常識なのだと思いますが、梶本音楽事務所はもともと大阪のマネジメント会社で、70年の「万博クラシック」の海外からの招聘事業を一手に引き受けたことが会社躍進のきっかけになったそうですね。世の中の成り行きには、なんでも「来歴」がちゃんとあるものだと、この話を知ったときに、本当に感心してしまいました。)

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話が壮大に脱線しましたが、でも、劇場経営というのは、おそらくこういう経緯を基礎知識として知っている、あるいは、言われなくても肌で感じているところからスタートするものなのだろうなと思います。

さて、そしてびわ湖ホールがどういう風に舵取りしていくことになるのでしょうね。

「フィッツカラルド」的ドンキホーテのさらに先の奥地へどんどん分け入っていくのか、どこかで、別の路線を装填することになるのか。「市民オペラ」的な要素を含むビエンナーレとか、青少年オペラ、大ホールを補完する形での小ホールの声楽アンサンブル定期など、大ホールのプロダクション以外に実はいろいろと「保険」はかけられているので(このあたりは、若杉時代の設計がかなりの二枚腰・三枚腰だったということだと思います)、既定路線の自動操縦かどこかで主導に切り替えるのか、上手な操舵手がいれば、色々な展開がありうるはずだとは思うのですが。

[追記 22:17]
そして、びわ湖ホールのために今すぐ何かしたい、という行動派な方は、私のページを読んでいないで、ここを見ましょう。

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2008-03-08#comments