音楽ジャーナリズム考(2) 『音楽芸術』1960-1963:日本の前衛音楽が光輝いていた時代

(1) 武満徹と松下眞一が入選した軽井沢の第2回現代音楽祭で、その「コンクール」は音楽之友社とのタイアップ(入選作を音友から出版)だったらしい、ということ、

(2) 二〇世紀音楽研究所の「所長」の肩書きになっていた吉田秀和さんが、音楽之友社社史によると、昭和30年代に「音楽芸術」誌の編集顧問の肩書きを与えられていたらしいこと(渡欧した山根銀二の後を受けて1954年頃から、ただし、いつまで顧問の肩書きがあったかは不明)

……というような断片的な情報からの推測にすぎませんが、60年代日本の主に1930年前後生まれの当時の若手を前面に押し出した「前衛音楽」には、音楽之友社の『音楽芸術』の仕掛け、という側面があったのではないかという気がしています。

(だから悪い、と言うわけではなく、「前衛音楽」に、同人会的な運動に回収できない部分があったことは、むしろ、「前衛音楽」を社会的文脈に据える手掛かりでもあると思います。)

以下、「音楽芸術」の60年代の記事をざっと斜め読みしながら書いたメモです。もともとmixiに書いたものなので、知り合い対象の乱暴で軽薄で、決めつけの目立つ文体になっているのをご了承ください。

ただ、60年代の「音楽芸術」という雑誌が読んだ人間をワクワクさせるものだったことを体感しておくために、こういうミーハーな読み方を一度しておいてよかったのではないか、と思っています。

個人的な今年の夏休みの記録であり、大栗裕や朝比奈隆のような関西の「旧世代」は、東京のこういう華やかなムーヴメントを眺めつつ関西でやっていたのだな、という時代背景調査の一環です。(時間があれば、気になるところは少しずつ書き直すかもしれません。)

●メモ1:「音楽芸術」栄光の横組み時代1960-1963年、そのとき関西楽壇は……

今は亡き「音楽芸術」が 1960-1963年のみ横組みになっております。今その頃の記事を読み直して整理していて、やっぱりこれは本当にかっこいい。書かれている文章も、なんだか冴えているような気がしてしまいます。武満徹、松村禎三、松下真一なんかがいかにも時代の先端を行く俊英・エリート、パイオニア、という雰囲気だし、話題の選び方も機敏。一番いい時代だったのでしょうね。

(一方、芥川也寸志は、同誌が横組みに変わったことに対して、「日本語を横組みするなんて……」と不満をチラリと誌上に書いたりしています。芥川龍之介の息子さんで1950年代に「三人の会」で一足先に注目された人と、60年代前衛運動の人達には、若干の温度差があったということでしょうか。ちなみに、横組みで判型が大きくなる以前の縦組みの「音楽芸術」は、文芸雑誌の「新潮」や「文学界」などと同じサイズで題字の感じもよく似ています。縦組みの1950年代の「音楽芸術」は、芥川龍之介の小説が載っていてもおかしくないような体裁だったのに、1960年代前半に、横組みで数学かなにか理系の雑誌のような体裁に変わってしまったわけです。)

この時期には、「日本の伝統と現代」という特集もあり、これは、1950年代から同誌で何度か行われた定番特集のひとつだった日本の明治以来の作曲史の回顧・復習。60年代横組み時代のヴァージョンでは、こうした回顧特集に「日本の作曲1世紀」の副題が付いています。この言い方も、ちょっとしたことですが、なんだかかっこいい。「明治百年」とかではないわけです。

そしてその「日本の作曲1世紀」特集のなかで、やや古株の富樫康が戦後10年くらいのことを回顧・総括しているのですが、そういう、古株の繰り言さえもがシャープな語り口になっておりました。富樫さんは、伊福部昭が日本の伝統を顧みない人々のことを「ブルジョワ的衰弱」と喝破していた、と指摘したり、早坂文雄を「今はもういなくなってしまった文人的作曲家」と形容したりしています。富樫康が片山杜秀さんのお手本なのかな、と思ったりもしました。

ペンデレツキがワルシャワ国立管弦楽団と来日すると、演奏会評のコーナーに、通常の演奏評とは別項目で、「広島に捧げる哀歌」の松下真一による作品分析が掲載されたりして、このあたりの編集判断もアクチュアルだな、と思います。良い雑誌。

この時代を体験した人たちであれば、前衛音楽運動の信者になるのも無理はない、と思いました。

そういえば、「音楽芸術」が終わってしまったときに出た「日本の作曲20世紀」(1999年)も横組みでしたね。一番良い時代のスタイルで有終の美を飾ったのですね。この雑誌は。

あと、「日本の作曲1960-1967」という臨時増刊号が1967年代終わりに出ていて、これも、栄光の時代を振り返る感じに、「地平線のドーリア」や「竹籟五章」の楽譜をまとめて掲載して、当時のスター作曲家そろい踏みの増刊号。もちろん横組み。

[追記:臨時増刊号「日本の作曲」については、その後、もう少し調べています。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100719]

日本の前衛音楽運動は、ここ(「音楽芸術」の1960-1963)が本丸なのだな、という手応えを感じます。ちゃんと栄光の時代があったのだ、ということでもあるし、それはわずか4年間だったのだ、ということでもあるかもしれず……。

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[……中略……]

そして、とっても悲しいことに、

遅ればせながら「ゲンダイオンガク」に朝比奈隆・大フィルが参入した「大阪の秋」国際現代音楽祭の第1回は、ぎりぎり1963年にはじまってはいるのですが、「音楽芸術」への批評掲載は翌年1月で、縦組みされてしまっています。

偶然とも言えますが、なんだかこれも象徴的。

●メモ2:東京オリンピックの前と後、東京の作曲家は1964年で「醒めた」という仮説

先に書いた1960-63年が日本の前衛音楽運動の最盛期だった仮説のつづき。

1964年10月10,15,19,23日のN響特別演奏会(東京文化会館)というのが見つかりました。

オリンピック東京大会協賛芸術展示で、

  • 初日(岩城宏之指揮):黛敏郎「音楽の誕生」
  • 2日目(若杉弘指揮):入野義朗「交響曲第2番」
  • 3日目(岩城宏之指揮):武満徹「テクスチュアズ」
  • 4日目(外山雄三指揮):三善晃「管弦楽のための協奏曲」

がそれぞれ委嘱初演されているようです。万博への前衛作曲家の動員は有名ですが、すでに東京オリンピックのときにも、その萌芽があったのですね。しかも、武満徹、三善晃の重要作品が出品されている。(リストアップしてみると、このときの指揮者のうち、存命なのは外山さんだけであることに感傷的になってしまいますが、それは別の話。)

ここに、東京の「前衛音楽運動」が、ほぼ少し前のサブカルやオタクに近い同人的な活動としてはじまった、という因子を導入してみます。例えば、軽井沢の現代音楽祭ですら、伝え聞いたところでは公式記録といったものが存在しないらしく(違っていたらごめんなさい)、行った人たちの記憶のなかにしかない、なにやら黎明期のオタク・イベントに近い「伝説」だったような感じがあります。そういうところから出発した「運動」が、プロパガンダ雑誌を得て、追い風のムーヴメントになったのが1960-1963年。

そこに、まるで政府がジャパニメーションを産業にする、と言い出したかのようなオリンピック協賛話が舞い込んでくる。

まだ推測の域を出ませんが、こういうとき、初期からやってきた人たちは、「醒める」ものなんじゃないでしょうか? なんか風向きが違ってきたぞ、と。

武満徹のノヴェンバー・ステップスはこのあと1967年の作品です。音楽業界のプロパガンダ/国策的には、この「人類の進歩」に似た「音楽の進歩」路線が1960年代後半も続くわけですが、作曲家たちが「和」やその他へ向かったのは、そういう進歩競走から逃げたのではないか。ちょうど東京オリンピックのあたりを境にして。そんなことを思いました。

(「音楽芸術」という雑誌は、この時点でもはや縦組みに戻っていて、このオリンピック協賛演奏会の記事も小さいのですが、この冷淡さが積極的・意志的にお祭りに浮かれることを拒んでいるのか、それとも、判型が縦組みに戻ったことに象徴されるようなフットワークの限界に達してしまって、音楽家が押し流されていく「動き」を捕捉し切れなくなっているからなのか、はっきりしませんが。)

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さて、そして関西です。

東京では、「音楽芸術」のようなプロパガンダ・メディアがあるので、同人やサブカル的な人の動きが、そのまま大写しのメディア・イベントになってしまう構造があった。1960年代の大衆文化状況で、この「拡大率」が急速に高まった。大阪側が、「音楽芸術は偏向している」と感じたのは、そのあたりの、縮尺の歪みに起因するのではないかと思われます。若手がごそごそやってるだけのこと、勉強会的なものを、そんな誇大広告してどうする、という感じなのでしょう。

一方、関西では、イベントは最初からイベントとして段取りして、お金を集めて、各方面にネゴしないとできませんし、だからこそ、一度始めると、どうしたって大げさになってしまって、東京流の「軽いノリ」(「軽さ」の表象は、当人たちは同人の延長のつもりであるものをメディアで拡大することによって生じるとひとまず仮定できるでしょう、歌が上手ではないアイドルの「自然体」の歌唱が、録音・編集技術によって作り出されるのと原理的には同じ構造)とは何か温度が違ってしまう。スタジオ・レコードの中にしか存在しない「ポップなサウンド」をライブで模倣・再現・追随しようとするのに似た悲喜劇ですね。

大阪で行われた1961年の第4回現代音楽祭での20世紀音楽研究所メンバーと大阪の評論家の温度差や、音楽祭のスタイルの変化。そして「大阪の秋」国際現代音楽祭の居心地の悪さは、そういう風に説明できるのではないか、と思いました。

●メモ3: ノヴェンバー・ステップス、ジャパン・プレミエ in オーケストラル・スペース'68

武満徹「ノヴェンバー・ステップス」といえば、話題になるのは1967年11月17日小澤征爾指揮ニューヨーク・フィルによる初演のことです。レナード・バーンスタインが涙を流して感激していた(小澤征爾・談)等々……。

では、この曲の「日本初演」はいつなのか?どんな風に行われたのか?

「音楽芸術」で偶然みつけた記事が、その批評でした。

「オーケストラル・スペース'68」と銘打ちまして、

1968年6月4日(東京文化会館)、5日(日経ホール)、7日(日比谷公会堂)

三日間公演で12人の作曲家の17作品を一挙上演するというもの。ケージなども含み、武満徹・一柳慧のプロデュース。同人会の延長では理解できない「イベント」ですね。「オーケストラル・スペース」というイベントは2回目だったらしいのですが、「音楽芸術」に、圧倒的な観客動員に成功と書かれています。

そして武満徹全集の解説をみると、まさにそういうことだったようです。

[ノヴェンバー・ステップスの]日本初演は、武満と一柳慧が企画した音楽祭「オーケストラル・スペース'68」で行われた。6月4日のプログラムは、クセナキス(ポーラ・タ・ディーナ)、武満(ノヴェンバー・ステップス)、一柳(Up to Date Applause)、ペンデレツキ(フルーレセンセス)。集まった音楽ファンは幅広く、ロック・バンド「ザ・モップス」(一柳作品に参加)のファンから邦楽関係者までおよんだ。会場は現代音楽の演奏会としては珍しく超満員だった。

武満徹全集 第1巻 管弦楽曲

武満徹全集 第1巻 管弦楽曲

「朝日ジャーナル」にもコンサート評が出た模様です。上の解説が「音楽ファン」という言葉を使っていますが、いかにも高校時代の四方田犬彦(「ハイスクール1968」)や、バリケードの中でサティを弾いていたという伝説のある当時の坂本龍一が興味を持ちそうなイベントですね。

ハイスクール1968 (新潮文庫)

ハイスクール1968 (新潮文庫)

音楽は自由にする

音楽は自由にする

言い忘れましたが、日本初演の指揮者はもちろんニューヨークと同じく、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった小沢征爾、ソリストも同じ鶴田&山本。オーケストラは、当時委嘱作品シリーズで現代日本の作曲家にコミットしていた日本フィル。見事にお膳立てが揃っています。

武満徹が渡米したときには、彼を教祖のように崇めるヒッピーみたいな連中が取り巻いたそうですし、「ノヴェンバー・ステップス」は、前衛音楽史のなかの出来事というよりも、1960年代末のユース・カルチャーのアイコンだったっぽいですね。80年代に、ワールド・ツアーという仕掛けられた「逆輸入」で売り出したYMOみたいなものでしょうか。(というより、YMO的なものが、こうした60年代アヴァンギャルドを踏まえつつのシュミラークルであった、などというような言い方をしたほうが、それっぽいのかもしれませんが。)

……60年代の「ゲンダイオンガク」、ちょっと調べただけでも面白いトピック満載ではないですか。「前衛音楽運動」の語り口でこういう面白さを抑圧するのは勿体ない。

ただし、このオーケストラル・スペース'68の記事も「音楽芸術」での扱いは淡々としています。そもそも「ザ・モップス」がこの日比谷公会堂演奏会に出演したことすらはっきりとは書いていない。もはや音楽雑誌の「感度」が、武満徹や一柳慧のやろうとしていることについて行けていないと判断するしかなさそうです。

これは他方で、この頃、武満徹や一柳慧のやろうとしていたことが、もはや「前衛」の括り(「音楽芸術」という雑誌がその受け皿として場を提供していたような)に収まらなくなっていたということでもあるのでしょうか。

作曲家たちのやろうとすることが、とりあえず「前衛」とイメージ化しうるものであった時代があって、「音楽芸術」はそのことを察知しつつ誘導するようにして自らを横組みに変貌させて4年間突っ走ったのだけれど、作曲家たちは、そこを突き抜けてどこかへ走り去ってしまい、雑誌のほうは、のびたゴムが反動で縮むようにして縦組みに戻ってしまった。……というようなことでしょうか。

そして1970、80年代、音楽大学にすっかり定着したコンセルヴァトワール流のエクリチュールのトレーニングとアナリーゼで「前衛音楽」の技法は解析可能・学習可能な「流派のひとつ」になって、

「音楽芸術」と「音楽の友」との違いは記事が比較的長文で写真・グラビアが少ないこと、脚注が付いたりして論文風の体裁を整えた音大楽理や文学部の美学出身者の作文が載ることくらい?ということになっていく……。

武満徹全集に対して、「CDを全集などと呼ぶのはおかしい」と音楽学者の観点なるものを標榜して発言していた長木誠司さんは(注:武満徹全集編集人が「へるめす」同窓会っぽいのは確かに気になりますが、本格派文豪に憧れていたはずの三島由紀夫ですら全集にCDの巻を含まざるをえないのが昭和後期の現実であって、武満徹の全集を編むとしたら「紙=楽譜集」だけでは無理、そんなことはトップダウンで「全集とはこういうもの」の決めつけをせずに実際に手を染めてみればすぐにわかるはずなのに……)、「音楽芸術」末期によくこの雑誌に執筆していらっしゃって、前衛+音楽学という正しく「音楽芸術」的な風土にいらっしゃった方なのかな、と思います。(文学でいえば、文壇のなかで育った最後の私小説作家、みたいな位置でしょうか?)

2000年代初頭に長木さんが「音楽批評の死」を嘆いていらっしゃった時も、「音楽芸術」以後という意識をお持ちだったのかなあ、と想像します。

でも、こうして見ると、「音楽芸術」という雑誌は随分前から「らしさ」を喪失していて、あまり惜しまれつつ終刊ということではなかったような……。

「前衛音楽」の言説は、1960年代末には、既にジャーナリスティックな感度を鈍化させていたような気がします。

1970年代以後に、これに代わって「コンテンポラリー」な雰囲気を身に纏っていたのは、武満徹の「今日の音楽(Music Today)」などなのでしょうか。関西在住の私には、これはもう、伝聞でしか様子がわからない現象ですが。