朝日新聞と関西の音楽文化:朝日会館(十河厳)、フェスティバルホール(村山美知子)、ザ・シンフォニーホール(原清)

前のエントリーはさらっとまとめましたが、十河厳の本(詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100909/p1)には、実際にはあれこれ舞台裏を想像させる記述・情報が出てきます。そこに踏み込むと、絵と文をきれいに配置した、いかにも神戸山の手の趣味人の思い出アルバム、という本の印象がグチャグチャになってしまいそうだったので自粛しました。

今度は、その自粛した部分を、他の話とくっつけてふくらませながら書いてみたいと思います。

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十河厳は朝日新聞の社員でした。朝日新聞という会社は、(知っている人はご存じのように)社内事情を外に見せまいとするガードの固い会社です。非常に優秀な社員さんをそろえているのと相まって、報道取材の現場で独特の雰囲気を醸し出している会社であるように思います。

この独特の社風が、しばしばやっかみ半分で言われるようなプライドの高さゆえなのか、それとも、不偏不党を貫くジャーナリストとしての職業倫理(が形骸化したもの?)なのか。中が見えないので、不完全な推測しかできません。そのうえ、最近は多少事情が変わってきたかもしれませんが、かつて朝日新聞は、自社に対する誤った憶測に対しては、直ちに抗議をする「闘う報道機関」としても知られていました。慎重におつきあいしないと、こちらが傷ついてしまいかねない感じがあったわけです(しかも、憶測でモノを云うヤツが悪い、という風に「正義」は朝日新聞にあるわけですから、傷が癒えずに哀れなことになってしまう……)。

でも、朝日会館はもはや跡形もなく、その後継のフェスティバルホールも50年を経て、リニューアルへ向け、初代ホールはビルごと取り壊されてしまいましたから、もう時効ということで、十河厳の足跡についてだったら、ある程度、憶測を交えた文章を綴ってもいい頃合いではないかと思っております。

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十河厳は明治37年(1904年)2月生まれで、詩人の竹中郁とは学生時代からの友人とのことなので神戸二中もしくは関西学院の出身。朝日新聞に入社。社会部の労働関係記者だったようです。(彼は、戦後、朝日会館に安定した集客を確保する目的もあって、大阪労音(のちに全国組織となる労音の発端)の立ち上げにも関与したようですが、このときには、もしかすると記者時代の人脈が役だったのかもしれません。)

昭和17年春には、陸軍宣伝中隊に配属されてジャワへ敵前上陸。5月には、旧知の小磯良平がジャワに来たのに出会ったそうです。

日本の古本屋で「十河厳」を検索すると、

  • 神風の飯沼正明 日本教育紙芝居 十河巌 大内秀邦 作
  • ジヤワの旋風 戦後文化の探訪 装〔小磯良平〕 十河巌 昭18 含ジヤワ作戦従軍記

というのがヒットします。

ひとつめの「神風」は、大澤壽人に関心がある方ならピンと来るかと思いますが、特攻隊ではなく朝日の最新鋭飛行機で、東京・ロンドン間飛行に成功したのが飯沼正明。大澤がこのときピアノ協奏曲を書き、十河厳が紙芝居作りをしたのですね。また十河厳は、前のエントリーでご紹介した『あの花この花……』の大澤壽人のところで、支那事変の戦没者追悼の作品「西土」を大澤が作曲して、朝日会館で初演したことに触れて、自らが詩を書いたことを明かしています。(神戸女学院編纂の作品目録によると、「西土」初演は1937年12月。)

十河厳は、大澤より2歳、朝比奈隆より4歳年上。30代の働き盛りが丸々戦争中だった世代ということになります。朝比奈さんもそうでしたが、戦争中の仕事を隠すという風ではない印象を受けます。人生のかけがえのな時期であったはずですから、それは当然であろうかと思います。(戦争という営為を肯定するわけではないですが、人間は、戦争をよけて生まれるというようなことを個人の意志で選択できませんから、後世・他者の評価はともあれ、その状況でベストを尽くすしかない……。)

多才な人だったようですから、ジャワ宣伝部隊で具体的にどういう仕事ぶりだったのか、気になります。

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先述の昭和17年以来、ジャワの軍報道斑にいた十河厳は、昭和21年5月に復員。同年9月から朝日会館の4代目にして最後の館長になりました。

朝日新聞が自社文化事業の拠点として朝日会館をオープンしたのは大正15年(1926年)秋。元号は年末に昭和に変わるので、朝日会館は、関西の昭和モダニズムのハイ・カルチャーの象徴と言ってよい場所だったと思われます。単なる貸し館ではなく自主事業を積極的に行うのが戦前からの売りでした。

ちょうどこの頃、朝比奈隆が満州から復員して、翌年に関西交響楽団が旗揚げするのは周知の通り。(朝日会館がこの新しいオーケストラをバックアップしたのは、それまで朝日会館で定期的に演奏していた日響(現N響)が毎日新聞系の大阪日日新聞主催で興行を打つことになって、その替わりになる楽団を求めていた事情もあるようです。)こうして『あの花この花……』にまとめられた人々が入れ替わり立ち替わり訪れる華やかな朝日会館の事業を、十河厳は館長として切り盛りすることになります。

この時代のことは、私自身、既にあれこれ調べましたし、戦後関西の文化史のなかで、朝日会館は戦前から引き続いて大きな存在だったのだな、ということを再確認するのみです。

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昭和28年(1958年)10月、朝日会館は朝日新聞厚生文化事業団から新朝日ビルに移管されて従来の自主事業を停止。十河厳は新聞社の編集局へ戻ったようです。そして定年後にサントリー宣伝部へ。

十河自身の文章によると、55歳停年で朝日を退職とあるので、サントリーへ移ったのは1959年頃でしょうか。前任の開高健は、トリスのキャッチコピー「人間らしくやりたいナ」などで知られていて、「裸の王様」で1957年下半期第38回芥川賞を受賞後サントリーを退社したらしいので、十河厳が1959年頃に後任でサントリー嘱託だとしたら年代も合います。朝日退社後も、才人・十河厳を世間は見捨てなかった、ということでしょうか。

朝日会館は、映画上映や貸し館としてその後も存続しますが、それまでのように華やかな事業展開はしなくなります。

そしてこれは、朝日新聞の方針転換、朝日が、同年4月に大阪国際芸術祭でオープンしたフェスティバルホールに音楽事業の拠点を移したということだと思われます。朝日新聞のホールが、四つ橋筋の西側(朝日新聞社屋の隣り)から、それまではスケートリンクだった通りの東側に移動したことになります。(朝日会館にあったABC朝日放送ラジオもフェスのあるビルの上階へ移り、フェスの地階には公開収録用のABCホールがありました。ちなみにABCのテレビ部門はOTVを引き継いだので、大淀へ移ってラテ統合を果たすまでは堂島浜、現在の全日空ホテルの西隣の元OTV社屋でした。)四つ橋筋には、前年秋に産経会館(のちのサンケイホール)ができていますし、そのちょっと前には大阪毎日会館もできて、まもなく毎日ホールができます。戦後の新ホール建設ラッシュみたいな感じがあったのかもしれませんね。

(余談になりますが、ABCだけでなく、MBS毎日放送もラジオを新日本放送時代からの梅田阪急デパート屋上に残したまま、テレビは毎日会館北館で開局しました。四つ橋筋には、昭和30年代前半、新聞各社と文化事業の拠点になるホール、そして系列のラジオ、テレビが集まっていたようなのです。

屋上に電波送信塔を立てた放送局の建物は、まだ高層ビルの少なかった当時は相当に目立つ存在だったと思われます。特に朝日放送は、そこに局のマークやチャンネル番号の「6」の文字のネオンを付けるなど、ランドマーク的な意味を自覚していたようです。やり過ぎもあって、大淀に局社屋が移ったときには、高い大阪タワーを作って観光化しようとして失敗しておりますが(笑)。

ともあれ、戦後、新聞社は放送局を傘下に持つことで複合メディア企業に変わりつつありました。最近のインターネットへの取り組みが消極的なのと対照的に、当時の放送への新聞社の意気込みは、先行するNHKへの対抗意識もあって大変なものでした。各社競っての新しい音楽ホール建設は、もはや新聞社が活字だけのメディアではなくなった時代のシンボルという意味合いがあったのかもしれません。

朝日会館の、朝日=太陽だからエジプトの太陽像で飾る、といった教養趣味では対処できない時代が来たということだったようなのです。)

大阪国際芸術祭は、一回目は朝日が産経、毎日(要するに四つ橋筋にホールも持つ新聞社)に共催を持ちかけて、会場もフェスティバルホールに限定せず、しかも音楽・演劇などの総合的な「芸術祭」を目指して発足しました。でもそこまで大きな話はうまくまとまらず、第2回からは大阪国際フェスティバルとして、ほぼ朝日新聞の事業、会場はフェスティバルホールのみになります。室内楽もピアノ独奏もすべてこの大ホールで行われていたのは皆様ご存じの通りです。ちなみに産経新聞は、別に「なにわ藝術祭」を立ち上げることになります。朝日新聞は、ホール建設では産経に一歩遅れたけれども、音楽祭事業では先手を取って、全国区的に報道される年中行事に育てることに成功したわけです。

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私は、前にフェス閉館のときにも少し書きましたが、昭和のはじまりとともにスタートした朝日会館の歩みと、大阪国際フェスティバルとの関係が気になっています。時代の新しい要求に答えるのはいいとして、内容面というか会社としての見せ方として、円滑にスピリットが継承されたのか、それとも、朝日会館のことはリセットして、フェスで再スタート、というニュアンスのほうが強かったのか?

客観的に見えている事実としては、第1に、朝日会館時代には(少なくとも表からは)ほとんど姿が見えなかった村山美知子さん(朝日初代社主の村山龍平のお孫さんで、のちに朝日新聞社主)が、大阪国際芸術祭立ち上げでは、音楽雑誌のインタビューを受けるなど「音楽祭の顔」としてメディアに露出しています。この音楽祭が、エジンバラやザルツブルクの音楽祭をお手本にしていて、日本で最初の本格的国際音楽祭である、といったことは、彼女の言葉が出所であるようです。以来50年間、大阪国際フェスティバルは彼女が牽引してきた、(少なくとも外野の野次馬の視点では)そういう風に見えます。

一方、少なくとも音楽祭の立ち上げの準備段階では、戦前から日本に海外演奏家を招聘するプロモーター(いわゆる「呼び屋」ですね)として知られていたストロークの助言を受けたりもしていたようです。その後、音楽祭独自の企画へ移行していくことを目指していたのであろうとは想像されますが、マネジメント関係をゼロからすべて新規開拓できたわけではなかったようです。当然ではありますが。

上海オーケストラ物語―西洋人音楽家たちの夢

上海オーケストラ物語―西洋人音楽家たちの夢

アレクサンダー・ストローク(1877-1956)は、極東における西洋音楽家の興行を牛耳っていた人物として、洋楽史や音楽家評伝にしばしば名前が現れますが、記述が断片的で全体像の見えません。アメリカ国籍との記述を見かけた記憶もありあすが、榎本さんによると(119頁)、ラトビア出身のユダヤ人で、1913〜1916年に上海パブリックバンドに在籍して、その後マネジメント業に転じたようです。ラトビアのユダヤ人だとしたら、伊東信宏さんの言う「中東欧音楽の回路」を構成する人物ということにもなりそうですし、東欧ユダヤ人音楽家とのつながりが強かったのも納得です。

そして第1回大阪国際音楽祭では、團伊玖磨の歌劇「ききみみずきん」公演(関西歌劇団・関西交響楽団が出演予定)が直前で中止される騒動が起きました。公演中止の理由は諸説あって、はっきりしたことはわかりません。ただ、具体的な事情がどうであれ、当時盛り上がりつつあった創作オペラ運動に水を差す出来事、あるいは、NHKがイタリア歌劇団で話題を集めるなど、日本のオペラ興行が、自主創作(十河厳が支援した團伊玖磨が火付け役となり、関西歌劇団も当時はかなり注目されていた)から、本場直輸入の外来歌劇場招聘大歓迎路線へとシフトする流れを作ってしまったことは否めないかもしれません。その後、大阪国際フェスティバルは、カラヤン&ベルリン・フィルや、ヴィーラント・ワーグナー演出の楽劇が呼び物になります。公演記録をみていると、海外高級ブランドの直輸入フラッグシップ店のような印象です。

念のため言い添えておくと、團伊玖磨は、大阪国際フェスティバルのための音楽の作曲依頼があったのを「ききみみずきん」の一件のあとキャンセルした、との裏話が当時の雑誌に出ていますが、そのあとは、1962年の第5回国際フェスティバルで「三人の会」公演が行われ、歌劇「ひかりごけ」も同フェスティバル(1972年第15回)で初演されました。1960年には山田耕筰自身の総指揮で「黒船」も上演されています。大阪国際フェスティバル(村山女史?)が日本のオペラに冷淡だった、ということではないのかもしれません。

ただ、私見では、大阪国際フェスティバルの立場は、朝日会館のように創作オペラの「運動」に直接コミットするというよりも、日本のオペラのなかから「ブランド化」しうる作品をチョイスしていたように見えます。朝日会館の事業展開は、(十河厳自身、退職後には本格的に油絵をはじめて、画風は抽象だったそうですが)モダニズムの文化創造の論理で動いていて、一方、大阪国際フェスティバルは高度成長の波に乗った消費文化の先駆けという感じがします。

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十河厳はフェスティバルホールには直接関わっていなかったようです。(間もなく停年で退社していますし。)そして朝日会館の建物自体が、大阪市内を環状で結ぶ阪神高速道路1号線の建設工事にともなって昭和37年(1962年)秋に閉鎖され、取り壊されました。(阪神高速開通は1964年。)十河厳の『あの花この花……』の最初に出てくるのは、朝日会館そのものを描いたイラストでありまして、昭和37年10月に開かれた朝日会館のお別れパーティのことについては、会館開設当初からの常連で、いわば朝日会館とともに育った世代の辻久子が演奏してくれたこと、笹田和子(←この方も宝塚のお嬢様)が涙ながらに歌ったこと、などのエピソードが、それぞれの人物の思い出のなかに挿入されています。

朝日会館については、公式な記録が今は(まだ?)ないようです。昭和51年(1976年)に(おそらく朝日創業百年を見据えて)『朝日會館史』が作成され、十河厳も執筆したようなのですが、この文書は公刊されていないようです。『あの花この花……』の刊行が、その翌年昭和52年4月なのは偶然なのかどうなのか……。少なくともこの頃、十河厳は朝日会館に関する資料をまとめた直後で、館長時代の個人的な思い出にも形を与えておきたいと思ったのかもしれませんね。

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あと、後日談を2つ。

ひとつは万博クラシックです。最近、日本万国博覧会の公式記録を読む機会がありました。図書館で請求すると、本編だけで資料を含めて三分冊。上質な分厚い紙でブリタニカの百科事典みたいな巨大な本がドカンと出てきまして、他にも、理事会議事録とか膨大な分量の記録が刊行されていることがわかりました(←こちらはとても読み切れていません)。70年万博がいかに巨大な事業であったのか、改めて思い知らされつつ、万博協会が正式に企画・実施した音楽・芸能イベントの全貌(企業パビリオンなどの詳細は除く)がようやくわかりました。

大阪万博のクラシック音楽関連事業は、メイン会場の千里丘陵を離れて、大阪市内のフェスティバルホールで「万博クラシック」(「エキスポ・クラシック/EXPOクラシックス」など資料ごとに表記に揺れがあり、どれが正式なのか確定できず)として会期中の3〜9月に行われたのですが、この「万博クラシック」の企画・運営経緯についても、克明な記録がありました。

大阪万博は多岐に渡る事業をプロデューサー制で運営しており、当初、クラシック関連は村山美知子をプロデューサーにして、大阪国際フェスティバルを万博に包摂しつつ大規模化する形が考えられており、それで会場はフェスティバルホール、ということであったようなのです。万博クラシックと大阪国際フェスティバルには具体的なつながりがあったということです。

やや露悪的な言い方をお許しいただけるならば、大阪国際フェスティバルは、いわば高速道路建設で朝日会館をつぶしつつ成果をあげていたわけですから、国際フェスと、千里丘陵を大規模開発した万博とがリンクするのは、いかにも高度成長期らしい話ではあるなあ、と思ってしまいました。東京がオリンピック前後で都市の相貌を一変させたように、大阪の大改造は万博でその頂点を迎えたわけです。

万博公式記録には、村山プロデューサーの当初案が直前で修正され、彼女がそれと相前後してプロデューサーを辞任したことなども書かれています。村山さんの当初案がどういうものであり、何がどのように修正されたのか、関西歌劇団による大栗裕の歌劇「地獄変」の万博上演が決まった経緯などとも無関係ではなさそうで、一連の動きを具体的に分析すると、また何か言えるかもしれませんが、これは今後の宿題です。

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もうひとつの落ち穂拾いは、朝日放送が建てた、広い意味で「朝日系」と言っていいであろうザ・シンフォニーホールについて。

朝日放送の50年史を読んでみると、ザ・シンフォニーホール建設が、原清社長の新年の社内談話のなかで突然発表された寝耳に水の出来事であったこととして記述されていました。一般社員は、今なぜ音楽専用ホールなのか、しかも、日本のどこにもない前代未聞の仕様の(放送用ですらない)ホールなのか、誰もわけがわからなかったのだとか。

社史では、原社長(社史編纂時は既に故人)が旧知の朝比奈隆に相談したのであろうとの推測から、朝比奈隆に取材して、それらしい談話(「原さんが当初はオペラもできるホールを考えていて、私[朝比奈]がオペラはやめとけと必死に説得したのだ」云々)を載せています。この朝比奈取材が1999年、朝比奈死去の2年前ですから、よくぞ聞いておいてくれた、と思うタイミングですが、しかしそれでも、それじゃあ何故、原さんが音楽にこだわったのか、ということは、やっぱり謎のままです。

『音楽の友』昨年3月号の関西民間ホールをめぐる座談会で、朝比奈さんらと親しかった響敏也さんは、原さんには朝日会館への思い入れがあったのではないか、と指摘してくださいました。ゆったりした空間のホールで、単なる貸し館ではなく自主事業を積極的に仕掛けて、本当はコンサートだけでなくオペラもやろうとしていた原さんのヴィジョンは、たしかに、かつての朝日会館を思わせます。

原さんが具体的に朝日会館とどう関わっていたのか、そこは私はまだ確認できていないのですが、少なくとも、彼はもともと朝日新聞の社会部記者で、ということは十河厳と近かった可能性はありそうです。(しかも今調べてみたら、1907年生まれの原さんは宝塚生まれで、甲陽学院高校から関学。やはり、と言うべきか、阪神間の人であるようです。そういえば大澤壽人を朝日放送に引っ張ったのは関学同窓の原清だ、という話もあったような。だとしたら、十河、大澤、原は学生時代以来の知り合いだったかもしれませんね。)

社会部時代の原清は、JOBKの番組に朝日新聞記者の肩書きで出演したことも度々あったらしく、そうした放送との縁で、朝日放送立ち上げ時にそちらへ転出したのではないかと思われます。(ちなみに、早くから民放ラジオ開局に向けて動いていた新日本放送(のちの毎日放送)が自主運営にこだわったのに対して、準備が遅れた朝日放送は、JOBKの協力を仰ぎながらのスタートだったのだそうです。)

朝日会館が曖昧な形で消滅してから数十年。あくまで一般論として、その思い出が記憶の中で美化されて、巨大なフェスティバルホールの海外ブランド直輸入路線に違和感を抱く人々がいても不思議ではないかもしれませんし……、学生時代からの思い出・交友を胸に抱いていた原清が、同窓の大澤にも手伝ってもらって立ち上げた朝日放送をここまで大きくして30周年というときに、新聞本社を離れて場所も大淀、フェスティバルホールとは競合しないところへ第二の朝日会館を建てようとした。話を面白くしすぎているかもしれませんが、もしかするとこういう風に見立てることができるのかもしれません。

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十河厳の音楽・藝術とのつき合い方は、最後にすべてが絵と文で美しい思い出に結実して、牧歌的にまとまっています。村山さんも、(1920年生まれで世代は十河、大澤、朝比奈などより一回り下ですが)断片的に漏れ伝わるエピソードから想像すると、ご本人は同じように素直に音楽を愛するお嬢様がそのまま大人になったような人なのでしょうし、原さん(大澤、朝比奈と同世代)にもそんな少年ぽいところがあったのではないでしょうか。気候が良くて、都会の雑踏から離れた阪神間に生活の足場を持っていると、そういうパーソナリティが形成されるし、今もそうした美しくのどかな生活を実践しつつ、朝日新聞をお読みになる方がいらっしゃるのであろうと思います。

村山さんの周囲で巨大プロジェクトが動いたり、原さんの年来の夢がバブリーな社長の道楽に見えてしまうのは、本人のせいというより、時代が変わってしまった結果であり、時代の変数と掛け合わせると、出力結果が十河厳の頃とは大きくかけ離れてしまっただけであったような気がしてきます。そしてそんな風に、およそ個人のパーソナリティや意向だけではハンドリングできない波及効果を生み出すのが、新聞・放送というマス・メディアのやっかいなところだと、ひとまず大雑把に言えるかもしれません。(ジャーナリスティックに「今」を追いかけ続けなければいけないという意味でも、社会の中核産業として人があつまり、その人脈が時代とともに入れ替わり、場合によっては、そうした人脈が、個人を容易に動けなくしてしまうように派閥化する可能性を孕むという意味でも。)

朝日会館の足跡を具体的に追いかけようとすると、どうしても戦争中の朝日新聞社の有り様、好戦的であったり、翼賛的であったりするイベントを「本社主催」としてやっていた事実と向き合わざるを得なくなります。それから時代が下ると、原さんの場合が典型的であるようにラジオ、テレビがリンクしてきます。民間放送局が新聞社資本で系列下されている日本の現状にどこかで触れることになってしまいそうです。新聞社が文化事業(やスポーツ事業)に自ら積極的であって、なおかつ、そうした事業を私企業の思惑としてでなく、パブリックなものとして演出するしくみがあって、それがラジオ、テレビ時代に引き継がれ、大規模化して、全盛期にはとてつもない額の収益をもたらしたりしていたのですよね。

(朝日放送社史は、昭和天皇崩御でテレビがCMを自粛した二日間のテレビ局の減収は総額で100億円に達した、と書いています。本当か?と思いつつ、本当だったらすごい話で、ちょっと想像できないお金が全盛期の放送局の周辺で回っていたようです。)

そして広告業とか興行マネジメント業とかが、実際にはこの構造を回していくプレイヤーに過ぎないのに、いつの間にか、自分たちがイベントの「主催者」であるかのように振る舞っているわけですが(私は、「呼び屋」さんが自分たちをコンサートの「主催者」と自称するのはおかしいと思っています)、そのような僭称は、実際の仕掛け人である新聞社等が陰に隠れて表に出ない(建前上出られない)ことと裏腹かもしれない気がしています。そんな構造が常態化しているから、ブルジョワ社長の文化パトロネージュとしてむしろ正統派かもしれない村山女史や原社長の個人の夢を押し出すやり方が、逆に目立ってしまうわけで……(私企業なんだから経営者が趣味を反映させた事業展開はアリなはずなのに……)。

朝日新聞社には、もう時効と言うことで、朝日会館の記録をまとめて公刊していただきたいのですが、まだ難しいのでしょうか……。ハイソなPR誌「会館芸術/Demos」(デザイン的に当時としては斬新で、古書市場ではコレクターの人気殺到入手困難なのだとか)を含めて、有効に活用していい会社の優良文化資源だと思うのですが。

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追記風に、最後にこぼれ話をひとつ。

フェスティバルホールの建て替えが発表されてしばらくした頃、当時まだ存命だった関西の大物マネージャー(といえばわかる人にはすぐに誰だかわかる)のN氏に関する噂話を耳にしました。N氏が建て替え後の新しい朝日のビルの設計図を見たところ、そこには、音楽ホールらしい空間がどこにもなかった、朝日はホール経営から手を引くつもりかとN氏が言っている、という、とても恐ろしい怪情報です。

ただし、この話を私が耳にしたときには、既にちゃんとオチがついていました。N氏が騒いでいるのを聞いて、朝日新聞が事実無根と猛然と抗議して、N氏は詫び状を一筆入れた。いらんことを言う困った人だ、という風にです。

もちろんフェスティバルホールは建て替えて再オープンすることになっています。2013年に向けて、すでに新しいウェブサイトもあります。

新ホール情報

新フェスティバルホール着工!

2008年末、惜しまれながら50年の歴史に幕を下ろしたフェスティバルホール。あれから1年。2010年1月9日、新しいフェスティバルホールが入る超高層ビル「中之島フェスティバルタワー」の起工式を行いました。2013年春の新しいフェスティバルホールのオープンに向け、最新情報をお届けします!

フェスティバルホール

でも、N氏の怪情報は、考えてみると結果的に、朝日が新しいホールを作ることを認める言質を取ることになっているんですよね。ホール再開が確定していなければ、朝日はN氏の言動に抗議できなかったはずですから……。この手の掟破りな言動ができる大物はもういないと思いますけれど、初代フェスティバルホールの閉館にも立ち会うことなく亡くなったN氏らしい置きみやげであったような気がしています。

(この危ないお話も、新ホール建設が確定・工事中となった今では時効ということでご容赦くださいませ。朝日新聞の周囲に、その独自の存在感ゆえの波乱が起こったりしていた時代へのオマージュということで。)