片山杜秀「深井史郎と京都モダン音楽」(いずみホール「Jupiter」Vol.116)から南安雄の「チコタン」へ

昨日は、いずみホールの「隅田川」&「カーリュウ・リヴァー」公演。考えてみたら、コンサートホールで能を本式に上演することは、ひと昔前の通念であれば、相撲をプロレスのリングでやるのと同じくらい冒涜的でありえないことだったはずで、

(戦後、武智鉄二の時代でも、能楽師や狂言役者は、新劇や前衛劇に出演したというだけで能楽協会から糾弾されたらしいです……)

華より幽へ―観世榮夫自伝

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狂言役者―ひねくれ半代記 (岩波新書)

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芝居の格式から言えば、毛唐(失礼!)がいいかげんに翻案したイロモノ(重ねて失礼!)である「カーリュウ・リヴァー」のほうを遠慮がちに先にやって、「隅田川」がトリを務めるべきだったかもしれないところを、前座の位置であれだけのものを見せていただき、色々と考えさせられました。

そして、敢えて背伸びしてでも「カーリュウ・リヴァー」をトリに持ってきたのがいずみホールの心意気だったわけですが、公演については批評を書くことになっているのでここでは省略。

いずみホールのPR誌「Jupiter」の新しい号が出ていたので、片山杜秀さんの連載「関西作曲家列伝」のことを書きます。

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片山さんの連載は、2月号が芦屋の貴志康一、4月号が大阪の大栗裕で、次は誰だろうと思ったら、6月号は京都の……でも京都出身の菅原明朗や松村禎三ではなく、深井史郎でした。

なぜ、京都の話で、東北出身の深井史郎なのか?

1950年代の撮影所のことをよくご存じの出谷啓さんは、いつも「深井先生」と呼んでいらっしゃいますが、深井史郎は、全盛期の京都の映画撮影所で最も尊敬される作曲家だったようです。(京都で撮影され、海外で評価された「羅生門」や「雨月物語」の音楽は早坂文雄ですが、早坂は東京の仕事が忙しく、打ち合わせや録音のときに来るだけだったようです。)

黒澤明と早坂文雄―風のように侍は

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片山さんの深井史郎論の論旨を端的に言っているのは次の一節。

グローバルとローカルの合わせ技こそが本当のモダニズムだったのだ。

(1)ラヴェルやストラヴィンスキーの極意は、ただ国際的・進歩的なだけでなく、そうしたグローバルな「器」に、マダガスカルやロシアのリズム・旋律を盛りつけることだったのではないか?

(2)そしてそのことを深井史郎が学んだのは、時代劇映画の仕事においてだっただろう

ということのようです。

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直接的には深井史郎の話ですが、東欧音楽におけるグローバル/ローカルのせめぎ合いを書いた伊東信宏さん(京都出身)の関心のありよう(「中東欧音楽の回路」にまとめられたような)にも通じそうな刺激的なエッセイでした。

中東欧音楽の回路―ロマ・クレズマー・20世紀の前衛

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ここで話を強引に私自身の関心へ引き寄せますが、深井史郎より10歳若く、「大阪の作曲家」と見られている大栗裕の場合、京都との関わりはなかなか入りくんでいます。

残念ながら、大栗裕は、関西交響楽団のホルン奏者として録音の仕事をたくさんこなしたにもかかわらず、映画音楽を書くチャンスは一度も巡ってこなかったようです。そして、(ちょうど大部屋俳優が黎明期のテレビに次々転身したように)大栗裕は、在阪のラジオ・テレビ局で仕事をするようになります。大栗裕の「本業」は、オペラやオーケストラよりも、むしろ、放送音楽だったかもしれない、と思うほど大量に、ラジオドラマなどの音楽を残しています。

そしてホルン奏者引退後、大栗裕は、京都女子大学の教授になって、別の形で京都と関わるようになるのですが、この話は相当な広がりがありますので、別の機会にさせていただきたいと思います。

大栗裕は、「モダニズムの巨大実験場」だった太秦の映画撮影所とはすれ違ってしまったけれど、1960年代以後、堀川通りに偉容を誇る西本願寺から、七条を東へ向かって突き当たりの山を上がった京女へ至る、大谷の浄土真宗西本願寺派(儀礼の近代化に最も熱心だったとされる宗派)との関係を深めるなかで、別の入口から、京都的な「西洋モダンとアジアとのせめぎあい」を体験することになったようなのです。

(朝比奈隆の音楽生活四〇周年を祝う管弦楽曲「飛翔」は、宇治平等院の壁画をモチーフにして、極楽浄土を描いています。こうした1970年代の大栗裕の仏教作品は、彼の京都体験なしには説明できないものだと思っています。)

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そしてさらに話が変わりますが、片山さんは、「チコタン」という児童合唱の組曲をご存じなのかどうか。

児童合唱?南安雄作品集

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昭和44年の発表以来、ネットの海のなかで、今なおその結末が聴く人に衝撃を与え続けているらしい作品ですが(「だれや!あほう!」)、

これでもか、というばかりの関西弁の歌(作詞、蓬莱泰三)のバックは、冷静に聞くととってもすっきりした近代的なカデンツ和声です。まさしく「グローバルな器に盛りつけたローカル」の音楽。心温まるウェルメイドで、聴く者を完全に武装解除させてしまうからこそ、結末の衝撃がトラウマ的になるのでしょう。なんとも恐ろしい作品です。

作曲の南安雄(NHK名曲アルバムなどのアレンジで知られる人)は京都出身で、放送音楽の親分的な存在だった網代栄三の手引きで放送の仕事をはじめたようです。

オケ伴ゲキ伴―ある作曲家のくりごと (1961年)

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南安雄は、放送局で、大栗裕と接近遭遇したりもしていた模様。関西弁声楽の昭和30年代の代表作は大栗裕の「夫婦善哉」、昭和40年代の代表作は「チコタン」、そんな見方ができそうな気がしています。

そしてそういう「関西弁もの」の系譜をたどるときには、大阪だけでなく、京都をあわせて、立体的に考えたほうがいいのかもしれませんね。大阪の反骨、京都のグローバル/ローカルなモダニズム、そこに大正期の阪神間山の手ブルジョワ文化(貴志康一・大澤壽人)を加えて、やっぱり関西は「三都」がセットでひとつの文化圏ということでしょうか。