岩井直溥の語り下ろし自伝(ついでにちょっとだけ、レコード歌謡つながりで、輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』)

別のことを調べていて、偶然見つけた岩井直溥さんの語り下ろし自伝。(そういえば昔、岩井直溥指揮・編曲の吹奏楽ポップスをナマで聴いたのは、今はなき大阪府音楽団のコンサートでした。)

http://www.bandpower.net/soundpark/02_iwai_story/iwai_index.htm

申し訳ないことに「Band People」が休刊したことすら知らなかったのですが、後継ウェブマガジンBand Powerで2008〜2009年に順次公開されたものみたいです。

上海時代のお兄さん、岩井貞雄のシロフォン奏者としての活躍の話(のちに上海交響楽団で朝比奈隆とも共演したのだとか)からはじまって、東京音楽学校では戦争中なのに橋本国彦からジャズ和声を教わって(岩井直溥は片山杜秀がしばしば言及する話題の生き証人の一人ということですね)、戦後は進駐軍将校クラブバンドからアーニー・パイル劇場、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、弘田三枝子……というように、戦後のジャズ・洋楽史の重要な名前が次々でてきて、吹奏楽をやった者なら誰もが知っているニュー・サウンズ・イン・ブラスの前にこういう歴史があったのかと、驚きました。

進駐軍の将校クラブから紙恭輔のシンフォニック・ジャズを経てコミック・バンドというのは、ポピュラー音楽としてのジャズの王道ですよね。

岩井直溥がメイン・アレンジャーだったヤマハのニュー・サウンズ・イン・ブラスという吹奏楽ポップスのシリーズは、ちょっと背伸びしたい中高生向けで、そのうち本物のジャズやロックやフュージョンにアクセスするようになって自然に卒業するもの、というイメージですが(ブラバンよりもジャコパスやチック・コリアのオリジナルに夢中になる、という形で)、その匙加減も意識的だったようで。

ディズニー・メドレーのティンパニではじまるオープニングはアーニー・パイル劇場のレビュー、「飾りのついた四輪馬車」のスライド・ホイッスルはシティ・スリッカーズと考えると(私の吹奏楽の知識は80年代半ばで止まっているので、古めの曲ですみません)、岩井直溥のアレンジは昭和のジャズ(ビバップが入ってくる前)の生き証人なのかもしれませんね。

そういえば、序論で小林信彦にも言及しながら「レコード歌謡としての演歌」に流れ込んでいる諸々を整理する新書が出ましたが、個々の情報はすごく面白いのに、書物を成立させる背骨が「カルスタ」なのは、ちょっと残念。

(「カルスタ」であることはタイトルから明らかなので、ストーリーの本筋以外のところで面白いところを見つければいい本なのだろうと、事前に心の準備ができて助かったとも言えますが、「レコード歌謡」の雑種性(岩井直溥も東芝専属時代にそこにどっぷり浸かっていた)が、「日本の心」は創出された伝統である、というこの書物の論旨を飲みこんで圧倒している印象をもちました。美空ひばりや都はるみ(本書で前者は笠置シヅ子の大人びて上手すぎる物真似からスタートし、後者は弘田三枝子の歌唱から唸りを学んだとされている)が「日本の心」に回収しきれなさそうだという主張はなるほどその見方のほうが有望だろうと直観的に思いますが、竹中労や五木寛之を考えるときに、「カルスタ」的言説批判は問題のとっかかりでしかないと思われ、この先の見通しがあるのかどうか、そこが気になります。

あと、「○○をただちに連想させる」とか「××を強く印象づける」といった語法で難所を乗り切ろうとしている箇所があるのが気になりました。「ただちに」であろうが「じんわり」であろうが、強かろうが弱かろうが、書き手の未だ十分に論証されていない印象を読者に押しつけられては、読むほうが迷惑する。そんなやり方で歯切れの良さを演出するのは邪道だと思います。この種の、書き手のワガママを読者に強要する論法は、増田聡や岡田暁生の得意技ですが、あんなものをマネしてはいけない、と少なくとも私は信じます。(「強く」も「弱く」もなく、単に、信じます。)

竹中労の美空ひばり論に事実の歪曲がある、という指摘が「神話創出」の現場を押さえる決定的な箇所のひとつになっていて、この箇所は著者の口調も高ぶっていますが、「(竹中が下敷きにした文書を)素直に読めばこうなる」というだけでは弱いのではないでしょうか。たとえば共産党訪問団が実際に何を訪問先で歌ったのか、第三の文書や記録の傍証を求る等の手順がなければ、おそらく「公判」を維持するのは難しい。そういう証拠固めがあれば、研究にも広がりが出て一挙両得のはず。学問には、衝撃の映像を使ったプレゼンでシロウト裁判員を説得すればオッケーな最近の人民裁判とは違うロジックがあるはずだと思うのですが……。

(こういうとき、増田聡だったら、「これからは学問もコモンセンスに訴えるべきだ」とか言うのでしょうが、文化研究は、ひとまずコモンセンスに訴えて支持を得たはずの主張を再検討した場合の混乱や不一致を問題にしているはずで、コモンセンスのレヴェルで判断不能だったら、歴史的な事実の検証など別次元のロジックを呼び出すしかない。輪島さんがマスダと同類だ、というわけではないですし、紙数の関係で簡略に書き、実際には事実関係を調べてあるのかもしれないですが……。[補足:傍証は調べてあり、うたごえ運動で「越後獅子」と言えば美空ひばりではなく、それ以前から知られているアレという風に認識されていたようです。→ http://twitter.com/yskwjm/status/6653214506094592 ]

本の「あとがき」に増田聡の紹介でこの新書が実現した、などと書いてあるので、どうしても党派性を警戒しながら読んでしまったのです。ややこしい人間と関わり合いになっているのだなあ、せっかくの面白いテーマが、変なところでねじ曲げられなければいいのだけれど、と思いながら。))

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

この本からは離れますけれども、小林信彦に大衆文化論で触れるんだったら、やっぱり正々堂々とやってほしい。ドリフターズに至るジャズメンのコミック・バンドにアプローチする骨太のポピュラー音楽研究が、そろそろ出てきてもいいのでは、と思ったりもします。

(相手が生真面目な場合や、「テレビ的」に媒介されたいわゆる「嗤い」は、反撃を食わない対岸から言説史やメディア論で器用に議論をひっくりかえす手品が成立しますが、ライブ主体のジャズの笑いを当世のポピュラー音楽研究がどう処理するのか、できるのか、是非、知りたいです。

喜劇の芝居は悲劇より格段に難しいといいますが、「泣き」の入った人の言葉の矛盾を突くことはこちらが冷静になれば可能だけれども(要するに、研究対象を「ボケ」扱いしてツッコミを入れるという手法、渡辺裕の手法も形式的にはその一種と思う)、「笑い」の構造(=研究対象自体にボケとツッコミが既に装填されている場合)は、冷静に解析したって、対象をナゾるばかりでちっとも可笑しくないですから。←あるいは、「笑いの分析はつまらない」という抑圧的な常識が実は近代の「創られた伝統」であったりしたら、それはそれで面白いかもしれませんが。『創られた「日本の風刺」神話 - 「お笑い」をめぐる戦後大衆娯楽史』とか。

このタイトルのパターンは何でもかんでも代入することができてしまいそうで、それは、むしろよくないことであるように思います。(しかも、一見多様なようでいながら、このパターンに代入できる解は、結局のところ「創られた「日本の平和」神話」という、最近聞き飽きた感じのある平和ボケ批判に収束してしまいそうですし……。)この切り口で小林信彦の喜劇人論を読み解けるのだろうか?)

日本の喜劇人 (新潮文庫)

日本の喜劇人 (新潮文庫)

文庫版はもう中古でしか入手できないのでしょうか。それは『さらばモスクワ愚連隊』が現役でなくなっていることよりも、はるかにショック。
定本 日本の喜劇人

定本 日本の喜劇人