アホらしい

他人の意見は気にしない。もちろん「聞く耳」を持つにこしたことはない。だがいちいち「本当はどうだったのですか?」などと他人の顔色をうかがう必要はない。「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた」 -- これこそがすべての出発点だ。(岡田暁生「音楽の聴き方」、208頁)

こういう書き方を「頼もしい」とか、「よくぞ言ってくれた」と思ったりする人が今もどこかにいるらしい、という理解でよろしいでしょうか。

http://book.asahi.com/review/TKY200909080090.html

http://www.asahi.com/culture/update/0909/TKY200909090419.html

「ノヴァーリスの引用」の著者や、大岡昇平の弟分であった方にとって、ああいった三島由紀夫、村上春樹の取り扱いでオッケーであった、というのも勉強になります。

でも、「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた。これこそがすべての出発点」。世の中、色々なことが起きますね。

他人のことはどうでもいい、と断言することによって批評を拒み、啓蒙と決別する。これはシニシズムではない。教祖と偉人は紙一重。違いのわかる者は、黙ってオレについてこい。痛快無比! 空前絶後! 前人未踏! 善悪の彼岸! ゾロアスターはこう言った! この人を見よ! 極めて高い「批評性」を有する「啓蒙」の書がここにある。

(本書の口調は、上の引用にも見られるように、対話的理性を信じる「啓蒙」というよりも、受講者の自我を危機に陥れ崩壊させた更地に自社開発の「信念」をインストールする「啓発セミナー」のインストラクションに似ていると私には思えますし、上記引用がそのひとつである「聴き方上達へのマニュアル」の明らかに過剰に数が多い28箇条は、「合格率100%」ねじり鉢巻きで脇目もふらずに行われる受験勉強マニュアル(ドラゴン桜?)みたいだな、と私は思ってしまいます。この「28過剰」が、パロディとしてではなくマジメに書き連ねられ、受け止められてしまう心理状態というのは、明らかに普通じゃないでしょう。みんな、どうかしてしまったんじゃないか。)