「音楽を考える2009 音楽と映像」(5) ラジオ放送におけるアナウンサーと、音楽物語というジャンル

神戸女学院の「音楽を考える」という半期の授業。「(20世紀の)音楽と映像」を考えてみようという趣旨で主に映画を取り上げてきましたが、先週から、今度は、放送(ラジオ・テレビ)の、映画とは似て非なる特性を検討しています。

時間も使える素材も限られているので、ややアクロバティックな立論ではありますが、

「映画になくて、放送だけに存在し、放送(各家庭とのダイレクトな遠隔通信)の特性を象徴するのは、アナウンサーの語りである」

というストーリーを組み立ててみました。

空から電波が降ってきて、家庭へ直接送り込まれる「放送」という行為の、よそ者的・侵入者的性格を和らげて、家庭の視聴者との仲立ちをする使命をアナウンサーが担っていた、だとすれば、放送の最初と最後に遠慮がちにコメントするアナウンサーこそが、実は、放送という行為のキーパーソンなのではないか。放送という行為は、家庭へドカドカと入り込む乱暴な営みなのに、あたかも、隣人・心の友であるかのように、親しげな印象を生み出している。それは、アナウンサーの語りによってコンテンツがラッピングされていたからこそなのではないか、というような立論です。

(国民動員メディアとして、ラジオやテレビの放送が、実は相当に乱暴な営みなのではないか、という考え方は、佐藤卓己先生の著作を読んで得たアイデアです。佐藤先生は、そんな大雑把な物の言い方はしていらっしゃいませんが。)

大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史

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現代メディア史 (岩波テキストブックス)

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テレビ的教養 (日本の“現代”)

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そして授業の最後には、(主にラジオの)放送におけるアナウンサーの語りの役割を整理しておくと、音楽物語(プロコフィエフの交響的物語「ピーターと狼」を嚆矢とするような)という20世紀(日本では戦後)に大流行したジャンルの特性や背景を説明する手掛かりになるのではないか、というような話をしました。

音楽物語というジャンルは、生のコンテンツをラッピングする「語り」が要請される放送というメディアに慣れた聴衆を前提していた、と考えると説明が容易になるのではないか、と思ったのです。

(これは、「音楽について語る言葉を抑圧するロマン主義美学を脱却すべし」という近代音楽美学の岡田暁生流の総括(「音楽の聴き方」)の大衆普及版、と言える話かもしれませんね。音の周囲にペタペタと言葉(語りや解説)を貼り付けてもいいじゃないか、という開き直りは、何も21世紀初頭の新しい主張=美学批判の装いを帯びた高尚なアジテーションとして改めて力説するようなことではなく、20世紀のマス・メディアの日常で、ごく普通になされていたことであるように思うのです。岡田さんが実際に望んでいるのは、クラシック音楽に貼り付けるのにふさわしい言葉をもっとよく考えよう、安直に「感動」や「癒し」と言ってしまうのは止めよう、ということなのだろうと思います。

そして私が「音楽の聴き方」という本に不満なのは、それはいいにしても、岡田さんが提唱する語りや思考の「型」が微妙に古めかしい気がするからです。音の設計パターンをレトリックや演出あるいは舞踊等との関わりではなく、「文法」という、言語学的には立場が微妙でありながら受験勉強では重要とされてきた言葉(ちなみに桐朋の斉藤秀雄は「音楽の文法」が口癖だったそうで、彼の父は「英語の偉い先生」とされますが、英語学者というより在野の文法教師というべき人だったようです←下に掲げた論文集に所収の「英語学の日本主義」参照)で形容すること、あるいは、あたかも楽譜が西洋にしかないかのような言い方をしたりすることなど……。

日本主義的教養の時代―大学批判の古層 (パルマケイア叢書)

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岡田さんが参照・紹介or主張・披瀝する考え方や発言、音楽の例を見ていると、時間が1980年代で止まってしまっているような錯覚に陥ります。1960生まれの著者が成人したところで、世界が時の歩みを止めてしまったかのようです。そういう風に歩みを止めてしまった感性を、同世代かそれ以上の世代が「新しい音楽論」として歓迎するという図式は、なんだかなあ、と思います。

例えば、鍵十字の下で指揮するフルトヴェングラーに感動することを政治的・思想的にどうこうとは特に思いませんが(フルトヴェングラーの指揮者として脂の乗りきった時期は、幸か不幸か戦時下であったのでしょう)、ナチスの宣伝映画にインサートされる「熱心な聴衆」が、周到な構図・ライティングで別撮りされていることにも気づいて欲しかったです。)

ラジオ・オペラと音楽物語の実例としては、大阪音大(研究事務部門)に特別にお許しをいただいて、大栗文庫の素材を使わせていただきました。(大阪音大の大栗文庫には、楽譜のほかに、大栗裕の遺品としてかなりの分量のオープンリール・テープが寄贈されています。現在、楽譜と平行して、こちらも整理作業中です。)

●レジュメ 侵入者としての放送、仲介者としてのアナウンサー

放送の象徴は、受信機・受像器の向こう側とこちら側をつなぐアナウンサーではないか

  • 映画:見世物小屋の娯楽、観客が自ら足を運ぶ (映画館は劇場の一種)
  • 放送:電波による遠隔通信、視聴者が自宅で受信(ラジオ・テレビは映像と音の通信機)

放送と政治:放送は「国民」を統合する手段。免許制で国家が統制

  • 1895年、イタリア人マルコーニが無線通信の基本技術を発明。
  • 1922年、英BBC放送開始
  • 1925年、東京放送局(現NHK)ラジオ放送開始
  • 1936年、英BBCテレビ放送開始
  • 1941年、米CBSテレビ放送開始
  • 1953年、NHK東京テレビ放送開始

1. 家庭へ侵入する音楽と映像

♪欲望という名の電車(1951年、監督:E. カザン)

  • 妹の家に、姉が居候。ラジオは姉の「私の音楽」、義弟にとっては外部からの侵入者・

♪ナチスの宣伝映画(Zeit im Bild映像による時事) 1942年ベルリン・フィル工場慰問。

  • 「聴き入る聴衆」の演出。役者が舞台を凝視している映像を、映像の観客が(揶揄できない状態で)凝視するという二重の強制が、全体主義を実現する。

2. 仲介者としてのアナウンサー

♪ラヂオの時間(1997年、監督:三谷幸喜)

  • 右往左往する出演者とスタッフ、最後をしめくくるアナウンサーの声

♪ラジオドラマ 月世界旅行(1962年(おそらくJOBK)、原作:J. ヴェルヌ、音楽:大栗裕)

♪ラジオオペラ 大栗裕「赤い陣羽織」(1956年頃放送か?)

参考:プロコフィエフ 交響的物語「ピーターと狼」(1936年)

  • この録音の語りはNHK放送劇団出身の黒柳徹子。
  • ナレーションをともなう音楽物語は放送劇を手本にしたのではないか?