いずみホール・オペラ〜岩田達宗プロデュース〜「ランスへの旅」

佐藤美枝子(コリンナ)をはじめとして、関西出身の主役級の人たちをよくぞ集めたという感じのキャストによる公演(佐藤正浩指揮、ザ・カレッジオペラハウス管弦楽団ほか)。これだけ音楽的に充実していれば文句のつけようがないですね。

ここでは、岩田達宗について、少しだけ。
ランスの戴冠式へ行くつもりで温泉場のホテルに集まった貴族達が、結局、旅立つことができなくなって、それならばとホテルでパーティーをはじめてしまう、というただそれだけの話。

人気絶頂のロッシーニのパリ・デビュー作という条件でなければありえなかった、豪華ソリストによるア・カペラ「十七重唱」というとんでもない見せ場があって、まあ、それを聴きに行く作品ということになるかと思います。

オムニバス形式で豪華俳優の顔見せをやる映画をクレタ・ガルボその他が出た映画にちなんで「グランド・ホテル形式」と言うそうですが、ロッシーニの究極の顔見せオペラも、舞台はホテルなんですね。

気取った意味づけをするとしたら、戴冠式という「時代の変わり目」に立ち会いそびれた貴族たちが時代のエアポケットで空騒ぎするところは、いかにも王政復古時代のオペラ、と言うことができるかもしれませんし、

個人的には、「グランド・ホテル」な感じをどういう風に演出してくれるのかな、というのが楽しみだったのですが……、

ソプラノの大仰なアリアの節回しにあわせて、周りの人間が大げさにカラダを揺らしたり、音楽のリズムに合わせて出演者がリズムを取ったり、お遊戯みたいに花を揺らしたり、スタイルとしては、古式ゆかしいオペラ・ブッファ、大人のコメディというより、かなり「かわいい」舞台でした。(カラダを張って演技というより役者が踊る感じは、昨年のカレッジオペラハウスの「賢い女」と同系統のフレーバー。)

ホテルの人たちが、逗留客たち以上に大げさにドタバタするところは、狂言回しが背後に引いて、次々入れ替わるお客様たちを引き立てるオムニバスというより、舞台裏の混乱を見せるバック・ステージものの雰囲気。庶民の目線でお金持ちの客達を見上げる感じは、オペラというよりミュージカル風かな、と思いました(あるいは、朝の連続ドラマや昼メロの「若女将」もの?)。

でも、見せ場の「十七重唱」のあとの宴会シーンは、万国旗を張り渡して、歌手たちの国歌を交えたお国自慢では、演出の岩田さん自身がステージに登場して、ここまでやられたら納得するしかないですね。茶化しているわけではなくて、演出の岩田さんは本気です。

ヨーロッパの演出家の人たちは、18世紀や19世紀のオペラと現代の間の「歴史的な距離感」を舞台上に顕在化させようとする傾向が強いように思うのですが(例えばコンヴィチュニーの「アイーダ」は古くさいスペクタクルを壁の裏側に抑圧することで成り立っている)、岩田さんの演出は、音楽に歌手自身がノッてみせるなど、自分たちの等身大に音楽を引き寄せて楽しむスタイルと言えるかもしれません。「ボクはこのオペラのここがこういう風に面白いと思うんだ、だからみんなも、ボクと一緒に楽しもうよ!」という感じ。舞台から客席へ広がる共感のウェーヴ。

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初演以来、完全に忘れられていたこの機会作品の楽譜が復元されて、アバドがあちこちで精力的に蘇演していたのは1980年代の後半で、アバド&ウィーン国立歌劇場が日本で上演したのは1989年だったのですね。

渡辺裕の「聴衆の誕生」が出て、シュワちゃんの「ちちんぷいぷい」(ショスタコーヴィチの交響曲第7番)とか、CMで使われたキャスリン・バトルのCDのヒットを「新しい聴取」として全肯定していた牧歌的な時代。

岩田さんは「ランス」に大変な思い入れがあるそうなのですが、ひょっとすると、バブル時代の感覚をいまもストレートに持ち続けている人なのかな、と舞台を観ながら思いました。

「熱狂の日」や兵庫の佐渡さんの場合は、どうしても背後に仕掛け人がいる気配が濃厚で、だからこそ、その種のプロジェクトには「上げ底」をうやむやにしてしまえるくらいの勢いが必要なのだと思いますが、

岩田さんの場合は、彼自身のプロデュースで、本当に彼が企画した演目らしいので、そういった「大人の事情」ではなく、心底本気で「ボクはランスが大好き!」ということなのでしょうね。

ピュアな人。オペラ界の山崎邦正。ちょっとそんな感じがしました。好みではないけれど、見終わった後、嫌な後味が残る舞台ではありませんでした。やり切ったという感じ。