事業仕分けと音楽のシビリアン・コントロール

前のエントリーで「美的自律」とか舞台の「真剣」のような語彙を持ち出したのと矛盾するようでもあり、そうではないようでもある話ですが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091229/p1

私は、芸術家が選ばれた特別な人間として崇め奉られる世の中よりも、愚民(と敢えて言う、私もそのひとりですし)が無粋なツッコミを入れられる世の中のほうがマシだと思っています。

事業仕分けに、「文化芸術」の立場から批判の声が上がっている、とされている件です。

以下、このエントリーは、敢えて露悪的かもしれない言葉で書きます。

お互い様、どっちもどっちであるような案件で、どうしてそんなに清々しく立派な言葉が飛び交うのだろう、という疑問があるからです。およそ政治というのは、膠着状態・泥仕合で双方どうしようもなくなっているような状況で召還される折衝ではないのか? そんなにカッコイイものか?

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たとえば、「みなさまのNHK」様は、今年から3年続けて、年末に、日本男子が軍服をビシっ決めて、坂の上の雲を見上げつつ闊歩するドラマを放映することになっているようですが、

わたしは、音楽(唱歌)が民衆の国民化の手段であったとされる明治時代だけでなく、一般に、行政・統治者側からみた場合の文化芸術というのは、そのヤバさにおいて、軍事案件に似たところがあるのではないかと思っています。

国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代

国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代

事業仕分けにおける文化芸術の扱いが議論になっていますけれど、「豊かな生活には文化・芸術の香りが必要である」という平和な話をいつまでも続けて大丈夫なのか。

せっかくの機会だから、文化芸術という物騒な営みの「シビリアン・コントロール」をこれからどうするか、そんな方向へ話を進めたほうがいいんじゃないか、と思ってしまいます。

しょせんは床屋政談ですけれど……。

(1) 音楽家は危険人物である

岡田暁生さんの得意領域に足を踏み入れてしまうようで忸怩たる思いはありますが(笑)、

それでも、やはり、ひと頃の文化人類学の「中心と周縁」理論(あるいは網野善彦中世史観の悪党・被差別民と王権、最底辺と最上位のループというモデル)を思わせる「禍々しさ」が、クラシック音楽にも、「奥義」のようなものとして厳然としてあるように思います。

グレゴリオ聖歌は一種の呪術だし、ミサは救世主の奇跡を共同体で反復しようとする儀式だし、宮廷正歌劇は汎神論的神話世界を呼び戻そうとするかのようですし(国王はオリュンポスから降臨した神である云々)、ずっと時代が下って、19世紀末には、「サロメ」(SMストリップショウ)や「ペレアスとメリザンド」(フェチとロリコン)が、“芸術のための芸術”の精華とされているのですから……。

そしてこれらのエログロは突如現れたわけではなく、「椿姫」は社交界のあだ花デドゥミ・モンド、「カルメン」はセビリアの煙草工場の女工。リアリズムを隠れ蓑に彼らは妖しげなヒロインを舞台に乗せて顰蹙を買ったわけですし、「ボエーム」のヒロインのルチアが“ミミ”と呼ばれているのは、いわゆる源氏名、彼女が単なるお針子ではなく水商売に手を染めていることの暗示ではないか、との解釈があるようです(彼女は、「椿姫」のヴィオレッタと同じように、別れたあと貴族に囲われることになっていますし)。

近代ヨーロッパのナショナリズム/帝国主義では、芸術宗教(芸術の神聖化)と露悪的リアリズムがループ上にリンクしていたようなのです。

オペラにややこしい深読み演出は要らない、「美しい歌」があればいい、とする学級委員的な意見が東洋の島国に広まっていることを、墓の下のオペラ作家たちはどう思うでしょう。プッチーニは、家業の教会音楽家を継ぐのが嫌で嫌で仕方がなくて、ルッカの親族や行政をダマしてオペラの世界へ身を投じた不良少年なのに……。舞台人たちにまんまとダマされて、美しい幻で身ぐるみ剥がれて死んでいく、というのは、ある意味、究極の散財、デカダンスではあるかもしれませんが……。いずれにせよ、芝居小屋は、優等生がうかつに足を踏み入れていい場所ではないのだろうと思います。

上品なものごしのフレデリック・フランソワ・ショパン様もそうです。彼の音楽は社交界の花、人畜無害に美しいものとして、エレガントなドレス姿で演奏されたりしておりますが、

ロシア軍がポーランドに侵攻したと知って、ショパンは「神よ、あなたは残虐なロシア人なのですか!」とクリスチャンが卒倒しそうなことを言いますし、パリでは、ビザのない長期不法滞在者でした。

公安的な観点で言えば、ドラッグをキメて「幻想交響曲」を書くベルリオーズと同じようなもの。ひとつ間違えば、無政府主義者バクーニン(ワーグナーとはドレスデンで会ったらしい)と一緒に国外追放されたかもしれない人物と見た方がいいでしょう。当時のパリの芸術家には、カトリック教会を隠れ蓑にした、いわゆる「空想的社会主義」のサン・シモン主義が蔓延し、ショパンの盟友フランツ・リストがそのシンパであったこともわかっています。冒険的ロマン主義なんて、ロクなもんじゃないです(笑)。

(2) 音楽家が徒党を組むと、暴走するからもっと危険

各地のオーケストラを見ればわかりますが、一度作ってしまうと、金食い虫であろうが、何であろうが、なかなか潰すことができません。(下の本は、NHKが専属放送楽団・合唱団を潰した経緯を暴露しています。)

王国の芸人たち (1972年)

王国の芸人たち (1972年)

オペラ劇場などを組織してしまったら、日々カラダを張っているがゆえに行動力が音楽家とは桁違いである演劇関係者までもが入り込むので、おそらく、手の付けられないことになってしまうでしょう。

たとえば山田耕筰や團伊玖磨は、歌劇を作る際、戦時中に特攻警察からつけねらわれたことで知られる築地小劇場関係者としばしば手を組みました。

山本安英―おりおりのこと (人間の記録 (94))

山本安英―おりおりのこと (人間の記録 (94))

あるいは、行政の担当者であれば、各地の任意団体、「○○協会」や「○○協議会」との交渉がひとたびこじれると、どれほどややこしいことになるか、一度や二度は苦い経験をしていることでしょう。

こういう連中を「野に放つ」とどうなるか。

60年代末期には、新宿フォーク・ゲリラとか、行政的に色々大変だったわけでしょう。連中は、放置すると、ネット上のヴァーチャル炎上では済まない、リアルな「暴走」の可能性を常に潜在的に秘めていると警戒したほうがいいと思います。

そしてこの種の、芸術家集団・芸能者集団が取り扱い要注意なのは、昭和の日本にたまたま蔓延していた「左翼・アカ」のせいだけではないと思われます。

アメリカン・ポップスに目覚めた人達がどんどん行動してしまうこと、いつでもどこでもアンプとスピーカーをつないで大音響をぶっ放すメンタリティーは、どこかで、西部の開拓村での「自警」の思想(銃を所持して自分の身は自分で守る)とつながっているのではないでしょうか。

あるいは、ブルジョワの男声合唱や各種音楽協会は、集会の自由が厳しく制限されていた19世紀に、男たちが政談を交わすための隠れ蓑であった一面があるようです。戦国時代に、千利休の茶室で密談が交わされたようなものです。メンデルスゾーン(銀行家の息子)やシューマン(扇動的ジャーナリスト)やブラームス(若い頃は相当な立身出世志向だった)が合唱にコミットしたのは、決して人畜無害な音楽愛ではなく、人脈形成に役立ったと思われます。

同様に、さらに遡って貴族社会で女性たちが催したサロンは、おそらく、不満分子たちのためのガス抜きであり、シモジモの本音をリサーチする場でもあったはずです。

文化や芸術の旗を掲げる団体は、往々にして要注意です。

(3) 有事には、連中に全権を掌握されると覚悟せよ

しかも、音楽をはじめとする芸術・文化・芸能に関わる連中は、日頃から舞台でお客さんと対面しているので、ある種の人心掌握の秘術を会得していたりします。だから、隙があれば、どこにでも入り込んでくる。いつの間にか行政官と懇意になって、執務室にいつでも顔パスで出入りできてしまったりする。(たとえば朝比奈隆の伝記は、その種のエピソードの宝庫。)

楽は堂に満ちて―朝比奈隆回想録

楽は堂に満ちて―朝比奈隆回想録

そして困ったことに、連中は、いざという時に「使える」。

巨大イベントを仕掛けようとすると、こういう連中にツテがないと、にっちもさっちも行かず、たとえば長野でオリンピックをやる、となると、小沢征爾と渡り合える浅利慶太が必要になる。

そして連中は、ひとたび現場に乗り込むと、まるで災害現場のレンジャー部隊や、敵機襲来時の防衛本部のように、日常の組織を横断・蹂躙して、現場判断最優先を掲げ、指揮権を奪取して、司令本部を占拠します。

……音楽家をはじめとする芸能者というのは、元来がそういう人種だということです。

(スピーチライターの書く演説が重視される「チェンジ」の時代で、なおさら、パフォーマンス力が政治的重要性を帯びている、きっとそういう「売り込み」が今は水面下でさかんだったりするんじゃないのでしょうか。よく知りませんが。)

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連紡さんは、お子様のコンピュータ・ゲームの取り扱いでプチ騒動を起こしてしまったようで、「どうして一番でなきゃダメなの?」発言は、事態が一段落して振り返ると、これも、お小遣いをせびる悪ガキに対して、財布のヒモをぎゅっと絞るお母さん的発想だったのかもしれない、とも思えます。ブーイングが巻き起こったのは、「ババァ、うるせえんだよ」と悪ガキがプー垂れている風景なのでしょう(笑)。

(ナントカ型コンピューターは世界でも希少で等々、そんな難しいことを言われたって、「一家の大蔵大臣」の目には、新しいオモチャをおねだりしているようにしか見えないわけで……。)

そういう風に考えると、あれは、彼女が出る幕じゃなかったどころではなく、むしろ、そういう人こそが出てくるべき格好の舞台であった、と言うべきなのではないか、とも思えてきます。

(「一番じゃなきゃダメ?」発言は科学技術振興に関してなされたわけですが、芸術文化に関する上記(1)から(3)と似たような事情は、ニトログリセリンで儲けたお金が平和賞財団資金に化けてしまったり、物質の組成の探求から原子爆弾が派生してしまったりする自然科学や工学の禍々しさ、科学者が集団を形成して暴走した場合のヤバさ、にもほぼ同じように通用するはずですから。)

「世界一を目指す」というような役人用語の建て前が通らないとなった時に、意を決して反論する覚悟みたいなものが必要なはずだし、「一番でなきゃだめなの?」的な発言は、現場の「本音」を開陳するための絶好の呼び水になりえたのではなかったか、と思います。たぶん、科学や文化の担当の人は、「禍々しさ」の自覚をもっていない、あの場に出てはいけない人だったのでしょう。ただしそれは、科学・文化担当官僚が、科学や音楽への愛を欠いているのがダメなのではなく、科学や音楽という暴れん坊の首根っこをきっちり押さえる術策を持っていそうにないことが残念でならないと言うべきでしょう。

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平時には妖しげな金食い虫である連中に、有事の際は全権を掌握されてしまわざるを得ない、という在り方において、文化芸術や科学技術は、行政の観点からすると、軍事のサブセットのようなものなのではないかと私には思えます。

「官から民へ」などと言って、連中を野に放ってしまったら何をしでかすかわからない。(自警団や民兵が跋扈する国にしたいのか。皆さんは企業ビル連続テロや、連合赤軍浅間山荘の悪夢をお忘れか(笑)。)

個人の意見としては、そういう物騒な世の中を見てみたい誘惑が芽生えつつあるのも否定できませんが……、

でも行政の立場だと、やはり、文化芸術や科学技術にも、軍事のコントロールに似た、禍々しさの制御システム、軍事のシビリアン・コントロールに似たしくみが要ると考えるほうが穏当でしょう。

(あくまで、当事者でもなんでもない無責任な床屋政談ですけれど。)

古来、統治者が文化芸術や学問にお金を出したのは、彼らのエゴを満足させる単なる奢侈や贅沢ではないと思います。日頃から禍々しい連中を懐柔しておいて、必要とあれば手綱を締めることができる状態にしておくほうが有利である、という知恵が働いていたような気がするのです。

伊東信宏さんは、「シャガールのヴァイオリン」などと言って、まるで小沼純一さんの隣りに座るのが似合うオシャレ系ワールド・ミュージックの人みたいですが、たとえばハイドン論では、宮廷における軍事と音楽の平行性を指摘していました。

そして岡田暁生さんは、才能のない烏合の衆の愚行であるかのようにコンセルヴァトワールのピアノ・メソードを罵倒するわけですが、パリ音楽院は、国王の首をギロチンでちょん切った革命政府の軍楽隊養成学校として出発しました。市民社会においても、やはり、軍事と音楽はワンセットだったのです。

ハイドンのエステルハージソナタを読む

ハイドンのエステルハージソナタを読む

「事業仕分け」騒動は、どの事業に誰がどれくらい金を出すか出さないか、という短期的な施策とは違ったレヴェルの案件の蓋を開けてしまったような気がするのですが、そういう認識は、あまり広まっていないのでしょうか。

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もうちょっと書きます。

結局これは、音楽が芸能として不可避的に内包している「禍々しさ」の処理を音楽の当事者だけに、いわば「民事不介入」として任せてしまって大丈夫なのか、ということだと思います。

音楽家が自主的に立ち上げた団体は、純音楽的であればあるほど、澱が溜まるように内側がジメジメしてしまう。そんな例が、みなさまの周囲にもあるんじゃないでしょうか。

(中丸美繪さんは、どうやらその種の澱の溜まったジメジメがお好きな方のようで、これは演劇ですが、杉村春子の文学座を取材していらっしゃいましたね……。同年生まれの岡田暁生さんも、具体的には書きませんが、実は結構「密談・策謀」が学生時代からお好きな方でした。最近また、かなり妖しげな人事策謀の噂を耳にして、なんだかなあ、と思っています。彼の策謀は、押し出しが良く耳目を集めるけれども詰めが甘くて実現しないという特徴があるのですが、今度は大丈夫なのでしょうか……。)

杉村春子 女優として、女として (文春文庫)

杉村春子 女優として、女として (文春文庫)

それから、カリスマ・プロデューサーを呼んでくる、とか、代理店を通した丸投げとか、イベントを巡るスキャンダラスなウワサ話は「ザ・興行界」の定番ですよね。

(びわ湖ホールの沼尻竜典さんも、絶対に譲らない人らしいので、その分「黒い噂」はなさそうですが、こういう世界ですから、強力なお目付役がいたほうが当人のためにも安全なのではないか、という気がするのですけれど……。)

あと、こんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、ヤバイ部分をいわゆる裏社会が取り仕切るという、かつて存続したと伝え聞く風習は、音楽家・芸能者当人にヤバイ部分を押しつけてしまうよりは、よっぽど健全だったのではないか、とも思えてきます。

禍々しさから目をそらすよりは、よっぽどマシだったのではないか、と。(「赤い陣羽織」を企画・演出した武智鉄二には、ヤクザの親分などについて実体験を踏まえた書いたボス論があるようです。)

近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

また、速水御舟のコレクターだった武智鉄二は、美術品売買でかなり危ない橋を渡っていたはず。音楽コンクールの安宅賞で知られる安宅英一さんの側近の方の回想録にも、武智鉄二の謎の動きを描写する箇所が出てきます。「芸術とカネ」問題をそう簡単に忘れてはいけない。

美の猟犬―安宅コレクション余聞

美の猟犬―安宅コレクション余聞

一方、朝比奈隆の率いた頃の関西歌劇団は、朝比奈さん自身が京都帝大美学で、演出の桂直久さんは神戸大哲学、副指揮で入った松尾昌美先生は関学美学というように、ちょっと古くさい発想かもしれませんが、人文科学を修めた人を要所においていたようです。若干、学歴社会時代の企業人事みたいではありますが、あそこは、少なくともかつては、音楽家・芸能者だけの集団ではなかったようなのですね。

やり方は千差万別だけれども、音楽・芸術・文化・芸能の「禍々しさ」に対処するしくみや備えが、それぞれの団体や活動に装填されていたらしいことがわかります。

そして、当事者に処理する知恵があるならいいですけれども、どうしようもなく煮詰まってしまう気配があるのであれば、政治・調整の出番ということになるだろうと思うのですけれど……。