いろいろまぜっかえすようですが

いやいや大久保さん、分析は科学というより料理、というならば、サプライズ重要、うやうやしく運ばれてきた料理のフタを開けた瞬間に、色と香りがパッと広がり、「まあ素敵」と奥様方の驚きの声。そういう演出・プレゼンテーションのレトリックが、分析ではかなりポイント高いのではないでしょうか? 院生時代の岡田暁生、伊東信宏、両氏はそういうのが本当に上手でした。

クレメンス・キューンの本も、ソナタ形式のサンプルがベートーヴェンのト長調op.14-2のソナタであったりして、食材の選び方に遊び心がある。大人が読んでも刺激を受けるエレガントなセンスをあちこちに感じさせる本になっていたように思います。お子様ランチ風ではないシェフの感じがするのは、そのせいじゃないでしょうか。(今の日本ではコンチネンタルよりチャールズ・ローゼンとかアングロ・サクソン系のほうが受けるようなので、日本語にして読まれるか、は不明ですが。)

私の趣味で言うと、ベートーヴェンを19世紀初頭の作曲学というより20世紀の似非科学的な術語であるところの動機労作で調理するのは、ちょっと退屈。先日も、「エロイカ」はオーケストレーションが面白い、という話を音楽史の授業でやったところでした。

(キューンの本がop.14-2を取り上げているのも、古典派のソナタは主題の展開よりも調・和声の設計に重点があったことをデモンストレーションするためだったはずですし……。)

ハイドンがシンフォニーで主題(=音の食材)を「調理」(当時は「詳述ausfuehren」と呼ばれていた)する手練手管は、要するに一発勝負の演説・弁論術ですから、楽譜なしで、耳で順番に聴いて彼の掌の上で転がされるのが一番楽しいし(ブルータスの熱弁を喝采したローマ市民が、その直後にはあっさりアンソニーの扇動に乗せられるとか、1790年代ロンドンのシンフォニー・ブームとは、そういうシェークスピアのお芝居に出てくるような音の立会演説合戦であったような気がします)、「運命」も、どちらかというとベートーヴェンのなかではわかりやすい、「公衆向け」のちょっとハッタリ気味の荒技(爛熟した貴族の趣味に背を向けて)だったのではないでしょうか(だから同時代の若手作家に異常に受けた、ベートーヴェンに永遠の憧憬を幻視したロマンチストたちは、ブルータスを殺せ、と芸術革命の狼煙を上げた、というように)。マホガニーの書斎に棲息するブルジョワ学者風に楽譜を天眼鏡で精査して、動機の彫琢ぶりを玩味するのは、ブラームスまで温存することにしております。(C. Kuehnの第1交響曲終楽章の気が狂いそうに精密な分析は、そんな文脈でなされていた記憶があります。)

一方で、こんな風に自宅に引き籠もって「読む」音楽、音楽における読書文化(劇場とは別のもうひとつの公共性?)の源流は同じベートーヴェンでもピアノソナタのほうであって、言い換えれば、なるほど20世紀に整備された形式学(実はあれば、楽曲分析と似ているようで発想が違う類型学であって、料理で云えば、食材を鮮やかに裁いて食べられるようにしているのではなく、食材を栄養素の組み合わせに還元する似非科学のような気がします、キューンが自著をForm in der MusikとしてFormenlehreとしなかったのはだから重要)に照らすと、交響曲とピアノソナタが同じソナタ形式に分類されてしまうけれど、両者はジャンルとして全然別物だったのではないかと私は最近ますます思うようになっています。

(ドイツ・ロマン派文学が中世騎士物語に近代の自意識を混ぜ合わせるように、フーガと動機労作が融合する、とかいうのは自室にこもってメランコリックにファンタジアに遊ぶピアノ曲の発想。料理にたとえれば、会食のフルコースと、家族の食卓では求められる調理法が違っていたはずだと思うのです。たしかにベートーヴェンは、オーケストラでファンタジアをやったりして、そのようなTPOをぐしゃぐしゃにしますけれども、そのぐしゃぐしゃぶりを知るためにもTPOを踏まえるのが大事で、分析にはTPOが必要というお話なのだとしたら、益々、ベートーヴェンをソナタ形式や動機労作だけで語るのは不充分ということになる。そしてその関連で、それじゃあ晩年の室内楽、ベートーヴェンのカルテットが演奏された「ウィーンのホテル」とされる場所がどういう空間で、どんな人がどういう風に活用する建物だったのかも気になるところです。)

話が変わって日本の詩歌の、五・七・五とか三十一文字の、文字数(音節数?)をそろえるところに「型/形」を見出す文化は、「七五調は4拍子だ」(松下眞一も、最近では吉松隆さんもそんなことを言っていた)という俗説(近代人の無邪気なバイアス)を呼び寄せてしまうような、発話を耳で感知することが期待される「リズム」なのか、前からずっと気になっています。

五言絶句や七言律詩の、見た目にも漢字が長方形に美しく並んでしまう漢詩文(漢訳仏経典でも、韻文に相当する偈は五言・七言に整えられている)が、もちろん平仄とかがあるので中国では音声と見た目が連関していたのでしょうけれど、日本に入って換骨奪胎されて、日本流の表意文字と表音文字の間に「詩」を生成させる韻文観を形成した、というようなことはないのでしょうか。

事実、和讃声明も、地歌の組歌も、御詠歌も、七五調/五七調を耳で感知できる「リズム」として整えるような朗唱とは限らないようです。(そこが面白い味になるみたいです。)

前の記事にもちょっと書いた御詠歌(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100918/p1)は、耳で聴いているだけだと、まるでノートルダム楽派オルガヌムの延々と引き延ばされた定旋律のように、(あるいはブルックナーの緩徐楽章が長くゆっくりすぎて五部形式を到底トレースできないように、)時間感覚が失調して、どこまで進んで、この先どれくらい続くのか、わからなくなります。唱えている当人の内側で三十一文字に分節・形式化されているはずの時間意識と、外側から聞いたときの茫漠とした印象とのギャップが、音楽としてのポイントであるような気がします。

(そして能は、様々なノリを組み合わせることで、ある瞬間には観客とシンクロして、別の瞬間には独自の時間へトリップして、というように時間を制御していると見えるのですが、これは門外漢のトンデモな見立てでしょうか。)

一般化して言えば、複数の時間意識のギャップに芸術や信仰を定位する技法が、西洋近代音楽の拍子と和声リズムによる時間制御の技法以外にも当然色々あって、ブルックナーのような人は、オーストリア人だけれどもワーグナー経由で奇妙な時空の歪みにはまりこんでいる(C. Kuehnの本では、同じような視点からシューベルトの弦楽五重奏曲第二楽章を論じていたはず、あれはシューベルト/ブルックナーを同じ流派だと見る学説を踏まえたポスト・ヒッピー世代の暗黙のブルックナー論だと思います)。通俗的にいえば、呪術的な、「あちらの世界」へトリップする音楽の技法が世の中にはある、ということでしょうか。(一歩踏み外すと「呪術」は底なし沼で危険、と自覚はしておりますが。)

江戸俳諧の、同時代的には連歌師と呼ばれていたらしい人々の軽みとか、近代「俳句」(←この「俳句」という言い方は実は結構新しい、と何かで読んだ気がします)の花鳥風月は、そういうのを見据えたときにどういうポジションになるのか。西洋音楽をグレゴリオ聖歌から考えるのが常道なのだとしたら、日本の詩歌は仏教伝来や万葉仮名から考えないと仕方がないのではなかろうか、と思ったりもしております。

時代をキャッチアップしつづけるほど若くない中年のオッサン期というのは、そういう気の長い話に首をつっこんでもいい時期なのではないかと。

宣伝:松下眞一東京公演のプログラムにも寄稿しました。演奏会のプログラムや枠組みも違っているので、京都のときとは違う文章にしました。

http://ooipiano.exblog.jp/15145179