「音楽を考える2009 音楽と映像」(6) 指揮者の映像あれこれ

神戸女学院の授業の最後2回分のレジュメです。

あくまで「音楽」の授業なので、最後2回は、映像化されたクラシック音楽をテーマにしました。当初から、「映像を題材とするクラシック音楽入門」にしたいという狙いがこの授業にはありましたから。

時間が限られているので、じたばたせず、定評のあるクラシック音楽入門曲や、代表的なクラシック音楽番組などを観ていただきました。

「音」そのものは映像に映りませんが、言葉による解説であったり、演奏者の目線や身振り。指揮者の背中、スター指揮者の活躍ぶりであったり、改めて見直すと、20世紀のクラシック音楽は「衆人環視」状態であったような気がします。

「音楽は言葉を越えている」というのが19世紀=ハーバーマスの言うブルジョワ的・活字的公共圏)の格言ですが、20世紀の大衆・国民メディアの公共圏は、テレビカメラがリハーサル風景を映すまで音楽の現場に食い込んで、音楽を「見せて」いたのですね。

最後のクライバーのリハーサル映像は、例の「音楽の聴き型」本で、著者が「うぶ毛、うぶ毛」と悶絶していた同じ映像ですが、私は、ほとんどの楽員よりも若い指揮者がどのように場を切り盛りしていくか、という視点で分析しました。楽員の表情の変化などをインサートするカメラ編集は、指揮者を一方的に崇拝するのではなく、指揮者と楽員の関係性を見せる演出になっていると思うからです。

(レジュメには、あまり細かいことを書いていませんが、クライバーの「こうもり」については、機会があれば、別の視点から、改めてまた書きます。)

●レジュメ1 映像のなかの指揮者

指揮者は演奏家の一員なのか、演奏家と聴衆をつなぐ仲介者なのか?

♪ブリテン「青少年のための管弦楽入門」(1947年作曲) 小澤征爾とボストン交響楽団(1992年収録)

  • アナウンサーを兼ねる指揮者。アナウンサーと指揮者は立場が似ている?

1. 18世紀:指揮者のいない合奏

♪C. P. E. バッハ(1714-1783) オーボエ協奏曲(ザ・ハノーヴァー・バンド)

  • 18世紀以前の合奏曲は指揮者なしでも演奏できた

♪アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記(1968年、監督:J. M.=ストロープ、D. ユイレ)

  • 宮廷の演奏風景を古楽奏者(レオンハルト、アーノンクール等)が再現
  • 壁際に立つ演奏家=王侯貴族を楽しませる召使い

2. 19、20世紀:大指揮者の背中

♪ファンタジア(1940年、監督:B. シャープスティーン)

  • 聴衆に見られることを意識しつつ、聴衆に媚びない近代指揮者の威厳を強調

3. テレビ番組のなかの指揮者:指揮棒とマイクロフォンの両刀遣い

♪青少年コンサート「音楽って何?」(1958年1月18日CBS放送、於カーネギーホール)

  • ニューヨーク・フィルの演奏会シリーズをテレビ中継
  • 指揮者が語りかける説得力。舞台上と客席の両方の注目を集めるスター性

●レジュメ2 テレビ放送における編集

  • 映画 :単独のカメラでワンカットずつ撮影(ショットの完成度を重視)
  • テレビ:複数のカメラで複数の角度から同時に撮影(立体的なライブ中継を実現) *カメラの切替(スイッチング)は撮影と同時または事後編集(ポストプロダクション)

音楽演奏のライブ感をどのように映像で伝えるか?

1. レクチャーコンサートの映像化

♪青少年コンサート「音楽って何?」

  • 説明抜きの演奏→早口の演説→ピアノへ移動→楽員の参加→客席の参加
  • バーンスタインのスター性 + 周到な台本 + スタッフワーク
  • 同時進行でやりくりする機転。放送特有の躁状態

2. リハーサルの映像化

♪カルロス・クライバーの「こうもり」序曲(1969,1970年、南ドイツ放送)

  • 次々指示を出して、奏者をその気にさせる導入部
  • 絶妙の比喩(楽員の笑顔を捉えるカメラ)
  • 「偽りの悲しみ/喜劇の涙」、「悪巧み」、意図的ないい加減さetc.
  • 焦点は指揮者の当意即妙のオーケストラ操作術
  • 楽員の表情等を挿入して、場の雰囲気や編集意図(強調ポイント)を示す
  • (映像に記録された、おそらく史上最高に密度の高いリハーサル風景だが、それが実際のスタジオの雰囲気そのままなのかはわからない。)