ラフマニノフの曲目解説(かんでんハーモニアスファミリーコンサート大阪フィルハーモニー交響楽団9/26、大阪フィルハーモニー交響楽団第422回定期演奏会10/16,17、大阪シンフォニカー交響楽団第130回定期演奏会12/4)

この秋のシーズンは、なぜかラフマニノフの曲目解説を立て続けに書くことになりました。先日の秋山和慶さん指揮・大阪シンフォニカー(本番は残念ながら聴けませんでした)の解説は、ウェブ上で公開されています。http://www.sym.jp/critic/k/t_130.html

そういえば、「音楽現代」にはアシュケナージ指揮のラフマニノフ管弦楽全集のCD評も書いたのでした。

ラフマニノフ:交響曲・管弦楽曲全集 (Rachmaninov: Complete Symphonies and Orchestral Works)

ラフマニノフ:交響曲・管弦楽曲全集 (Rachmaninov: Complete Symphonies and Orchestral Works)

  • アーティスト: アシュケナージ(ウラディーミル),ラフマニノフ,レスピーギ,シドニー交響楽団
  • 出版社/メーカー: エクストン
  • 発売日: 2008/08/22
  • メディア: CD
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ラフマニノフを「映画音楽風」で片付けるのは、いくらなんでも、もうそろそろ止めたほうがいいのではないか、というのと、ラフマニノフにとってのアメリカというのが個人的にずっと気になっていたので、何回かに分けて、少しずつ自分自身の考えを練り上げながら書くことができたのは、私にとっては貴重な機会でした。

(でも、何度も同じ人間の書いた解説を読まされてしまった方には、ごめんなさいでした。それぞれ、少しずつ話の力点を変えたつもりではあるのですが……。)

大フィル10月定期では、パガニーニ狂詩曲のことを書きましたが(下記)、そのあとのショスタコーヴィチの交響曲第8番の解説の「ショスタコーヴィチは逆境に強い作曲家である」というのが、2006年に京フィルの「ショスタコーヴィチ生誕100年記念」で書いた話から考えを少し先へ進められて、よかったかな、と思っています。

ドミトリィ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の祖父はロシア皇帝の圧政に批判的で、ポーランド・リトアニアの反乱を支持する気骨のインテリだった。ショスタコーヴィチ家には代々、革命支援者が多かったと言う。ショスタコーヴィチの思想信条を特定するのは難しいけれど、第一次大戦とロシア革命を幼年期に経験したことは、彼の人格形成に重大な影を落としたのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは絶体絶命の逆境に強い。世の中が平和になると、ドタバタ喜劇風のピアノとトランペットの協奏曲や、無邪気な幼児へ退行したような交響曲第9番を書いてしまうが、スターリンの大粛清時代や第二次世界大戦中の極限状態になると、時代への反応では説明し尽せない鬼気迫る音楽を生み出す。一般に、彼は強権政治に蹂躙されつづけた悲劇の芸術家とみなされている。しかし、周囲の大人たちが革命への熱狂に沸く時代に生まれたショスタコーヴィチは、「政治と芸術」、「公式の建前と私的な内面」を整然と区別できないまま育ったのではないか。どこまでが「本来の自分」で、どこからが「外からの押しつけ」なのか、境目のはっきりしない錯綜状態が原点であり、だからこそ限界状況に過剰に共振してしまう。それが彼の生涯だったように思われる。

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ラフマニノフについては、大フィルのびわ湖ホールでの演奏会、指揮・沼尻竜典のために書いたピアノ協奏曲第2番の話(下記)がまずあって、そのあとにシンフォニカー定期のために書いたピアノ協奏曲第3番(ロシア時代後期の曲)と交響曲第3番(アメリカ時代の曲)と見ていくと、ひととおりラフマニノフの歩みをたどっていることになるかもしれません(アメリカ時代のラフマニノフの動静については、大フィル定期の「パガニーニ狂詩曲の解説のほうが、シンフォニカーの分より、ちょっとだけ詳しいです)。それぞれ解説として、お役に立っていればいいのですが。

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18
クレタ・ガルボが出演した名画「グランド・ホテル」(1932年)や、平凡な主婦のよろめきを描くイギリス映画「逢びき」(1945年)のBGMに使われたことが、この曲のイメージを決定してしまったのかもしれません。ロシア貴族出身のセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)は、1917年の革命で祖国を離れざるを得なくなります。身一つでたどりついたアメリカでは、彼のピアノ演奏を吹き込んだレコードが絶大な人気を博し、ハリウッドでは、同じように革命を逃れた亡命音楽家たちが東欧風のセンチメンタルな音楽を量産します。「古き良き世界」への郷愁が人々の心をつかんだのでしょう。アメリカの音楽市場で、ラフマニノフのピアノは、ヴァイオリンのクライスラーとともに、欧州直輸入の「最高級ブランド」になりました。
しかし、若き日のラフマニノフがペテルブルクとモスクワの音楽学校で学んでいた頃には、まだチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフが現役でした。惜しまれつつ亡くなったムソルグスキーやボロディンの遺作が次々発掘され、その力強い民族色は、遠くフランスのドビュッシーやラヴェルを熱狂させます。ラフマニノフは、ロシア音楽の黄金時代に育ち、チャイコフスキーの後継者を期待される存在だったのです。
チャイコフスキーもロシアの民謡や踊りをしばしば自作に取り入れていましたが、ラフマニノフの作品では、スラヴ風の節回しやエキゾチックな要素が、ギリシア彫刻のように立体的なテクスチュアに完全に溶け込んでいます。
ただし、ちょうどペテルブルクの壮麗な王宮が沼地のゆるい地盤の上に建つように、ラフマニノフの絢爛豪華な響きの裏には、繊細で壊れやすい内面が隠れていたようです。ラフマニノフは満を持して発表した交響曲第1番(1997年)が酷評されたことで自信を失い、数年間まったく創作ができなくなってしまいました。3年後の1900年にようやく心の傷が癒えて、再起を賭けた新作として1901年に初演されたのがピアノ協奏曲第2番です。彼の心の治療に当たった精神科医ニコライ・ダーリ博士に献呈されています。[以下略]

ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲 作品43
クレタ・ガルボが出演した名画「グランド・ホテル」(1932年)や、平凡な主婦のよろめきを描くイギリス映画「逢びき」(1945年)など、多くの映画のBGMに使われた「ピアノ協奏曲第2番」は1902年、ロシア時代の作品。「パガニーニの主題による狂詩曲」の甘く情熱的なメロディーもBGMの定番だが、こちらは1934年アメリカ時代の作品である。
ロシア貴族出身のセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)は、1917年の革命で祖国を離れざるを得なくなった。身一つでたどりついたアメリカでは、彼のピアノ演奏を吹き込んだレコードが絶大な人気を博し、コンサート・ツアーで聴衆を熱狂させる。新作は常にストコフスキーやオーマンディが指揮する名門フィラデルフィア管弦楽団で初演され、アメリカの音楽市場では最高級の待遇を受けた。しかしラフマニノフ自身は、アメリカという国をどう思っていたのだろう?
ラフマニノフは、1924年に他の招待客とともに、ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」の初演を聴いている。自宅ではジャズを弾いて楽しんだとも伝えられ、アメリカ生活からそれなりの楽しみを見出したようだ。しかし、公衆の前ではダンディな態度を崩さず、内面を見せなかったようだ。第一次大戦終結後はヨーロッパを頻繁に訪れ、1933年にはスイスのセナールに別荘を購入する。「パガニーニの主題による狂詩曲」は、アメリカから遠く離れたこの地で翌年夏に作曲された。[以下略]

(ピアノ協奏曲第3番と交響曲第3番については、大阪シンフォニカー公式サイトをどうぞ。http://www.sym.jp/critic/k/t_130.html