「大植英次のマーラー是か非か」談義は、まだそれなりに続いているようですが、だめ押しで書いておきたいと思った話は単純で、20世紀のぶっ飛んだアーチストたちが作り出したほとんど客に拷問を強いるような営為の数々に比べれば、あんなものは問題とするに当たらない、あの程度は断然許容範囲の枠内ではないか、ということなのですが……、
たとえば、これは19世紀イギリスのフィクションですけれども、20世紀になって様々に映像化されたフランケンシュタインの怪物は美しいのか? 音楽で言えば、これも年齢から言えばほとんど19世紀の人ですが、ヤナーチェクが晩年の20世紀初頭に狂い咲きのように書いた一連の作品は美しいのか?(最近話題のチェコの老指揮者エリシュカの演奏は、よく整っていて「先生」っぽいところが私はちょっと不満なのですが。)
19世紀までのやり方と袂を分かとうとした芸術家の間では、暗黙もしくはあからさまに、「美」(音楽でよく話題になる形式美もこれに含まれる)ではなく「真実」(自然主義的リアリズムでは満たされないような)が希求されていた、そういう説明の仕方があるようです。
産業技術開発のエンジンとして幅をきかせつつあった自然科学は、仮説と検証の繰り返しで世界の森羅万象に次々説明を与えつつあったわけですが、そのことに危機感や刺激を受けながら、インスピレーションやイマジネーションによって、「仮説と検証」をすっ飛ばして「真実」にたどり着いてしまおうとする、ちょっと乱暴な考え方。(保守的なキリスト者から見ればダーウィンの進化論は十分スキャンダラスだったのですから、芸術家たちは、「真実」への道をイマジネーションでショートカットすることだって、自然科学だって、過激さにおいて大差ないと思っていたかもしれませんが。)
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芸術が「真実」へのショートカットだったと考えると、都会人の感覚では「悪臭ただよう不潔な場所」だった農村で自らの五感を研ぎ澄まそうとしたバルトークと、「エロスによる神との合一の道」を考えていたらしいスクリャービンをまとめて整理できるので、なかなか便利です。
そして、20世紀の芸術が奇形的に歪んでいたりすることも、彼らが、形を整えることは二の次だ、と「真実の探求」へ前のめりになっていたのだと考えると、衝動を納得しやすくなるかもしれない。アーチストたちが、自然科学の台頭に対抗しつつ、自然科学を出し抜こうとしていたのだとすれば、20世紀の芸術がラボ(実験)に近くなるのは、対抗意識によって自らの姿がライヴァルにどんどん似ていく現象と説明できるのかもしれません。
芸術は心理学や解剖学以上に優れて「人間」をつかむことができる、と自負して、悪徳やエロスや欲望の姿をさらけだす。芸術が「世界」をつかむやり方は物理学に勝っている、と主張して、壮大なヴィジョンを提示する……。
(あくまで想像ですが、そういうことが行われていた時代のアートの世界というのは、例えば「絶対的な真実なんて、あるわけないじゃん」と斜に構えた利口な物言いができるような雰囲気ではなくて、そんな減らず口を叩いたらポカンと一発殴られるか、一晩中説教されて人格を破壊されかねない、とても騒然とした場所だったのだろうと思います。アートは気楽に近づけないアブナイ領域だった。今でも演劇には、ちょっとそんな感じが残っているかもしれませんが。)
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20世紀は、そういう風に考えないとついていけない危険な香りのアート・プロジェクトのオン・パレードであったような気がします。もちろん、全部がそうだったわけではなくて、ポピュラー音楽(資本主義は気持ちいい、お金をもうけることに何か問題でも?の精神)に接近した人たちもいるし、ミニマル・ミュージックは時間感覚を奇形化させつつ既存の三和音を使っていて、やや妥協的。武満徹も、若い頃は「真実」系の人たち(大江健三郎の脚本で原爆被爆者青年が主人公になるオペラを書いた芥川也寸志とか)と話が合いそうなところにいて、勅使河原宏の映画に参加したりしていたのが、晩年は「夢と星、水と風」のメルヘン系の人になる(もともとがシュールレアリストだったということなのかもしれませんが)。
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だから、一連の騒動が収まった今となっては、「“真実”系の試みは誤りだったであって、やはりアートは美しくなければいけないのだ」と言うことも不可能ではないのでしょうけれども、万博公園(我が家の近所です)に今も残る太陽の塔を見ると妙な感じがしますし、大島渚のように、一生不機嫌で怒り続ける人は貴重かもしれない、とも思います。
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ひょっとすると、この種の人騒がせなアートは、ライブではなくて、録音や映像の「コンテンツ」として保存されることになるのかな、ライブでは気持ちの良く楽しめるレパートリーを中心にして、物騒なアートは録音・映像商品に任せる、そういう棲み分けの道が今はつけられつつあるのかな、という気もします。『レコード芸術』に片山杜秀さんや長木誠司さんが連載を持っている一方で、『音楽の友』の巻頭がウィーンの舞踏会の話題なのは、その兆候なのかも。中身がどんなに物騒なものであって(スプラッター映画でもノイジーなゲンダイオンガクでも)、CDやDVDとして棚に並べておく分には人畜無害ですから。これぞ高度情報社会。
「昼間働いたあとで、小難しい現代音楽なんて聴きたくない」というのは、1950年代に、「労働者に良質な音楽を」のスローガンを掲げていた労音における「会員」の多くの声だったらしく、労音が、一時は積極的だった新作支援などから撤退していく理由のひとつであったようです。
もっと遡れば、アドルノが「私は余暇という言葉が理解できない」と書き出すエッセイがありまして、労働と余暇の分離は資本主義の産物であり、「労働=楽しくない/余暇=楽しい」という二分法は資本主義の産物であって、この二分法が教養概念を破壊した、と書いています。いかにもヨーロッパの左翼インテリの物言いではありますが(アドルノがアメリカのポピュラー・カルチャー嫌いだったのは有名)、小難しいものが余暇のレジャーと相容れない(それは個人の趣味趣向というより、社会構造的にそうなのだ)ということが、原則論としては言えてしまうのかもしれません。そして、だからこそ逆に、アメリカン・ニューシネマのような企ては、あんなものがよく消費大国アメリカでムーヴメントになりえたなあ、と今でも語りぐさになるのでしょう。
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今年度の大フィル定期は、大植さん以外全部外国人指揮者で、しかもよく見ると、毎回ひとつは20世紀の作品が入っていました。外人さんのやることだから、ということにして、こっそりレパートリーを広げる作戦だったようにも見えるのですね。
大植さんのマーラーの5番の奇形的な演奏がどこまで計画的「犯行」(?)なのか、衝動的なのか、そこはまだわかりませんが、ひょっとすると、大阪の「仕事帰り」のお客さんの許容範囲はどこまでなのか、瀬踏みされているのかもしれません。大植さんは、アメリカ時代かなり広いレパートリーを取り上げていたようですし……。
ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの朝比奈隆さんですら、かつては新作歌劇をやったり(例えばストラヴィンスキー「エディプス王」の日本初演は朝比奈・関西歌劇団です)、十数年間、「大阪の秋」という現代音楽祭をやったりしていたのだから、オーケストラのひとつの領域として、実験的なことを(選曲・解釈の両面で)やるチャンスがあっていいし、今は、その落としどころを模索している段階なのかも。自治体(しかも羽振りがよかった時代の)がバックにいる楽団であれば、井上道義時代の京響や、高関健時代のセンチュリーのように攻めのプログラムがありえたかもしれませんが、大フィルがいきなりプログラムを一新してお客さんが激減したら死活問題ですから、見極めは難しい、恐いことでしょうね。そんなことも考えつつ、私は、変なことをどんどんやってくれる方に一票、です。
淀川長治がにこやかなTV洋画劇場のMCと辛辣な批評家という裏腹な活動を継続してきたのは「とにかく映画を観ろ、話はそれからだ」という意味である。TVでしか映画を観ない人間に真面目な批評をぶつけてもしょうがない。映画鑑賞という行為に惑溺しそれを生活の重要な一部とするような相手に対して、初めて彼は真剣勝負の映画批評を開陳したのである。
映画を観て「金返せ!」と口にするような人間は、誰かに駄作だと言われたらそれだけで映画を観ない。誰もがおもしろいと保証する作品だけロスなく観ようとする人間は、映画を観るという行為において、淀川長治と絶対的にスタンスが違う。だから彼はTVでは決して映画を貶さなかったのである。誰かに背中を押されなくても積極的に映画を観る人間が目にするような場では、忌憚なく辛辣な批評姿勢を貫いている。
蓮實重彦についてオレが識っている二、三の事柄: 黒猫亭日乗