解像度競争

胡弓や三味線や馬頭琴や琵琶、ギターやリュートとサイズを比べれば明らかですが、ヴァイオリンは指の押さえで弦のピッチを調整する楽器としては、人類史上限界に近いくらい小さい/小さすぎる楽器だと思います。ウクレレのようなフレットもないですし。あのサイズでフラジオレットのピッチを微調整するのは神業に近い。

ある時期まで、特に日本人ソリストの皆さんが、音を細く細く研ぎ澄まして、(同時に戦時中には軍事利用も画策されたらしい絶対音感を早期教育でみっちり仕込んで)いかにピッチ精度を高めるかというところへみんなでひしめき合っていた時代があったように思います。そしてワールドミュージック・ブームでジプシーとかクレズマーの音楽を面白がるようになったのは、そういうどこまでいってもキリのない性能競争への解毒効果があったように思います。今となっては、あのスペック競争は集団催眠にかかっていたとしか思えない。そんな過去の思い出ですね。

ピアノで、ペダルと倍音のトリックを駆使して、鍵盤上にどこまでたくさんの音像を盛り込むことができるか、というのも、同様に際限なく演奏家を追い込んでいく性能競争である可能性が高い。こちらは、ピアノという楽器が見た目も精密機械そのものですから、オーディオ性能のスペック競争とほぼ同然に、ピアニストをサイボーグ化してしまいそうです。

(単一の音響体で合奏音楽風の立体的な音像を作ろうとするのは、ピアノのような楽器の場合であれ、オーディオスピーカーのような再生装置の場合であれ、所詮は、2D平面に3D効果を現出させようとする視覚のイリュージョンと同じく、いわば聴覚上のトリックであって、その精度を競うのは狭い穴へ頭を突っ込むような作業にならざるを得なず、テクノロジーの自己目的化に限りなく近づいていくと思います。)

私は、そういうのは、ああやってるなあと思いますし、トリックの一通りは学んでなるほどなあと感心もしますが、ある水準以上を追いかけるほどには夢中になれなくて……、

オーディオ・マニアやパソコン・マニアにも、よく似たスペック競争、性能競争に血眼を上げるジャンルがあるようですが、それは、やってる当人がほとんどビョーキ、いわばリピドーの集中投下(オタクですね)であることを自覚してホビーとしてやっているから、人間としてバランスを保っているのだろうと思っています。

音楽芸術の名の下にそれをやると、逃げ場がなくなって、ちょっと息苦しすぎるのではないかと、私は個人的に思うのですが、本日、リサイタルを開いた中野慶理さんは、「はいここまで」とスイッチを切って、虎の穴の外へ出る呼吸のようなものを会得されたようで、そこが凄いなあと思いました。

お客さんのほうにも、そういう「オタク・スイッチ」のオン/オフの呼吸がなんとなく伝わるようで、スクリャービンの神秘主義の音楽なのに、演奏がふっと終わったところで客席から笑い声が漏れていました。「ようやるわ」という風に。いい感じの演奏会でした。