某「破壊型批評家」氏に対する批判に若干の懸念あり

[12/30追記あり、12/31 3:00にもう少し追加]

もう一ヶ月以上前のことになりますが、ある音楽評論家さんのブログで、本当にそれでいいのだろうか、と思う記事を見かけました。

彼が演奏会に行くと、以前に演奏評を書いたピアニストの初対面のご親族から、「○○さんでしょう、先日はありがとうございました」と感謝されたと言うのです。そのピアニストさんは、以前、別の評論家から酷評されたことに心を痛めていたので、今回、まったく異なる好意的な評価を得たことを大変嬉しく思っている、とそのご親族さんはおっしゃったのだそうです。

私の考えを書く前に、もう少しそのブログ記事の続きを紹介します。

その評論家さんは、当該ピアニストさんをかつて酷評したという別の評論家さんの文章を直接読んだわけではなく、その酷評対象の演奏を聞いたわけでもないようです。[追記:ブログ主様と「破壊型」様が論評したのは同じ演奏会について、なのだそうです。]

そしてブログの続きで、その評論家さんの批評を「破壊型」と形容したうえで、「その批評家に泣かされているという声を他のピアニストからも聞いたことがある」と続けていました。

(以上、記憶にもとづいて書いているので、細かい文言は正確な引用ではないですが、趣旨は間違っていないと思います。)

まず、このエピソードに関与している人物の関係図を整理してみます。

登場人物は、(1) ブログを書いている評論家、(2) 彼が演奏を聞いたピアニスト、(3) そのピアニストの親族、(4) そのピアニストを酷評した「破壊型」の評論家、そして、(5) 「破壊型」評論の被害者であると申告するピアニストたち(複数の可能性あり)の5者です。

ブログの記事を読む限り、執筆者の(1)評論家さんは、(3)ピアニストの親族と(5)「破壊型」評論の(自称)被害者たちとは直接面識がある。彼は、(3)のご親族様と、(5)の(自称)被害者たちから直接話を聞いている。

一方彼は、(2)のピアニスト本人、および(4)の「破壊型」評論家とは面識がないようです。

従って、このエピソードを読む場合、(2)と(4)に関する記述の客観性は、割り引いて考えねばならないことになります。

つまり、

  • そのピアニストさんの「ご親族」が「破壊型」批評に心を痛めていたことは確かなのだろうけれど、ピアニスト「本人」が同じ考えなのかどうかはわからない。

ということです。

そして、そもそも、

  • 噂の対象になっている批評が、はたして不当なものだったのか?

ということも、このブログ記事だけでは判断できません。

もしかすると、そのピアニストさんの演奏が、ブログ主様の聞いたときと、「破壊型」批評家さんの聞いたときでは出来映えが違っていて、かつての演奏は、「破壊型」さんに厳しく書かれても仕方のないものであったかもしれない。[追記:前述のように、ブログ主様と「破壊型」様が論評したのは同じ演奏会について、なのだそうです。だとしても、当該ブログエントリーでは、両批評が具体的にどういう風に相違、対立しているのか、言及がないのでブログ読者が「破壊型」批評とされるものの実態を推し量ることはできない状態であることは変わりませんが。]

また、これは一般的な傾向であって、このエピソードにあてはまるかどうかはわかりませんが、

ヒトは、肯定的な評価に対しては(内容が適切であるか過分であるかを冷静に判断する以前に)喜ぶ傾向があり、否定的な評価に対しては(内容が適切であるか不当であるかを冷静に判断する以前に)不快感やショックを覚える傾向がある。(もちろん、そうではなく、他者の評価をタフに受け止める方もいらっしゃるとは思いますが。)

そして、これもあくまで「そういうタイプの人がときどきいる」というだけのことで、このエピソードにあてはまるかどうかはわかりませんが、

演奏家のご親族のなかには、演奏家本人に先回りして、演奏家を守ろうとするタイプの方がいらっしゃいます。演奏家本人が比較的冷静な自己評価をしている場合であっても、周囲が過剰反応する、というケースです。

演奏家になるためには、幼い頃から周囲が献身的に、二人三脚の場合が少なくありませんから、周囲がそういう風に、演奏家を「取り扱い注意のワレモノ・貴重品」扱いするようになっていく心理は、もちろん、人情として理解できることです。

でも……、

もしも、演奏家が成人してなお周囲のご親族と一心同体で、ご親族が、本人の気持ちを本人以上によく理解して、演奏家の代弁者・エージェントになっているとしたら……。そしてそのご親族様が、本人の先回りをして、感謝すべき人には本人ではなくご親族が会ってお礼を述べ、苦情をいうべき相手には、本人ではなくご親族が苦情を述べるというようになっているとしたら、それは、はたして喜ぶべきことなのかどうか。

そんな風にご本人とご親族の人格が融合してしまっているとしたら、それは、その演奏家さんにとって、批判的な記事を書かれたことより、はるかに深刻な問題であろうと、少なくとも私はそう思います。

上記ブログで話題になっているピアニストさんとご親族様のご関係がそのような状態なのかどうか、もちろん、上記ブログ記事だけから判断することはできません。

でも、本人ではなくご親族(しかも初対面の)からいきなり感謝を述べられる、というシチュエーションに、もし私が遭遇したとしたら、たぶん私は、「喜んでもらえて、よかった、よかった」と思う前に、[←ブログ主様はそんな風に思ったわけではない、とのことなので、この一節は削除します]別のことをあれこれ推し量って、「本当に誉めてよかったのだろうか」と心配になってしまいそうです。

(実際は、そのような懸念など不要であって、そのご親族様がものすごく社交的な方、超積極的に初対面の人と平気でコミュニケートする、太陽や女神のような方だったのかもしれませんけれども。)

      • -

そして、話の後段、「破壊型」批評に、これまでにも被害者がたくさんいる、という件についても、そのピアニストの方々の演奏を自分が実際に聴くまでは、判断を保留したほうがいいんじゃないかと、読みながら心配になりました。

困ったことに、わたくしは、そのブログで「破壊型」と形容され、ほとんど呪詛されている評論家さんをよく知っていますし、さらに困ったことには、わたくしは、その人が口は悪いけれども、言っていることにウソがないタイプの人だと認識してしまっています。相手に嫌がられようとどうしようと、思ったことは言ってしまう人。そういう風にしか書けない人というのが、世の中にはいるようなのです。

だから、わたしだったら、その人のことを、「破壊型」というよりも、「突撃型」と形容するかもしれません。

その人の文章は、相手が傷つくのと同じかそれ以上に、書いている本人がリスクを負っている、という風に私には見えます。それを承知で書く、というのは、好き嫌いは脇に置いて、希有な、なかなかできないことだと私はかなり尊敬しているのです。

わたし自身は、そこまで「突撃」できませんけれど、それでも、ウソはつかないように気をつけているつもりですし、(これは、ちょっとズルいやり方かもしれませんけれど)文面としては穏健で、それでも、演奏家本人が読んだら、必ず何かのひっかかりを感じてくれるはずだ、と信じて、ある種のメッセージを潜ませる、というような書き方をすることが多いような気がします。

ご親族とか周囲の人が読んだら、「誉めてもらっている」と思うだろうけれども、本人が読んだら「あそこはちょっと」と言っているのがわかる。そんなだまし絵のような文章がありうる、とわたくしは思っております。

毎回そこまで上手く書けるわけではありませんし、「これはヒドい」(行ったお客さんが可哀想)と思ったらそう書きますけれども、演奏会というような、たくさんの人が、それぞれの立場で関わっている興行を批評するには、それくらいの緊張感、陰影、実現不可能かもしれない高精度を目指すくらいでないと、自分がダメになってしまようような気がするのです。勝手な思いこみに過ぎず、周りからみたら、ドン・キホーテかオカルトか、と滑稽だとは思いますけれども、

(なんだか、そのブログ主様(のことも、わたしはよく知っている)への私信のようなエントリーになってしまいましたね。)

[追記]

当該ブログ主様が新しいエントリーで応答してくださったようです。

(当該ブログには、ここで話題になっているピアニスト様の実名が記されております。[追記、実名が挙げられているのは別の方だったようです。失礼しました。が、いずれにしても、]私はそのピアニスト様の演奏を聴いたことがありません。一方、そのブログでは、「破壊型」(当該ブログでは正確には別の言葉が使われていますが)とされている批評家様の実名は記されていません。ピアニスト様や批評家様を、このあとに書こうとしている物騒な話の踏み台にして巻き込むことを私は望みませんので、リンクは貼りません。そのピアニスト様については、いつか実際に演奏を聴かせていただく機会を待ちたいと思います。)

新たに思ったことは2点。

(1) 少なくとも私が傍らで見ているかぎりでは、いわゆる「破壊型」の批評を書くタイプの人達は、そもそも、「誰かのため」に批評を書いているのではないように思えます。

「音楽と正面から向かい合っている」

という意識なのではないでしょうか。

たまたま、どこの誰それという人が演奏しており、たまたま、その人の親類縁者や師匠や弟子や職場の関係者が、あなたやわたしの隣の席に座っていたりするかもしれないけれど、それは、(批評の方法論上)副次的な事柄として捨象して対するべきである、という態度で批評に臨んでいるのだろう、と私は思っています。

そして、こうした人達の口調が厳しくなるのは、自己満足ではなく、むしろ逆。こうした方々はフリーの評論家であって、編集者や演奏家や音楽業界関係者から嫌われ、疎まれたら、ただちに食いっぱぐれる立場です。そして、むしろそういう立場だからこそ、「生活のための媚び」(と受け止められかねない甘さ)が批評に混入することを戒めるような態度を通そうとしているのだと、少なくとも私には見えます。

大げさに聞こえるかもしれませんが、

音楽美学的に言えば、いわゆる「美的自律」を演奏会批評において貫こうとする態度と言えるだろうと思います。

「美的自律」はなにも哲学者や教養市民だけの専有物ではないはずだ、という信念に人生を捧げる人が、戦後関西の文化風土のなかに実在し、今もそういう人達が現役で批評を綴っている、ということです。

だから、あなたの書き方は、私の目には、「所詮、音楽雑誌の地方通信員に過ぎない人間が、美的自律を標榜するなど、噴飯ものである」と言っているも同然であるように映るのですが、そのような理解でいいのでしょうか?

(「美的自律」を標榜できたのは、そしてそのような強硬姿勢でなおかつ食いっぱぐれなかったのは、そもそも高度成長以後の日本の豊かさと余裕のおかげであって、「失われた10年」以後の日本でやっていこうとする人間には、そのような強硬姿勢が自己満足に見えてしまう、というような論戦を仕掛けることは、不可能ではないかもしれません。あるいは、彼らが「美的自律」と信じるものが、しかるべき基準や理論に照らせば誤解や誤り・勘違いである、というように議論を展開することも不可能ではないでしょう。いずれにしても、相手を矮小化するかのような書き方をすることは、フェアではない、ということになりはしないでしょうか。私には、あなたが(正確にはあなたの当初のブログ・エントリーが)、関西の批評家の生き様をみくびっているように見えたのですが……。)

(2) 奇しくも当該ブログには「刀」という単語が書き記されていますが、私は、この語はただの比喩ではないと考えます。

演奏会を論評することは、竹刀や木刀を用いる競技剣道ではなく、切れば血が出る「真剣」をふりかざしつつなされている、「破壊型」とされる批評が、(1)で書いたような「美的自律」派なのではないか、という私の見立ては、そういう意味を含ませているつもりです。

吉田秀和やその他数人だけが「真剣」をふりかざす権利を授与されており、他の人間は、厨房で魚や鶏をさばく包丁しか手渡されていない。そのような考え方もあるでしょうが、でも、ヤクザ映画やサスペンス・ドラマを見れば明らかなように、包丁だって、十分、凶器になり得ます。

吉田秀和には誰かを「処刑」する権利があって、一方で、関西の評論家による刃傷沙汰は、銃刀法違反で捕縛される振る舞い、あるいは、チンピラや鉄砲玉の無駄死として処理されても仕方がないのでしょうか?

私が知る限り、すくなくとも舞台に立つ側の人達は、そこが関西であるか東京であるかヨーロッパであるかに関係なく、油断をすれば、客席で刃物がゆらめく可能性があるという緊張感で音楽に取り組んでいるはずです。そうした場合の「受け身」や「応戦」の備えなく舞台に立つ人を、通常、わたしたちは「プロ」とは見なしません。

こちらが、「真剣」を携えることなく、丸腰で客席に坐ることは、音楽家に対して失礼なのではないか、そういうのを「平和ボケ」と言うのではないでしょうか。

(東京の音楽家さんのなかには、ごくたまにですが、「ここは東京ではないから、真剣で切られることはない」とタカをくくって舞台に立っているとしか思えない人がいるのも事実ですが、そういうことを許すのは、やっぱり良くないでしょう。)

戦後日本の平和は、軍事力(左翼風に言えば「暴力装置」)を自衛隊と警察が占有して、一般国民が丸腰であることによって達成された、という考え方もあるでしょうが、

(そして日本の出版業界における2009年は、音楽において、まるで竹刀や木刀の素振りを楽しむかのような「型」を推奨する書物が注目を集めたようですが……。)

でも、戦後は任侠映画が作り続けられた時代でもありますよね。高倉健や藤純子は戦後の大スターですし、加藤泰や鈴木清順は、大先輩のマキノ雅弘とともに、(映画会社の宣伝戦略などとはほとんど関係なく)国際的にリスペクトされ、回顧上映がなされたりしているようです。

言うまでもないですけれども、これは、評論家がいわゆるヤクザさんのように演奏家から金品でシノギを得て、彼らに寄生して生きている、という意味ではありません。

演奏家が評論家に付け届けをすることで評価を手控えてもらおうとするのは、舞台の上での「真剣」から逃げる卑怯な振る舞いでしょう。

息苦しい話ではありますけれども、そのような息苦しさと向き合うことから逃げることは、舞台芸術の世界に、あまり良い結果をもたらさないのではないかと、少なくとも私は思っています。

関西の評論家の「真剣さ」に、「!?」のような符号で揶揄する余地はない、ガチだ。私は、日々そのように考えております。

(そしてこれは、ひょっとすると、上方こそが日本の舞台芸能のメッカである、という心意気とどこかで響き合う心性かもしれないと、思ったりもするのです。私自身が生粋の関西人ではないので、粗相があってはいけない、と生真面目に考えすぎているのかもしれませんが(笑)……。)

[さらに追記]

ついでなので書いてしまいますが、

話を元に戻して、音楽雑誌のなかには、演奏評執筆者に対して「手心を加えて欲しい」旨をあからさまに要求してくるところがありますけれど、

あれは要するに、その雑誌が、広告を出した演奏家についてのみ批評を掲載するシステムだからだ、という風に私は認識しています。(つまり、事実上、演奏評が広告掲載のオマケ、広告主演奏家への粗品や記念品進呈のようなものになっているのであろう、と。具体的な説明を受けたわけではなく、やりとりをもとに私が勝手に想像しているに過ぎませんが。)

そういう特殊なしくみで存立している(と推察される)雑誌の編集者の意向をもとに、それが日本における雑誌編集の「一般意志」であると思いなし、音楽批評の現状や原理的可能性の考察をはじめると、ちょっとおかしなことになると思います。

一方で、「破壊型」とされる批評家氏等が執筆している雑誌の批評欄のように、そうした営業の事情から独立して、批評対象の選択等が可能になっている場所もあるようです。(そうした場所が確保できているのは、先人の頑張りの結果もかなりあるはずです。)

青臭い言い方で恐縮ですけれども、書きたいことを書く場所というものは、どこかから与えられるものではなく、意志的に獲得すべきである、ということだと思います。

彼らは、周囲の事情などおかまいなしに書きたいことを書き散らしているわけではなく、こういうことを書きたい(あるいはこういうものを書かせたい、読みたい)という関係者の意志なり時代の後押しがあって、それを実現してきた世代であるということです。

だから強い、ということでもあるのかもしれません。

行動なしに、与えられた場所のなかに留まって、それが変えようのない現実であるかのように思いなしてしまうと、話がねじ曲がってしまうのではないでしょうか。

(この言い方は自分に跳ね返ってきて、来た仕事を受けるだけのわたくし自身が、最初に糾弾されねばなりませんが……。)

日本の音楽雑誌の演奏評の欄(とりわけ地方演奏会評)を年代を追って見ていくと、執筆者と編集サイドの関係性、きっと何らかのやりとりがあってこう変わったんだろうな等々と推察できる痕跡が見つかる場合があって、歴史は重要だと思わせられます。

たとえば「音楽の友」は、1960年前後に、世の大衆化を前にして編集サイドがたじろいだのか、演奏会評(個別評)が一切載っていない号があったりします。(すぐに演奏評は復活して、むしろ増加して今日に至っていますが。)

音楽雑誌の体裁や方針は、きっかけがあれば、その程度にがらっと変わることがあるみたいですよ。

関連:できればこのエントリーは、次のエントリーとセットで読んでください。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091230/p1

わたくしは、「美的自律」なる観念を絶対視しているわけではなく、かといって、芸術関係者が相対主義的・自主規制的に制御することには限界があると思っています。

そして当該ブログ主様の「内省」は、良心的ではあっても、ダイナミズムに欠けすぎているのでは?と思ったのです。人それぞれ、考え方は色々だと思いますが。