音楽の阪神間モダニズムの話題を二つ:その2 十河厳『あの花この花 朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』

十河厳という人の本、『あの花この花 朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』(1977年)について。

十河厳という名前を私が知ったのは、團伊玖磨と十河厳が昭和27年(「夕鶴」初演の年)の伊庭歌劇賞に決まったことを報じる『音楽之友』の小さな記事でした。しばらくして、彼が朝日会館の館長だったことがわかって、オペラに対する賞を初演したホールの館長に与えるのはどういうことだろう、と気になっていました。

その後も、色々なところで彼の名前を見かけました。戦後の朝日会館で色々な企画を仕掛けた人だったようです。

でも、朝日新聞の社員だったらしいのだけれども具体的な経歴や、そもそも生没年もわからなくて、そのままにしてしまっていました。

先日偶然、彼が朝日新聞社を退職した後、サントリー宣伝部に開高健の後任として入ったらしいことを知りまして、これはタダモノではなさそうだと改めて興味が涌き、著書を取り寄せてみたら、予想以上に素敵な本だったんです。

とりあえず、本の奥付にある著者略歴:

明治37年2月10日生 朝日新聞社会部記者 朝日会館館長 サントリー宣伝部嘱託 オリエンタルホテル顧問 二科会画家

著書 ジャワ旋風 ざら紙随筆 宣伝の秘密 名優雀右衛門女房おしかの一生

『ジャワ旋風』という著書がありますが、戦時中はジャワにいたことがあるようです。サントリー時代に書かれた『宣伝の秘密』という本も気になります。

『あの花この花』は、タイトルから朝日会館館長時代の回想録であろうと予想がつきますが、実物を手に取ってページをめくってみると……、巻頭は、「十河さんの似顔絵の本が出る」という題の小磯良平の文章でした。いつもスケッチブックを持っていて、会館を訪れた人の似顔絵を描くのが趣味だったのだそうです。この本は、そのなかから選んだ100枚に、その人物にちなむ文章を添える形になっていました。

ページをめくっていきますと小磯良平の肖像も出てきますし、竹中郁とは学生時代からの知り合いだったのだとか。
ということは兵庫二中=現兵庫高校だったのか、そうだとしたら小磯良平とも同級ということになりますね。あるいは当時は神戸市にあった関学で一緒だったのでしょうか。いずれにせよ、十河厳自身も神戸の人で、いわゆる神戸の文化人サークルに属する趣味人だったようです。神戸?ということは……と思っていると、案の定、竹中、小磯らと仲の良かった神戸の作曲家、大澤壽人の似顔絵も出てきます。(77年の本ですから、大澤の死後四半世紀あとの回想。この時期に大澤壽人に言及している文章は希少かもしれませんね。)

朝日会館を訪れた人たちを事務所でスケッチした、ということですから、音楽家、バレリーナ、俳優などが次から次へと登場します。

もちろん、「夕鶴」関係者も多数でてきます。初演でつうを歌った大谷洌子と原信子、与ひょうの柴田睦陸。それに、ぶどうの会による新劇の初演も朝日会館ですし、山本安英の肖像も入っています。

音楽ホールへ行くと来場者の写真やサインが飾ってあったりしますが、そうした写真の、いかにも「記録」という感じではなくて、手で描いたスケッチに文章が添えてあると、描かれた人と描いた十河氏が向き合って座っているその場に、見ているこちらも一緒に立ち会っているような気になってしまいますね。大澤壽人や山田耕筰、服部良一や笠置シヅ子、三浦環や藤原義江、土方輿志や村山知義、杉村春子や轟夕起子、クロイツァーやコルトーが、生身の人間として、このとき確かに朝日会館の舞台に立ったんだな、と。スケッチをしながら、この人たちとどういう会話をしたのだろう、と想像してしまいます。

そうして、ちょうどムソルグスキーの「展覧会の絵」であれこれ思いをめぐらせるプロムナードをはさみながら美術館を巡るように、ゆったりしたテンポでページをめくっていくと、出てきたのです、あの顔が!

収録されているのは戦後の朝日会館に迎えた人々ですから、朝比奈隆が描かれているのは、まあ当然。チェロの伊達三郎が登場するのも、関西交響楽団に参加した楽団員では別格の存在だったそうですから納得。武智鉄二も、眼光鋭い横顔で描かれています。そして武智の次のページは……オールバックに黒縁メガネ、大栗裕だったのです。しかも、穏やかに微笑む本当にいい表情で描いてくれているではないですか。十河厳さん、あなたはなんていい人なんだ! 大感激でございました。

カメラをもたせるとプロ級の腕前で、いつもバッグの中に大小2、3台のカメラの外に広角レンズや望遠レンズまでを用意しているので有名。レンズのように明るい性格なので、学生間でもすこぶる人気がある。

言葉による人物スケッチは朝日新聞記者の本職なわけですけれども、大栗裕の写真好きをこういう風にはっきり書いてくれている文章ははじめてです。「レンズのように明るい性格」という言葉も、ちょっと上品すぎる感じはありますけれども、どこかで引用したい印象的な形容です。

それぞれのスケッチには描かれた本人のサインが入っています。武智鉄二は、カッチリした楷書で「武智鐵二」と旧字体の署名。大栗裕の「Hiroshi Ohguri」は自筆譜で見馴れた書体。照れながら、チョコチョコっとサインしている姿が目に浮かぶようです。

表紙には、ヒゲ面で学ランを着崩して、ポケットに右手を突っ込んでいる似顔絵が載っています。たぶんこれが、十河厳の自画像なのでしょう。どの絵もさっと描いた感じの柔らかいタッチで淡い色調。現実の十河氏の詳細は今もってほとんどわからないのですが、この本は、お客さんたちを暖かく迎えていたのであろう感じにまとまっています。

以前、FM大阪の音楽番組が、大澤壽人のホームパーティ(新年会)のプライベート録音の一部を流してくれたことがありましたが、この本のおもてなしの感じには、同じ山の手の雰囲気があるなあ、と思います。

(以上、珍しく毒を吐かない作文をしてみました。)