反動は保守に手を出すな(旧題:音楽は対照実験ではない、という当たり前の認識を今さら丁寧に論証するのは無駄話以上の何かに本当になりうるのか?)

最近、お悩みが深いかのようにお見受けするXさんへの私信:

[追記]

以下の文章は、あなたがかつて音楽美学専攻の看板を掲げていらっしゃったことに敬意を表して、私の乏しい知恵を絞ってできるだけ厳密、論理的に書こうと心がけましたが、先程改めて当該ブログ記事を読み直して、もしかすると、それは必要なかったかもしれないと思い直しております。

あなたは、海外在住の知人がこう言っていて、学生時代の先生がこう言っていた、と2箇所で、あなたが思考の拠り所としていらっしゃる情報の出所を明示していらっしゃいますが、

そうでない部分も、読み直してみますと、最後の日本のルーティーンワーク的な新聞社説に似た凡庸な締め方に至るまで、どこかで誰かが言いそうな話であって、とても、あなたの脳みそを経て咀嚼され、考え抜かれた思考とは思われませんでした。

少し前にあなたは、「私は保守ではあるが反動ではない」と書いていらっしゃいましたが、少なくともこの文章は、単に世に流布する言説に惰性的・慣性的にのっかった言葉から成り立っているだけのように思われます。

それは「保守」ではないと思います。現在の体制を積極的に「是」として、その維持・強化・存続・補修のために行動する思考ではないからです。「保守」とは、徹底して近代主義のリアリストであるはずです。

むしろあなたのように、自前の動力をもたず、どこかの誰かの思想をそのままおうむ返しに繰り返しながら、これ以上異なる力の介入がありませんように、このままそっとしておいてもらえますように、と願うのは、目立たず騒がずにお家存続を願う旧家の当主の処世術を連想させます。

それは、むしろ伝統主義、ある種の「反動」に近いのではないでしょうか。

日本の洋楽は、近代化を標榜してはじまりましたが、150年経って、祖父母の代、曾祖父母の代から続く「家の芸」の性格を帯びつつあるように思います。律令制下の雅楽や武家の能楽、町人の三曲に似た近代ブルジョワの芸事、いわば、「洋楽日本流・宗家家元」です。

洋楽とはそのようなものではない、とも意見もありますが、別に、そのような「日本流」があっていい、というのが、あなたの考えなのでしょう。

そしてあなたは、そうした「宗家家元」の美風を愛し、その存続を願っていらっしゃるように見えるのですが、違うのでしょうか?

たとえば、「日本人には容易に越えられない壁がある」とか、「まずはコピーからはじめなさい」とか訓辞は、知的・科学的認識というよりも、家の芸の一部として伝わっている「家訓」(「花伝書」みたいなもの)であると、私には見えます。そういうのがいいわけでしょう、要するに。

だとしたら、「反動ではあるけれども、積極的な保守はしない」という風に表明した方が、むしろ、納得されやすいのではないでしょうか。

不用意な形で現状や他者に介入してしまいかねない「保守」の要素は、失礼ながらあまりお似合いにならないようなので、この際ばっさりお捨てになったほうが、安寧な生活が得られるのではないでしょうか?

そんな風に、ひっそり「家」を存続している方は、今もきっと日本のあちこちにいて、それはそれで、その人にしかできない生き方だと思いますし、心温まる書き手として、読者を獲得するのではないでしょうか……。

(それに、家元には、社中の者が生き延びるために工夫を重ねている現場をもうすこし思いやっていただきたいと思います。

いきなりバッハのコラール編曲とか、ベートーヴェンの第5交響曲を教えろと言われましても、いや、一発逆転起死回生を、と焦る家元の熱意は痛いほどにわかるのですが、そういう作品は、「洋楽日本流」の免許皆伝ではじめて許される秘曲のようなものではないですか。

しかるべき手順を踏んで、名取りになった者だけに教えるとか、そういう先人が作り上げてきた社中のしくみ(東京音楽学校というのは、要するに江戸幕府が家元を統制するしくみを明治政府がマネして、新しい流派である洋楽の家元を独占したわけですよね)には、惰性・慣性で残っているだけの理由があるのですから。

だいいち、いきなりバッハやベートーヴェンを教えたら、みんな稽古をそこでやめてしまって、社中の者は暮らしていけなくなるじゃないですか。

大阪フィルの大植英次がベートーヴェンとブラームスは特別なシリーズでやる、秘曲にはしかるべき特別な場所を用意する、年末の第九は振らない、という風にしているのは、(演奏には賛否があるでしょうけれども)社中の運営としては、あっておかしくないひとつの判断だと思うのです。

家元も、そういう現実をもうすこし勉強してくださいな。)

というわけで、以下の文章は、「家の芸」を越え出て「保守」に接近しようとしていらっしゃるかに見えた部分に関して、私なりの感想を遠慮なく綴ったものとお考え下さい。

[追記おわり]

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厳密な意味での実験では、比較のための対照実験(コントロール実験)が行われる。これは観察対象とする現象にある要因が影響するという仮説を実験で検証する際に、その要因だけを変え、それ以外の条件を同じにする実験をいう(対象 と対照 を間違えないように注意)。

実験 - Wikipedia

実験と観察を積み重ねる帰納的推論(フランシス・ベーコンですね)を標榜する近代科学は、対照実験によって、単なる枚挙(「事例Aも事例Bも事例Cも○○だから、すべての事例が○○であるに違いない」)から一歩踏み込んだ対象の分析が可能になった、と言えるかと思います。

「事例Aと事例Bは、他の条件が同じで、Xという属性のみ設定が異なっている。このような条件下で、事例Aと事例Bには、差異Yが観察されるとすれば、差異Yは、設定Xと因果関係もしくは何らかの相関関係が推定される」という論法ですね。

音楽コンクールは音楽版の対照実験と言ってよいでしょう。

すべての参加者の演奏条件を同じにそろえようとする努力は、個人の「能力」や「才能」とされるものを純化した形で見てみたい、という近代の欲望に突き動かされているのだと思います。

同じ会場で、あるいは同じリスニングルーム&再生装置で異なる演奏を聴いて、両者を比較する、という対照実験モードの音楽論にも、論者の同種の欲動が投影されているのだろうと思います。

でも、残念ながら私は、人間・文化を対照実験の俎上に載せよう、などというのは、根本的に、論の立て方が間違っていると思っています。

求める差異だけを抽出できるように他のあらゆる条件を同じに保つ、などということは、音楽や、おそらく人間の文化と呼ばれる複合的な行為に関して、ほぼ不可能であるか、全人性を費やしてもたりない壮大な事業になってしまうと思われるからです。

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「AはBに比べると○○だけれども」などと、あたかも客観的な事実であることのように書き出すこと自体が相当に鈍感である、という風に思ってしまうのですが、これは私が神経質すぎるのかしら(と、吉田秀和で書き出してみる)。

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たまたま貴方が聴いた演奏会Aと演奏会Bの間に、ある視点から見たときに有意な違いがあったとします。その違いがそれぞれの演奏会の演奏者の特性の表れであると推論するに足る十分な根拠を有しているなどと、おそらく、あなたは信じないでしょう。それなのに、そのように信じる人が少なくないと想定して、そのような地点から思考を開始するのは、あまりに臆病であるか悠長であるか、そのどちらかなのではないでしょうか。

たとえば、外来演奏団体が取っておきの曲目をそろえた巡業公演と、地元団体の年に十数回のレギュラー公演は、たまたま同じ都市で同じ時期に同じ演奏会場で行われていたとしても、そもそも、演奏団体の能力を比較する対照実験と見るには、条件が違いすぎる。そんなことは、演奏会に普通に通っていれば、誰かに説明されなくてもわかることです。

しかも、外来演奏団体の「よそ行き」の方が質が高いか、というとそうでもなくて、

なるほど、わざわざ人とお金と労力をかけてよその土地へやってくるのですから、それなりの実力なのだろう、との期待を事前にもちうるものではあるでしょうけれども、長旅の末の「アウェイ」ですから、演奏者にとって好条件とは限りませんし、でも逆に、旅先ゆえにハイになっていつも以上に上手くいく場合だってあるかもしれない。

結果はやってみなきゃわからないし、どうしてそういう結果になったのかなんてことは、そう簡単にはわからない。

ある演奏が圧倒的で、日本人には無理、とかいう風に聴衆を(すくなくともあなたを)打ちのめしたとして、それはそれで、あなたにとって真実ではあるでしょうけれども、現象としては、その演奏団体が、色々あったけどボロを出さずにうまく切り抜けた、というだけのことだと思います。

ライブ・パフォーマンスというのはそういうものだというのは、誰かに教えられることではなく、通っているうちに普通にわかることではないでしょうか。

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さらに言えば、

演奏団体Aの地元X市での演奏会と、演奏団体Bの地元Y市での演奏会を比べればいいのか、というと、今度は演奏会場からなにから、条件が違っていますし、そんな面倒な比較を誰がやるのか、という問題があります。

(自分では行くことの出来ないY市の演奏会については、別の人物の評価で代用する、などというのが、およそ「科学的」でないのは言うまでもないでしょう。私はその人をよく知っていて、判断には全幅の信頼を置いている、と言い張るのはいいですけれども、○○について××さんが●●だと言っていました、という幾重にも伝聞が重なった言表は、それを発話する人への信頼があればドミノ倒し的に納得を波及させるかもしれないけれども、第三者には、プライベートな風評にしか見えないでしょうし、簡単にそのような風評が信じられてしまう風土は相当危険であり、そんなこと、まっとうな社会人は鵜呑みにしないでしょう。音楽雑誌には現地レポートというのが載っていますが、あれは似非科学みたいなもので、自分ではいけない土地のお話を載せて、読者に夢を売っているのだと思います。これもまた、人はそういうものだと思って消費しているはずです。)

ライブ・パフォーマンスがそんなに曖昧なものなんだったら、それぞれの団体の取っておきの録音で比較すればいい、などとも、まさかお思いにはならないでしょう?

各演奏団体のレコーディング条件は千差万別ですし、そもそも、レコーディング・エンジニアは、商品としての差異・特性を際立たせるべく知恵を絞ってディスクをリリースするのですから、商業録音は、対照実験の材料とするには最も不適当な素材であると言わざるを得ないと思われます。

思いっきりお化粧した奇跡の一枚の写真を並べて、誰が一番魅力的なのか、品定めするようなものですから……。

ライブであれ録音であれ、興行・商売ですから、そう簡単に「決定的な証拠」がつかめないようになっている。そんなことは、音楽とある程度つきあっていれば言われなくてもわかる日常的な光景に過ぎないのではないでしょうか。

お望みであればこれもいい、あれもいい、とうっとり眺めていればいいし、うっとりできそうになかったら行かなければいい(生死にかかわることじゃないし)、基本的に、それだけのことだと思うのです。

比較の衝動は、ライブ・パフォーマンスでもオーディオ・リスニングでも、聴いている最中には発動していないはずです。

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どうしてそこで、売られてもいないケンカを買うようにして、対照実験風の推論の欲動を引き受けてしまうのか。

おそらく、比較にもとづく推論というそれなりに面倒な作業を発動したうえで否定するという手の込んだ手順をわざわざ文章にするのは、止むにやまれぬ何かに突き動かされていらっしゃるのでしょう。でも、そっち方面に突っ走るのは筋が悪いというか、たぶん、そっちへ行っても、当初の衝動が解消できる可能性は限りなく小さいと思うのですが……。(論として無理筋なのですから。)

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音楽を巡る議論は、19世紀ヨーロッパの自然科学全盛時代に一挙に「科学的」になり、「西洋音楽の歴史は古代ギリシャ以来、合理性に貫かれている」との歴史観が標準の地位を確立するに至りましたが、

「科学的」に考察しようとすればするほど、そのようなモードが不適当であることが精確に露呈しつつあるのが現状であるように思います。

人はそれぞれなので、止めませんが……、最初から間違っている「問い」につきあってその先へ突き進んでみせる自家中毒ゴッコは、もういいのではないでしょうか。

あなたが生きている世界は、高学歴の(ということは国家がそれなりのコストを支払った)知識人が、世界と音楽が合理的であるとの夢を語っていた過去の思い出にすがりつつ堂々巡りしているのをのんびり眺めているほど、優雅でも悠長でもない。

危機感を煽りつつグルグル同じ所を回るのは、危機対応としてダメダメなんじゃないでしょうか?

(もし本当に今が何かの危機だとしたら、の話であって、その認識自体、私は同意しかねますが。

だいいち、通えば通える関西の楽団ですら、それほど聴いていらっしゃらないのに、「日本の楽団が……であることを断言できる」と書く、その根拠が理解できない。西洋vs日本という比較で大きなことを言うには、サンプルの数が少なすぎるのではないでしょうか?

まさか、「我こそは、ひとたび聴けば、ピタリと正確な判断を下せる音楽の大審問官である」と思っていらっしゃるわけではないでしょうに。そのような、あらゆる演奏を即時に判断できる便利な基準などというものはない、ということでなければ、お書きになっている文章の論旨に合わないですから。

まともに対象と向き合ったこともないのに、「日本の楽団は……」と断定して、さらに、演奏スタイルの違いは言語の違いと相関するというような、まるで第二外国語でドイツ語やイタリア語やフランス語を習い覚えたばかりの子供の言いそうなウブな話に飛躍するのは、ちょっとどうかと思います。

ブログには、熟考する前の思いつきを書いているに過ぎないスタンスであると以前お聞きしましたが、そんなの筋が悪すぎて思いつきもしないというか、あまりにも安直で既に自分のなかでとっくにNGを出しそうなもの。それくらいの準備はプロとして音楽とつきあうなら既にやっていて当然だと思っていたのですが……。ちょっとヌル過ぎるのではないか、と……。

私は、ちゃんと聴いたうえでご自身の意見・感想をお書きになる方のことは、自分の考えと違っていても無条件で敬意を払いますけれど、ろくに聴きもしないし、筋道立てて考えを突き詰めもしないで、どうせこうなんだろう、と当て推量を書く人のことは無条件で軽蔑します。偶然その予測が当たっていようが、そんな当てモノには何の価値もない。それが、他者の行為を論評する人間の最低限のモラルと思って生きております。)

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