[11/23 岡田暁生の新刊の感想を真ん中あたりに簡単に追記しました。←12/1 この部分をさらに書き足しています。]
木村吉宏さんが出演して大栗裕を語るNHK-FMの番組、録音できていたのでようやく聴くことができたり、大阪センチュリーを語る鼎談に参加させていただいた『音楽の友』11月号が自宅へ届いていたり、それぞれ色々書きたいことがあるのですが、ひとまず今日聴いた演奏会について。
山下洋輔を迎えた一柳慧のピアノ協奏曲第4番「JAZZ」。
先日のNHK「ラジオ歌謡」の番組は三善晃にコメントを取りに行っていましたが、一柳慧も同じ1933年生まれなのですね。
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「JAZZ」は横浜開港150年記念の委嘱作として去年書かれたそうですが、ジャズといっても第1楽章はラグタイムやガーシュイン、第2楽章もせいぜいシンフォニック・ジャズ。33年生まれの74歳だから、ジャズはこのあたりまでの感じなのか、と変に納得してしまいました。
1936年生まれで学習院〜東大の蓮實重彦が日劇のJ.A.T.P.のジーン・クルーパーの思い出を書いたりするのと似た世代感覚なのだろうか、と思ったりして……。
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でも、それ以上にはっとしたのは、プログラムの片山杜秀さんの解説の情報。一柳慧は神戸出身。父、一柳信二は大澤壽人の親友だったチェリストで、一柳慧はピアノを原智恵子に習っていたのだとか。それは凄い話。
ウィキペディアによると、一柳慧は東京で平尾貴四男、池内友次郎に学んだ青山学院高校時代から毎日コンクールに入賞していたそうですが、早熟ぶりは神戸時代に遡って考えた方がいいことなのかもしれませんね。
で、渡米してジュリアードに入ったのは1954年。片山さんは指摘していませんが、大澤壽人が亡くなった翌年ではないですか。日本の再独立で音楽家が次々渡航していた時期に、若干21歳の一柳慧は颯爽と渡米したのですね。
岩尾良治(大阪音大卒で初期の関西歌劇団にも加わっていた朝日放送音楽プロデューサー)が追悼文で紹介していた晩年の大澤壽人の言葉、「もう一度外国へ行って、もっともっと勉強したい」と言っていたとの証言を思い出してしまいました。
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一柳慧の渡米後の活躍はあまりにも有名ですが、
「1954年」という年号を見て、もし大澤壽人が急逝することなく、一柳慧と同時期のニューヨークへ行ったとしたら、いったい何に注目しただろうか、と想像してしまったのです。
若かりし頃の室内楽でいち早く微分音を試みたモダニスト大澤壽人のことだから、
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一柳慧のようにジョン・ケージに関心を持って近づいたかもしれず、だとしたら、戦後アメリカの実験音楽をたくさん仕入れて帰国して、一柳慧が帰国した1961年より遥かに早く(松下眞一が楽壇に登場した1959年よりも早く)偶然性や「4'33"」のパフォーマンスをやっていたかも……。もしそんなことになっていたら、黛敏郎から仕入れた電子音楽をフィーチャーするアンフォルメル演劇で福田恒存を怒らせた武智鉄二は面白がって大澤壽人と一緒に何かやっていたことでしょうし、関西が「実験音楽」のメッカになっていたかもしれない……。
で、東京の人は、大阪に先を越されると無視する傾向があったようなので(苦笑)、20世紀音楽研究所のようなものは東京では一向に盛り上がらず、音楽シーンは全然違っていたかもしれません。(吉田秀和が、團伊玖磨と一緒になって「ジョン・ケージの音楽は貧しい」とうそぶき、フランス・アカデミズムを礼讃しつつ黛敏郎を持ち上げて、東京はメシアンやブーレーズ一辺倒で、どこにも武満徹が出てくる余地などない場所になっていたかもしれませんよ。だって、そうでもしないと、二度目の洋行でパワーアップした大澤壽人に対抗できないでしょうから。)
……というのは、すべてまったくの妄想・空想ですが、
その一柳慧が73歳で、オノ・ヨーコやジョン・ケージに出会う以前の、神戸や青学にいた10代の音楽環境に逆戻りしたようなスコアを2009年に書くのですから、世の中わからないものだなあ、と思います。
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思うに、偶然性とか電子音楽・テープ音楽とかといった1950年代以後の従来の西洋芸術音楽の底を抜いてしまうようなアイデア群は、無責任に面白がった人の勝ち(山下洋輔のフリージャズとか)。人類の使命・未来へ向けた音楽家の試練みたいな受け止め方をした人たちは、根本のところで波に乗り損ねているのではないでしょうか。(シュトックハウゼンがああいう風になってしまうのは仕方がないのだろうけれども、それは「彼の場合」であって、みんながシュトックハウゼンにならねばならないわけではない。)
サイコロ振ったり、テープを切り貼りするのは技術・テクノロジーであって、技術・テクノロジーは、人間様の都合など関係なく発見されたり、更新されたりしてしまうものなのに、そこに「精神文明の危機」とか、「敗戦後の虚無」とかを重ね合わせて、「意味」(人間的な)をつけようとするからおかしなことになる。
売春婦の乾いた空虚な生活は電子音だ(「赤線地帯」の黛敏郎)というのは、映像に合っているかどうか、みたいな作品論以前に、考え落ちなところが「ツマラナイ」と思います。
余談ですが、その種の「文明の危機」を第一次大戦に遡って告発しようと最近躍起になっているのが岡田暁生。でも、19世紀が紳士淑女の時代で20世紀はカジュアルな大衆社会になったことは大層なこと言われなくてもみんな知ってるし、それが気に入らず、世間の動向にノレないんだったら、勝手に横向いて好きなことやればいいわけでしょう。リヒァルト・シュトラウスや別宮貞雄みたいに。
[11/23 追記]「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後 (レクチャー第一次世界大戦を考える)
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著者の書く話がどんどん「金太郎飴」化しているので、こちらの感想も繰り返しが多くなってしまいますが、本の感想は以下の通り。(1) 第一次世界大戦がクラシック音楽の「終わりの始まり」であると著者は書きますが、それから百年経っても、クラシック音楽はいっこうになくなってはいませんよね。これはどういうことなのでしょうか?
彼が第一次大戦による変化として列挙する特徴のうち、すくなくとも「レコードの一般化」と「音楽の政治化」(←実際に言われている内容は、国家による音楽の保護や指導の諸政策)は、クラシック音楽の「死」よりも「延命」に役立ったと見るほうが妥当ではないでしょうか?
しかも、著者の父・岡田節人さんは無類のレコード・コレクターであり、著者は、京都大学の音楽学教員として国から報酬を得る音楽のテクノクラートです。著者自身が思いっきり第一次世界大戦後の「20世紀」の恩恵を被っているではないですか。なんとまあ恩知らずな言い草であることか(笑)。そんなこと言ったら、ワガママ放題のアケオちゃんを、なんとか他人様から後ろ指されないまでに育てたパパとママが泣きますよ。
上半身(口先)では、「クラシック音楽がなくなるぞ、なくなるぞ」と危機感を煽りながら、下半身(生活)で、万全の延命策を確保している姿は滑稽です。
第一次大戦を「文化浄化」の好機である、とはしゃいでしまった当時の文化人たち(←そういう事実があったことは本書でも指摘されている)は、「この戦争はすぐに終わる」と言うのが口癖だったようです。戦況が泥沼化しても、「○○がこう言っていたから、半年以内に終戦だ」とか性懲りもなく言い続けていたのだとか。
「クラシック音楽は亡びるぞ、亡びるぞ」と言い続けるのは、この種のサロン文化人の口ぶりにほぼ等しい。病的な反復強迫。ご自愛申し上げます。
1960年生まれの当年50歳は、まともな研究者だったらまさに「働き盛り」。「私に残されているであろう研究者としての人生はあまりに短い」とまるで老大家のようなことを「あとがき」に書かれても、勉強不足への単なる言い訳としか思えません。みっともないです。
(本当にこの研究課題が重要なもので、なおかつ、あなたの寿命を上回る時間と労力を要するのであれば、あなたが死んでもあとを誰かが引き継いで目標が完遂できるようなプランを作って臨めばいいだけのことでしょう。作曲家全集にしても何にしても、音楽学の重要なプロジェクトは普通そういう風にして運営されるものではないかと思うし、他でもなく京大人文研は、人文科学の本格的な共同研究の場として桑原武夫がはじめたものではなかったのでしょうか? 個人の寿命と成算なんて、学問として話がみみっち過ぎるように思うのですが。)
(2) 以下、第1〜3章の気になったところをピックアップしました。全体として、意図的な誇張と思いこみ・認識不足がないまぜになり、「19世紀の西欧芸術音楽がいかにすばらしかったか」、「20世紀=第一次世界大戦後の変化がいかに根本的であったか」という主張が強調されすぎていると判断せざるを得ません。
- クラシック音楽を支えてきた教養市民は戦争において「最も居場所がなかったはずである」(p.11) → エクスタインズの第一次大戦論を本当にちゃんと読んだのであれば、「暴力に対する知識人の無力」というクリシェを口にできるはずはないのですが? そもそも、伝統的に軍の将校は教養市民が占めており、第一次大戦においてもそうだったはずです。そして教養市民は戦争を「文化の浄化」の好機として歓迎しました。教養市民は「無力だった」のではなく、やる気満々で戦争をおっぱじめたのに、やってみたら、近代戦の現場が彼らのイメージする「英雄の名誉」などで制御できるものではなくなっていて茫然自失。教養市民に「居場所」はあった、彼ら固有の役回りが存在しました。その役割とは、「ここがオレの居場所だと勝手に思いこむ」というボケ役だったわけです。(ちょうど、著者の岡田暁生氏の今の立ち位置がそうであるように、とは言いませんが(笑)。)
- 「[レコードの登場で]音楽が、いまや台所でも聴けるようになった」(p.26) → 第一次大戦後の蓄音機がそこまで日常化していたとは到底思えない。第二次大戦後のラジカセと故意に混同して議論を歪めている。また、「あまり音楽的教養のない人たち」は本当に即座に蓄音機に飛びついたのか。むしろ軽音楽の主流は、ダンスホール、映画などとの複合現象だったのではないか。20世紀に新しい「晴れ舞台」が出現していることに目を閉ざし、あたかも20世紀は音楽がドメスティックな家事の一種と化したかのような作為を感じる記述です。
- クロール・オペラの実験的舞台(p.32) → クレンペラーの活躍とともに伝説化していますが、私が調べたかぎりでは、クロール劇場にどの程度「アヴァンギャルド成分」が含まれていたのか、全体像がいまひとつよくわからず、伝説化による誇張がありそうな感触があります。
- ソ連当局による亡命作曲家たちの印税没収(p.35) → 音楽著作権の国際徴収システムが当時どれくらい整備されていたのか。印税没収によるラフマニノフやストラヴィンスキーの損失を、「本来ならそれだけで一生暮らしていけたであろう」ほどの金額と本当に算定できるのでしょうか? そこには反共陣営のプロパガンダ的誇張がありはしないか?
- 「春の祭典」初演のスキャンダル(p.47) → オリエンタルでエロチックな出し物などで話題だったバレエ・リュスのスキャンダルは、騒動を起こすのも仕掛けのうちという一面があり、無調路線へ特攻隊のように突撃していくクソマジメなシェーンベルクやベルクと同列には扱えないのではないか。著者の記述は、芸術家の受難、聴衆の無理解を過度に強調して理解を歪める。([以下、追記11/27]また、「春の祭典」初演をめぐるここでの岡田暁生の書きぶりは、序文でモードリス・エクスタインズ『春の祭典』に言及しているにもかかわらず、当然のことながらエクスタインズの周到な記述にはとうてい及ばないおそまつなものと言わざるをえません。エクスタインズは、初演目撃者の様々な証言を引用した上で、その相互の食い違いから「真相はよくわからない」と距離を保ち、公演を準備するバレエ・リュス関係者の「陰謀をたくらむような雰囲気」を指摘したうえで、一連の騒動を「成功としてのスキャンダル」の小見出しのもとで総括しています。こうした書き方は、ハルサイ初演の騒動が(少なくとも主催者にとっては)「してやったり」であった事情を著者が示唆していると読むべきでしょう。芸術家の受難、20世紀は創造行為が無理解に直面する不幸の時代である、と一方的な悲観論に染め上げる岡田暁生より、この見方のほうがよほど生産的だと私は考えます。)
- 西洋音楽は打楽器を使わない点が世界的にみても異例(p.53) → 三曲合奏とか、打ち物のない音曲は他の文化にもあるのでは? それに、西洋の王家の軍楽、19世紀の近代軍の標準装備だった軍楽隊は「西洋音楽」ではないのでしょうか? 室内で上演される芸術ジャンルで打楽器を節約するのは西欧特有のことではないし、著者がここで指摘しているのは、打楽器をもっぱら屋外の軍楽で使う、という棲み分け・線引きルールが20世紀に侵犯されるようになった、ということに過ぎないように思われます。この案件に「西洋音楽特殊論」をもちだす必要は認め難い。
- 音楽の数的秩序(p.58) → 音程を数比で制御する理論は東洋にもあるし、西洋には東方から入ってきた可能性が高いのでは? こんな風に「西洋音楽特殊論」に固執するのは、著者の勉強不足と思う。
- 第一次大戦後の大作曲家たちの創作力の衰え(p.72-78) → 作曲家が実際に曲を書かなくなった事例、実際には旺盛に書いて生前は一定の評価を得ていたのが死後忘れられた事例、曲を書いても時流を外れたものになってしまっている事例、など様々なケースをあまりにも強引にごっちゃにしている。この議論はいくらなんでも無茶で読むに耐えない。
[追記おわり]
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鎖国を開いて近代化をはじめるときに日本がヨーロッパから色々お世話になったのはわかりますが、いつまでもヨーロッパのほうを向いて一喜一憂して、「人類の問題」視して、他人を巻き込むのは止めていただきたい。ヨーロッパのブルジョワのお家騒動に過ぎない案件と、世界史の推移とを冷静に切り分けるのが学者の仕事。そこを(書き手個人の不透明なトラウマ込みで)ごっちゃにされると、話がわからなくなってしまいます。
閑話休題。吉田秀和の社会調査レポートみたいな20世紀音楽論は、正しいかもしれないけれど面白くないし、そんな枠に囲い込まれてしまったことが「戦後の音楽」の不幸だったのではないか。電子音楽で言えば、シリアス系に特化している『日本の電子音楽』はどうにも窮屈な感じがして、ジャンル横断的に、ほとんど無方向・無責任にみんなが色んなことをやっていた様子を教えてくれる『電子音楽イン・ジャパン』のほうが刺激的だと私は思います。(資料としてはどちらの本も優劣つけられない好著なのはもちろんですが。)
[追記]
思わぬ箇所がtwitterにピックアップされたようで、正直ちょっと「恐い」ので大急ぎで補足しますが、
狭義の電子音楽というのでしょうか、実験系の試みは、大仕掛けで技術的な苦労が色々もあって手間暇かかっているに違いないし、意気に感じることのできる仕事であろうとは思うのですが、その凄さが部外者にわかりづらく、出口のない怨念の温床になりそうな気がしてしまうのですが、そういうことでもないのでしょうか。
こらえ性のない私は、手間と結果のギャップというか報われなさに耐えられそうもなく、「トホホ感」というか「ユーモア」に解消するくらいしか思いつかないところがあるのですけれども。
そうではなくて、何事にも希望はあって、艱難辛苦の末に解脱する可能性があるのだ、ということであれば、私の意見はモノの本質に到達する可能性のない救いようのないバカということで打ち捨てていただければ幸いかと存じます。
大栗裕の大雑把なオーケストレーションを面白がっている時点で、白石知雄が精妙な音響を生成する複雑な計算につきあう耳と脳の精度を有しないバカなのは自明であろうかと思いますので。
でも、一連の実験は、どのようにインプットを工夫したとしてもスピーカーからアウトプットするという出口の制約をどうにかしない限り、窮屈なものであり続けるしかなかったのではないかと、コンサートや舞台が好きな私はどうしても思ってしまうのです。商業音楽であれば作った音が流通するコンテクストをあれこれ工夫できるけれども(たとえばハモンド・オルガンの音色やオーケストラ・ヒットの発見だけで色々と遊べたりとか)、純粋な実験ということになると、そういう道も閉ざされてしまいそうなので……。
[追記おわり]
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で、一柳慧は、60年代に、そういう風に真顔で「対策会議」の議案のような作品を書くシーリアス音楽の人たちを横目に見ながら、横尾忠則などと楽しくやっているように見えたから支持されたのだと思いますし、「神戸〜青学〜ニューヨーク」という経歴も、いかにもコスモポリタンの資質十分な感じがします。でも、2009年の「JAZZ」を聴くと、やっぱりあれは「役割」だったのかなあ、という気もしてくるんですよね。あるいは、一柳慧ですら楽しく遊べないような窮屈な事情が東京にあったということなのか……。
いずれにしても、片山杜秀さんの情報提供を手掛かりにすると、一柳慧が「二代目大澤壽人」に思えてきて、そういう風に見立てると、自由に発想を広げて考えることができそうな気がして、勝手に盛り上がっているのです。
(以前に、ある先生と雑談していて、クラシック音楽に邦楽風の「名跡」制度を採り入れると面白いのではないか、という話で盛り上がったことがあります。
たとえば、「バーンスタイン一門」のなかには、師匠の恩を強く感じつつ自分は自分の名前で行くと思っている人もいれば、「あなた、二代目襲名を露骨に狙ってるでしょう!」という感じの人もいる(敢えて名指しはしませんが)とか……。それじゃあ、「二代目朝比奈隆」は誰なんだろう、とか。やっぱり「安川加寿子」の名前を継ぎたい人もいるのだろうか、とか。
まあ、無責任な放言ですが。でも、お金持ち社会には財産の「相続」がつきもので、「代替わり」とかいう一見旧弊な観念は、実は大阪よりも、一見インターナショナルでコスモポリタンなイメージのある神戸や「阪神間」のほうにリアルに生きている気がするんですよね。「阪神間」では、「あの人はどこに住んでいるどういう素性の人だ」という人脈データベースが日常的に稼働しているようなのです。)
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さて、そして、それとは別の話ですが、先般亡くなった小石忠男さんは、1929年芦屋生まれで、もともと1952年に開局した神戸の放送局、ラジオ関西(開局当時はラジオ神戸)の音楽プロデューサーでした。
先日、そのラジオ神戸開局当時のアナウンサーさんの証言を発見。
ラジオ神戸でわたしの印象に残っているのは、アナウンサールームよりもレコード室の方やわねぇ。レコード室には藤田光彦さん、同じく音楽評論家の小石忠雄さん、それから末広光男さんとわたしの四人がいつも入り浸ってました(笑)。藤田さんはクラシックがご専門だけど、四方山話がお好きだったわ。小石さんは真面目で口数の少ない方でした。
【ラジオ深夜放送の時代(3)】ラジオ関西「電話リクエスト」編③|大阪天満宮表参道<祭屋梅の助>のぼてふり日記
小石さんは、関響に設立演奏会から立ち会っていらっしゃったコンサート通いの人であると同時にレコード、オーディオの人で、音にうるさく晩年までDATを愛用していらっしゃったようですし、その感じがよくわかる描写だと思いました。
それに、「電リク」とクラシック番組が売りだったラジオ神戸の音楽評論家、藤田光彦さんは芦屋の「男爵」、本物の華族様です(井上靖「黒い蝶」には彼をモデルにしたと思しき登場人物も出てくるようです)。ラジオ神戸は「阪神間」の雰囲気をもった放送局だったのかなあ、と思ってしまいます。
あと、上のリンク先記事の小山さんも、当時のジャズ・ブーム、北野劇場のJ.A.T.P.公演に言及していらっしゃいます。(http://ameblo.jp/maturiya-umenosuke/entry-10346666506.html#main)
開局当時のラジオ神戸の雰囲気を考え合わせると、73歳の一柳慧がどうして「JAZZ」で、しかもああいうスタイルなのか、一柳慧と大澤壽人をつなぐ水脈がくっきり見えてくるような気がします。物静かだったという小石さんまでもがカッチョよく思えてきますし。(1949年生まれの村上春樹がまだ物心ついたばかりの頃のお話です。)
関西の洋楽をめぐる因縁は、まだあちこちに色々ありそうですね。