〈増殖〉するアングルブラケット 水村美苗『日本語が亡びるとき』に寄せるオマケの作文

〈本書〉に〈言及〉する〈文章〉は、なぜ〈律儀に〉〈キーワード〉を〈山括弧(アングルブラケット)〉〈で〉〈囲みたがる〉〈のだろう〉。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

水村美苗のデビュー作『続・明暗』の新潮文庫版は、夏目漱石『明暗』上・下とほとんど見分けの付かない装丁で刊行された。著者の名前が異なるだけで、書物としての体裁も文体もほぼ見分けが付かない「続編」が書かれてしまったわけだ。水村にとって「文学」とはこのような、仲俣暁生であれば「小賢しい文学少女」と言うかも知れないゲームだったのだろうと思う。

書物には、〈内容〉(漱石が未完で残した物語の続き)とともに、〈形式〉(そして文体・体裁)があるということだ。

著者の近刊『日本語が亡びるとき』は〈日本語論〉として読まれ、論じられている。これは、『続・明暗』を夏目漱石の作品として読み、水村美苗が書いた〈結末〉に対して、「漱石が物語をこんな風に終わらせたなんて許せない」等々と一喜一憂するのに等しい。(「なるほど、こんな調子では、早晩〈日本語〉は〈亡びる〉のかもしれぬ」。)

『日本語が亡びるとき』という書物の〈形式〉は、はたして本当に〈日本語論〉の体裁に過不足なく収まっているか。

〈日本語論〉は、しばしば、義憤に駆られて一気に書き下ろされた〈かのような〉体裁にまとめられる。本書は、前半で〈体験談〉が(小説風の文体で)綴られ、後半でベネディクト・アンダーソン等を踏まえつつ〈論〉が展開される。この〈体験談〉と〈論〉が滑らかにつながっていない(文体が明らかに変わる)のは何故なのか。そしてこの書物が〈評論〉であると考える人たちにとって、本書の「最初の三章」の初出情報が、「あとがき」の編集者への謝辞のなかにあいまいに紛れ込み、巻末等に独立して記載されていないこと、等々の〈評論的ではない〉細部は、読み落とされてよい、〈どうでもいい〉ことなのか。

そして〈内容〉を読み、〈内容〉に反応しているつもりの人が、体裁に感染して、アングルブラケットを〈増殖〉させてしまうのは何故なのか? (新種の「萌え」?)

(以下略)

ということで、この記事は、「亡びる」ことが危惧されているのかもしれない断言調評論体(長文の書き出し風の)で綴ってみました。

サイトとかブログとかいった物の価値は、とても生真面目なステージにあります。即ち真性でありまして、そうですなあ、昔日は、「明星」等のアイドル誌に「ヒデキのツアー日記」といったコーナーが掲載され「○月×日。今日、ヒデキは広島県民会館でコンサートだ。広島はヒデキの故郷。故郷の味、お好み焼きをお腹いっぱい食べてエネルギーを蓄えました。カンゲキ!」等と書いてあった場合、「これを実際にヒデキが書いている」と、心の底から信じている純真な少年少女は、読者の(それでも)40%だったのではないかと思われます。これは、当時の西城秀樹氏のマネージャー氏がゴーストライターとして無力だった。という意味ではなく、メディアの性質です。

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