大学人の学術書贈与システムをめぐる部外者の素朴な不安

ゆるやかに前のエントリーともつながっている話です。

(岡田暁生という「大先輩」と久々に対面せねばならなくなって、気の弱い「研究者崩れ」がビビって、不安と妄想で心の中がグチャグチャになっておるのだと、ご笑覧いただければ、それで十分でございます。卑屈で矮小な男の愚痴です(笑)。)

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毎回、色々な本や音源、映像をご紹介させていただいていますが、原則として、ここでは、自腹で買った本やDVDだけを紹介しています。

でも見ていると、大学の先生方のあいだには、お互いに自著「謹呈」をする風習があって、そういう書物については、ブログで「手製の美しいお礼状を頂き恐縮です」と優雅に応答しあったり、「このような本を頂きました!」と書影をブログに貼り付けて済ますものであって、内容に関する「忌憚のないご高評」を賜ったり、賜られたりすることはあまりないようです。(「忌憚のないご高評」は、多くの場合、建前の言葉であるらしい。)

大学人コミュニティでは、書物がお互いの間をぐるぐる回っており、あたかもマルセル・モースの「贈与論」で言うマナのような役割を果たしているかのようです。

執筆報酬としての原稿料や、「一般読者」が書店で書物を購入した代金から分配される印税は、このような「学術書贈与システム」の原資、いわば大学人コミュニティが一般信者から徴収する「お布施」であるかのように見えます。

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私は、「音楽評論家」の肩書きで文章を書くようになってから、自宅にさまざまな方から演奏会の招待状を送っていただくようになりました。「音楽クリティック・クラブ」という関西の音楽評論家の親睦団体に入れていただいてから、そうしたご招待はますます増えております。

おそらくこうしたご招待文化も、一種の「贈与システム」でしょう。

オフィシャルには入場料金が設定されている公開コンサートの招待状を配りあうのは、おそらく大学人コミュニティにおける書物の「マナ的サイクル」と同じように、一種の「贈与システム」なのだろうと思います。

でも、「贈与システム」の倫理としては大変失礼なことではありますが、私はこちらからの礼状等は一切お出ししておりません。演奏会のあとでいただいた挨拶状などに対しても、一切お返事は出しておりません。(年賀状等も、ものぐさの言い訳の面がなくはありませんが、ここ数年全部止めてしまいました。)

そして、ご招待やお礼状等の有無とは関係なく、聴いた演奏会の感想を書かせていただくことにしています。「忌憚のない評」という言葉が内実を持たなくなったら、批評家生命は終わりである、と考えています。

青臭いかもしれませんが、その一線を崩してはいけないと思っています。

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私は、ご招待文化という「贈与」のサイクル(ご招待)を活用して、演奏会の体験を増やさせていただきました。ここ1、2年はかなり演奏会へ行く回数が減ってしまっていますが、2000年頃からの数年間で、関西の本当に色々な演奏会、演奏家、演奏団体を経験させていただきました。そしてそういう経験があるから、文章を書くことができているのだと思っています。

ですから、少なくとも私の場合、招待状による「贈与」システムを原資として、批評行為を行っていると言えそうです。わたしは、招待状システムによって育てていただいた人間です。

ただし、最初に書いたように、そうした「贈与」サイクルへの直接的なご恩返しはしていません。

むしろ、批評を書くことで、私は、そうした「贈与」システムを言論・興行ビジネスへ接続しようとしているのだと思います。少なくとも私にとって、音楽評論は、(ご招待という)「贈与」のサイクルを、演奏会関連の売文という行為を通じて、(言論・興行という)「ビジネス」のサイクルに接続する変換器です。そしてこの変換機能が円滑に働くこと(ただの「提灯記事」に堕落するのではなく、「忌憚のない評」を生成しつづけること、招待状を送りつづけても一向に「なびかない」偏屈でありつづけること)が、招待状システムで育ててくださった方々への間接的なご恩返しであると思っています。

古くさい考え方かもしれませんし、まだまだ未熟ですが、わたしはそのようにして生きて参りました。

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このような「批評」をやっている人間から見ると、大変僭越な言い方になってしまいますが、大学人コミュニティの「贈与サイクル」は、出口のない不健全なものに見えます。「お布施」を支払う一般読者と、「優雅な贈与」を続ける大学人の役割が固定されていて、お金は一方的に前者から後者へと流れ続けているように見えるからです。(大学人が私腹を肥やしているのではなく、そのような「お布施」が研究・思索の原資にもなっているでありましょうし、そこには、お金にはかえられない「御利益」があるのだろうと、想定してはいますが。)

大学人の間に「批評」はありえないのでしょうか。ないんでしょうね。

ひょっとすると、そのほうが「楽」だからなの?と部外者からは疑念が浮かぶのですが、きっと、贈与システムを外部へ開くことのできない何かの事情があるのでしょう。そうなんですよね。まさか、特権階級の「安楽」をむさぼっているわけではないですよね??

もしそうだったら、音楽評論家は、ひとりだけ肩肘張ってるバカに見えてくる……。それでも、私はそんな風にしか生きられませんから、今さらどうにもなりませんが(笑)。