岩波新書の林屋辰三郎と山椒大夫

芸能史研究の大恩人、林屋辰三郎先生の岩波新書『京都』は、京都案内の体裁をとりつつ、日本史の歴史入門にもなっていて、昭和38年に出たものが、今も版を重ねています。

京都 (岩波新書)

京都 (岩波新書)

市電が現役だった頃の本で、当時の街並みを伝える写真は、もはや、現役の観光案内というより、昭和の京都を伝える歴史史料になりつつあるのかもしれませんが……、

「二章 古都以前」で、太秦を紹介しつつ、渡来人・帰化人の山背の地への定住がこの街の基礎を作ったことを説明するなかで、広隆寺の講堂の写真が掲載されています。

キャプションはこういう文章。

撮影所が近くこの赤堂はしばしばロケの対象になる。「山椒大夫」では国分寺。

林屋辰三郎先生と溝口健二という取り合わせは意外な感じがして、妙に気になる一文だったのです。

山椒大夫 [DVD]

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山椒大夫のお話は、森鴎外の小説で子供の頃に読みましたが、母子の別れのストーリーはなんとも辛く、あのお話を溝口健二が撮ったら、いかにも湿っぽい作品になりそう。

まして、しばしば名画秘話として引き合いに出される、佐渡の断崖絶壁に立つ田中絹代の「あんじゅ〜」が見せ場のシーンなのだとしたら、苦手なタイプの映画かもしれない、と思い、ずっと敬遠していました。

でも、林屋辰三郎先生に背中を押されるようにして見てみました。

……たしかに田中絹代が出てくると、いかにも、の泣かせるシーンになってしまうわけですが、安寿と厨子王が藁を集める俯瞰のシーンが2回出てきたり、子役と大人役がオーバーラップすることで奇跡のように過去と現在を往き来したり、やはり、ただのメロドラマではないのですね。

佐渡の遊女の皆様が「夜の女たち」(音楽:大澤壽人)や「赤線地帯」(音楽:黛敏郎)の現代の娼婦さんのような雰囲気だったり、出世した厨子王が丹後の奴婢の方々を解放する場面がアメリカ映画の奴隷解放のシーンみたいだったりして(この場面が一番印象的でした)、闇市やGHQの「民主化」をくぐりぬけた昭和29年=1954年の映画だなあ、とも思いました。

夜の女たち [DVD]

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赤線地帯 [DVD]

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さて、そしてこの映画の封切り(昭和29年3月)の約半年後、同年11月に岩波新書で出た林屋辰三郎先生の『歌舞伎以前』にも、「山椒大夫」のことが出てきます。

歌舞伎以前 (岩波新書 青版)

歌舞伎以前 (岩波新書 青版)

冒頭で紹介した『京都』が大家の余裕を感じさせる文体なのに比べて、『歌舞伎以前』のほうは40歳の少壮気鋭の研究者という雰囲気。

序章に、民衆史としての芸能史は「地方・部落・女性」に着目すべきだ、という有名な宣言があります。

わたくしは、民衆の歴史的生活を明らかにするためには、三つのよりどころがあると思う。そのよりどころに支柱をふかく、そしてつよくうちたてなければ、民衆の歴史も生活も決して明らかにすることができない。その一つは、地方史研究である。天皇や貴族のよりどころは、つねに中央であり都會であるが、民衆は地方の村々に、ひろく横にちらばって存在している。したがって民衆の歴史は、地方の歴史を徹底的に究明することを前提としているのである。[…中略…]

その二は部落史の研究である。われわれは民衆の歴史を明らかにする以上、歴史的に社會の最底邊の民衆生活にまで、縦にふかくほりさげ、そこから問題をほりおこさなければならない。日本では古代國家が律令制を採用するにあたって、民衆を良・賤に区分して専制支配に役立てようとしたが、この民衆のなかの民衆というべき賤民およびその系譜をひく社會生活にふれなくては、これまたほんとうの民衆の歴史ということはできない。[…中略…]

最後には、女性の研究である。すくなくとも民衆の歴史というかぎりは、その半数を占める女性の立場を考慮しなくては、ほんとうの民衆生活を理解できるものではない。これまでの歴史はまったく男性の歴史であり、僅かに男まさりというすこしばかりの女性がとりあげられたにすぎぬ。女性はつねに裏がわにあって、表がわの生活を支えてきたものであるが、この方面の研究も亦、戦後において一、二のすぐれた概説が現われたくらいで、なおはなはだ不充分な状態にある。

わたくしは、新しい日本の歴史がここにのべたような地方・部落・女性という、もし國家、社會をピラミッド型にたとえるならば、横のひろがり、縦のふかさ、さらに裏がわにまわって明らかにされねばならぬと思う。

新書が当該分野の「正論」を堂々と押し出す啓蒙書だった時代があったのだなあ(出版社と人文学者の利害が一致して、新書がお手軽に量産される今とは違って……)、ということを思い出させてくれる真っ直ぐな文章です。

この本のテーマは、歌舞伎誕生に至る古代・中世・近世初期の芸能の概説で、そのクライマックスは出雲の阿国(「地方出身」かもしれない「女性」の「河原者」)の登場なのですから、「地方・部落・女性」の三点を押し出すことは、書物の構成から考えても、理にかなった導入部ということになりそうです。お見事、です。

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とくに散所の説明は、これを最初に読んだときは、むろんぼくに知識がなかったせいもあるが、ぶるぶる震えがきたものだ。法師原や説経節の発生がしっかり見えたのもこのときだった。

ことほどさように、この新書一冊はぼくに驚くべき充実を与えてくれた。中世日本にどのように「座」や「頭」が、「一味」や「寄合」が発生したのか、そのことがどれほど日本の芸能の根底にとって重要なのか、この一冊でとんでもないことがわかってしまったのである。

かつて松岡正剛さんをも震撼させたという林屋辰三郎『歌舞伎以前』で、山椒大夫が出てくるのは、「一章 古代のたそがれ」で、私有荘園による律令制の解体のなかで、地方の荘官に隷属させられていた方々の住む「散所」の様子を解説する箇所です。

領主権力を背景にした散所長者の壓力に對して、やはり抵抗するものがあったのであろう。こうした古い散所長者の形態が、由良長者ともいわれる「山椒大夫」の傳説の主人公の姿でもあったのである。そして散所民たちは、自己の解放を長者の没落という形であらわすほかはなかった。そして彼らの解放へのつよいねがいが、大夫を竹の鋸引にするという残忍に近いような説経節となって、ひろく民間にもひろまったものと考えられる。

ということで、山椒大夫の説経節は、林屋先生の芸能史にきれいに収まっています。

アメリカ映画の奴隷解放に似た場面が映画「山椒大夫」に出てくるのも、説経節を背景にして考えると、逆にモダニスト溝口健二が際立つ演出として、もう一度見直したくなりました。

そして映画「山椒大夫」で、広隆寺の講堂(赤堂)を使ってロケ撮影された夜の国分寺は、厨子王を散所長者の一党から守ってくれる一種のアジール、「駆け込み寺」。仏教とは、中世においてそういう場所だった、ということでしょうか。

林屋辰三郎先生の記述はさらっとしていますが、そこを入口にして探っていくと、歴史の構図がくっきり見えてくるようになっているのですね。お手本のような学者の啓蒙書。

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ちなみに、昭和29(1954)年といえば、武智鉄二が朝比奈隆に招かれた関西歌劇団で「お蝶夫人」や「修禅寺物語」を演出した年で、年末には、第一作として「赤い陣羽織」が発表されることになる創作歌劇構想を発表した時期にあたります。

林屋辰三郎先生は1914年生まれで、武智鉄二は1912年生まれ。

武智鉄二の戦後の戦闘的な評論と斬新な演出は、関西の若い世代の古典芸能関係者に熱狂的に支持されたらしいのですが、ほぼ同時期にスタートした林屋辰三郎先生の芸能史への取り組みを補助線にすると、時代の気分がわかるような気がします。

西洋と日本の融合、オペラと歌舞伎の融合、というのは、いわば、誰でも思いつくお題目であるわけですが、「日本の芸能/歌舞伎(や能・狂言)」に何を読み取り、そこから何を学ぼうとするか、というところ問題なわけで、この時代の関西の芸能史論者が熱狂のなかで構想していたものは、例えば、名前を出して恐縮ですが、東大仏文出身で、日本の伝統と言った場合に、両国のお相撲を幼年期の甘美な記憶とともに思い浮かべる、どこかしらメルヘンチックな「ソロモンの歌」の吉田秀和さんなんかとは、依拠する文脈が相当に違っていたと言わざるをえないようです……。

ソロモンの歌・一本の木 (講談社文芸文庫)

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井上章一さんが挑発的なタイトルの本を出していらっしゃいますが、私も、サムライ・ニッポンの関東史観より、お公家さんやお坊さんや町衆のいる京都史観のほうがしっくりきます。

日本に古代はあったのか (角川選書)

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私は京都人ではありませんし、京都文化人への憧れのようなものはありませんが……。

(京都コンプレックスは、たぶん、大阪人のある時期までの拭いがたい心性として、存在したのだろうと思います。谷町上汐町の長屋が生んだ秀才・織田作之助が三高関係者に媚びるようにして接触していたこととか……。私の恩師、大阪の商家の家系の谷村晃先生も、京大卒業後、関学・阪大・大阪芸大で教えていらっしゃいましたが、最後の大きなお仕事、ゲオルギアーデス「音楽と抒情詩」翻訳の出版記念パーティーのときには、京大時代の同窓の方々を主賓格で何人もお招きする形になっていて、ああ、やっぱり京大に自分の仕事を承認して欲しかったのだなあ、我々は蚊帳の外なのだなあ、と旧帝大ヒエラルキーを見せつけられた気がしました。学会というところでは、今は昔なのか、今もなお、なのか、よく知りませんけれど。)

でも、なんちゃって京都人になりすまして、「運動としての戦後前衛音楽」は、関東の日の丸なおサムライさんが勝手にやったこと、くらいに言えると、爽快ではあるだろうなと思ったりはするのです……。