劇場と「集会の自由」

先日、NHK-BS1でベルリンの壁崩壊の経緯を振り返るドキュメンタリーを観ていたら、ドイツ座という劇場での集会が東ベルリンの50万人デモの発端になったことが紹介されていました。文化施設は、表演者の発表の場であるだけでなく、不特定多数の「集会」の場でもあることを思い出させてくれるエピソードでした。

そのことを手がかりにして、しつこいですが、橋下クン関連の話をめぐって、思いついたことをメモしてみます。(大枠の話で、直接的・具体的な案件には触れていません。橋下クン本人は、政治ネタというより、ワイドショーのオモチャになりつつある雰囲気で、そういうのには興味がないので。)
まずは、(個人的には、文化の話をあまり勇ましい言葉で語りすぎるのは、発想が硬直する危険がありそうで、あまりやりたくないのですが)かなり強い言葉の引用から。

私たちは、文化なしで生きられるのか。
この問いに、文化に関わる活動をしている人たちはどう答えるのか。

平田オリザ氏は「芸術立国論」(集英社新書)の中で、「芸術、文化は(それが)なくても死なないじゃないですか」という声が必ずと言ってよいほどあがることを指摘し、それに対して、次のように反論しなければならないと述べている。

芸術文化を享受する権利を守ることは、「生き死にの問題だ」と力強く主張しなければならない(p. 146)

文化は基本的な社会的インフラである - ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

いきなり「文化は生き死にの問題だ」と断言されても多くの人が戸惑いそうですが、でも、そういえば、過去の多くの権力者は、言論弾圧の一環として劇場を統制・制圧したんですよね。

「演劇」と「演説」(政治的意思表示の原点)はほとんど同じ構造になっていて、劇場は、自由な意思表示(言論)に、公衆が反応する場所なのですから、山崎正和(彼は準備段階から兵庫県立劇場設立に深く関わっているので、兵庫県の文化施策を - しかも「品格」なんていう言葉遣いで - 持ち上げる彼の論説は、やや我田引水的と言うべきでしょうが)や平田オリザのような演劇人が政治に対して敏感なのは、その意味で極めてまっとう。考えるべき人が考えるべきことを考えているなあ、ということだと思います。

そしてこれを、最初に紹介した「壁崩壊」前夜の東ベルリンのお話とくっつけて思ったのは……、

文化行政の軽視・縮小がいわゆる「集会の自由」、人が一同に会する権利の制限につながる懸念はないのかな、ということでした。オーケストラの存廃問題はともかく、大阪府では、他の数多くの「施設」や「事業」の存廃が検討されているわけですよね。そういうのは、「言論の自由」を構成する要件としての「集会の自由」の観点からチェックする必要があったりしないのかな、と思ったのです。

その意味では、長野の聖火リレーがかなり恣意的に管理されている可能性が指摘されたり、ネット上の「有害情報」への検閲が論議されるのと同系の問題なのかもしれません。

現在、ニュー・メディア(インターネット)における表現行為は「情報社会」(いわばベンチャービジネス)の問題、オールド・メディア(劇場)における表現行為は「文化・芸術」(いわば趣味と娯楽)の問題というように、一見、直接関係がないかのように語られるのが普通ですが、一度、議会制民主主義の視点で、これらを「言論・表現・集会」という同類の権利案件としてくっつけて考えてみたほうがいいのではないか。

そして、そういう権利をできるだけ広く確保しておくのが社会の安全弁だというのが、いわゆる「民主主義」の知恵だったはず。

そういうことを律儀に主張しつづけていた「戦後民主主義」世代の方々は、既にその多くが物故者であったり、現役引退していらっしゃったりするわけですが、でも、文化・芸術行政を目先の「お金の問題」に還元しようとする動きに対するベーシックな反論のひとつとして、この視点を忘れてはいけないだろうな、と思いました。

「お金がないから<文化>は<民>で勝手にやってください」と言うのであれば、それじゃあ、そうした「民」の自由な表現行為を管轄する官憲のほうも、同じように「民」の自浄作用に任せる覚悟とヴィジョンがあるのかどうか。

パフォーミング・アーツは、政治的になりうる潜在力を隠し持っている芸能であって(オペラの演出はしばしばスキャンダラスな「古典の政治化」を標榜しますよね、小手先のポーズに過ぎない場合もあって、逆効果・空回りの場合が多分にある気はしますが……)、常にそこが十全に機能しているわけではないにしても、やはり、世の中のバランスが失調しつつあるときこそ、「炭坑のカナリア」として大切にされねばならないのではないか。簡単に殺してはいけないのではないか。それが「文化は生き死にの問題だ」ということの含意じゃないかな、と思ったのでした。

日本国憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

(もちろん以上の話は、法学の主流であるところの、条文の行政的手続き解釈論のレイヤーを大きく踏み越えた思弁ではありますが……。)

P. S. 先日、杉村春子せんせいの「女の一生」DVDをみて、立て板に水で台詞をさばく「強い女性」の姿が、まるで、若い頃のリヒテルのピアノみたいだ、と感心しました。これぞ大女優。芝居の内容も、ずいぶん政治的な領域に踏み込んでいることを知り、びっくりしました。無知は罪。

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