学術論文というプログラム、文献参照は不良債権か?

(昨今の学問業界には、「それは本質主義だ」と指摘するオールマイティ・カードがあって、このレッテルを貼られた相手はそれ以上反論してはいけないというような、まるで中世の魔女狩りのような慣習があるらしいので(さすがピューリタンの国アメリカ、なんとも陰湿なゲームを流行らせるものです)、今回は、徹底した実用主義、「英語の世紀」(爆笑)にふさわしいプラグマティズム・モードで文章をコーディネートしてみました。)

大栗裕について、これまでに2つ「論文」(と本人は認識している)を書いて、現在3つ目が校正段階に入っていますが、2008年の夏に十数年ぶりに「論文」を書こうと決めて、最初にやったのは、譜例を書く簡易エディタをDashboard Widgetで自作することでした。

市販の楽譜ソフトを今から調達するのはお金もかかるし、譜例を再利用することなども考えて、楽譜書きに使ったのは、少し前から試していたLilypondというものです。

http://lilypond.org/

テキスト形式のソースファイルをコンパイルしてPDFを作るタイプの楽譜ソフトで、音符情報は、「ドレミ → c4 d4 e2」のようなMML風文字列。筋の良い文法だと思うのですが、実際に使ってみると問題もある。いきなりソースを書いてコンパイルだと、細かいエラー続出で効率が悪いので、音符情報を五線譜でリアルタイムに確認しながら入力したいと思って、それならHTMLとJavascriptだけで作れるWidgetだろう、ということで簡易楽譜エディタのようなものを作ったのでした。

(編集機能を入れたり色々やっているうちに、Javascriptのコードは1000行くらいに膨れあがってしまいましたが……。)

それでも、なんとか使えるものができて、現在に至るまで、論文中の譜例は、すべてLilypondで書いております。

(画像右上ウィンドウが自作ウィジェットで、そこで作った音符情報文字列を貼り付けたテキストファイル(画像左下)をコンパイルすると、画像右下のようなPDFの楽譜になる。)

●コンピュータで遊ぶ

……というわけで、わたくしの中では、「論文を書く」という作業が、パソコンで遊ぶこととシームレスに(?)接合してしまっております。

批評の仕事もまだそれほどなかった十年くらい前に、かなりPDAに入れ込んで、いわゆるユーザのオフ会にも頻繁に顔を出させていただいていた時期があります。

はてなダイアリーに社会学系の若手(当時)の人たちが巣食って、オープンソースとかコモンズとかいうことが社会科学でよく言われた時期があり、今ではiPhoneでスマートフォンという言葉が普通に使われるようになりましたけれど、そのひとつ前の時期です。

あくまで「遊び」で一端を覗いたという程度ですけれども、そういう経緯でコンピュータを駆使して仕事をする方々の雰囲気にはなんとなく馴染みがあって、「論文を書く」というのは、その延長のような感覚がある、ということです。

●注はサブルーチン、文献参照はライブラリ

字数を指定された批評や解説をしばらくずっと書いておりまして、そういう作文というのは、言葉を選んで、表現を工夫したり、字数に収まるように話の切り口や進め方(広い意味でのレトリック)を工夫することが必要で、純化された「文系」の環境ですが、それと比べると、「論文を書く」というのは、はるかにのびのびした環境でロジックを書き下すことができる。批評・解説との違いを強く意識したせいか、上記なんちゃってウィジェットに引き続いて最初の論文を書いたときに、論文というのは、まるでコンピュータのプログラムみたいだなあ、と今更のように思いました。

その思いを強くしたのは、ひととおり話が出来上がって仕上げの段階に入ったときで、話の本筋がぐちゃぐちゃにならないように、細かいデータや詮索を注に回すのは、実装の詳細をサブルーチンに括ってしまうのに似ているし、文献参照を入れるのは、既存のライブラリ(で定義された機能や関数)を呼び出すのに似ている。論文の最後に参考文献を並べるのは、コンピュータ・プログラムのソースコードで、最初に参照するライブラリをずらりと並べるのにそっくりだ、と思いました。

まあ、それは当たり前の話で、

コンピュータへの一連の命令を、「人間が読める」リーダブルな形式にするために命令を構造化する構文シンタクスが考案されて、

その時点で一般に普及していたコンピュータは(現在も同じですけど)論理学をモデルにしたOn/Off二進数データの理論上無限に延長可能な列を順に読み込んでいく形式ですから(チューリング・マシンとか、その実用向け改良がノイマン・アーキテクチャとか呼ばれるようですね)、

そうしたコンピュータ向けの二進数データ列と対応付けられた人工言語は、人間になじみの自然言語の文字列として設計するのが効率的だと思われたのでしょうし、

文字列として記述するなら、構文も自然言語や論理学からの類推が容易なものがいいということで、and/or/ifによる条件分岐、順次・反復・分岐による構造化が考案されて、技術者の間に定着していったのでしょう(たぶん)。

もちろん現行のタイプ(チューリングやノイマンの名前で形容されるような)とは違う設計のコンピュータの試みもいくつかあるらしいですし、そうしたコンピュータに適した命令記述言語は今とは違ったものなのでしょうし、

現行コンピュータ向けに実装されているプログラミング言語のなかにも別の発想で設計されているものがあって、そうした「論理型」とか「関数型」とかのプログラミング言語と区別して、現行普及しているのは「手続き型言語」と分類されたりするようですが、

それはともかく、

ともあれ、こうやって、ささやかなものではありますが、最初の論文が出来上がりました。こういうのでいいんだったら、時間さえ許せばなんとかやっていけるかもしれない、と思いました。

(プログラミング用人工言語には確かに色々なタイプがあるし、それは情報処理の論理(その向こうに論理学が透けて見えるような)が単一ではないということではあるだろうけれど、とりあえず現状のコミュニケーション・システムのなかで「音楽学の論文」として情報をまとめるときには、このスタイルで当面、なんとかなりそうだ、と判断したのでございます。

その後、本当にそれでいいのか不安は残りますから、「新しい」とされているようなものを含めて、音楽がどのように論じられているのか、色々、文献を読み続けてはおりますけれども、私が知る限りでは、思考を記述する言語の論理構成にまで踏み込んで音楽論のシステムを更新した例はなさそうなので、まあ大丈夫なのだろう、と今のところは思っております。)

●論文の「動作環境」

ところが、(と書くと白々しいかもしれませんが)どうやら、世の中には、こういう「ロジックの書き下ろし」ではない狙いがあって作成される論文があるらしい。

少し前のエントリーで指摘した件ですが、椎名亮輔さんのシューマン論のように、本文中の記述に文献参照がなされていて、ところがそれが孫引きでその先へは直接たどれない、というケース。これを一般的なコンピュータでのプログラムの挙動にたとえれば、プログラムをロードして動かそうとするのだけれど、「ライブラリが見つかりません」とエラーが出て、止まってしまう、のに似ていると思います。

このプログラムを動かすためには、孫引き先の元文献をどこかで入手しなければいけないようになっているわけです。

……ということは、これはつまり、ユーザ(読者)が単体で動かすことを想定していないソフトウェア(文章)だ、と判断せざるを得ない。

「豊富な文献を揃えたリッチな環境であれば、このソフトウェアが華麗に稼働するのだろう」

とユーザは、その動かないプログラムを前にして想像するしかない。

もちろん、研究というのは先行研究の蓄積の上にささやかな一歩を付け加えるものなので、先行研究の総体が「使用可能なライブラリ」として前提されていて当然です(おお、これぞ「知の図書館」、アレクサンドリアだ(笑)。市販ソフトウェアは、買った人から文句を言われないように「動作環境」の注意書きがあるのが通例ですが、参考文献に揚げられている書物のリストを見れば、その論文の「動作環境」がわかる。自分が知らない文献ばっかりである論文は、そのユーザにとって、動かすことのできないソフトウェアだということなのでしょう。

でも、ここにワナがあるんじゃないか、と私は疑っているのです。

●未使用ライブラリを全部ロードする大富豪

人工言語の基本設計というより、それを現場で使っていく必要から生まれた拡張だと思いますが、多くの実用プログラミング言語は、ソースコードの最初に既存のライブラリをずらっと並べておいて、それらを参照できるようにする仕組みがあるようです。

でも、それじゃあ、というので、(海外旅行に巨大な荷物をもっていくように)使いそうなライブラリをとりあえず全部ずらっと並べておこう、というようなことをすると、もともとそうしたライブラリの拡張が運用上の必要で生まれたものなので、原理的というよりプラグマティックな現場の仕事仲間の評価として、「効率が悪い」とされ、そういう所業は現場で嫌われて、「美しくない」とされるようです。

指定されたライブラリを読み込むために、プログラムの起動が遅くなったり、呼び出されたライブラリを記憶するためにメモリ(現行の一般的なパソコンの場合はRAM)を大量に消費してしまうからです。(いわゆるメモリを食い過ぎる重いソフト、というやつになってしまう。)

現行のコンピュータはアングロ・サクソンの世界で開発されていて、エンジニアの発想で作られているので、プログラムは「実用第一/質実剛健」がよしとされるようなのですね。(プラグマティズムも何も、メモリを食い過ぎるプログラムは極端な場合、ほぼフリーズ同然になりますから、実際に迷惑な存在になる。)

けれども、ひょっとすると「論文」の場合は、最初にライブラリをずらりと並べる(参考文献を充実させておく)ことにはメリットがある、と発想する人がいるのかもしれない。

「オレは、これだけたくさんのライブラリを知ってるんだぞ」という見せびらかしになる(かもしれない)からです。

そしてこれは、単なる派手好き・自己顕示欲の強さ、という程度問題ではなく、論文というものを、コンピュータ・プログラミング(ロジックの書き下し)とは質的に異なるモードで活用する発想なのかもしれない。

●「担保」としてのライブラリ

ひところ、「担保」という言葉が社会学系の文章で過剰なくらいに使われている時期があったように思います。発端は金融の用語を制度設計とかシステム論とかの人たちが流用したのかなあ、と想像しますが、とにかく、やたらに「タンポ、タンポ」と書く人がいた。(はてなダイアリーで情報社会を熱く語ること=「タンポ闘争」、とくだらないダジャレを書いてみる。)

日常語だと、「抵当に入れる」という意味で、「家屋を担保にして借金する(ローンを組む)」とか、そういう使い方しかしないと思うのですが、「担保する」という動詞形が好まれて、「自由を担保して云々」とか、そういう抽象的な議論が展開したりしていました。

ホリエモンがネットの人気者で金融工学(詐欺まがいの錬金術だと思うが)が資本主義の最新モードとされていた時代に、「信用取引モデル」で社会を捉えよう、ということだったのかなあ、と思います。

で、上記の大量に参考文献を羅列する(並べれば並べるほどいい)というのは、「担保を積む」発想のような気がするのです。「私はこれだけのライブラリを所有しています」という長いリストを提出することで「信用」を得る、「ライブラリを担保して、学問上のキャリア・アップ」というわけです。

●「同意」によるライブラリ債権の運用

もちろん、このような「担保」は、ライブラリのリストがロジックの実態に即していない、ということを逐一チェックされるとアウトです。銀行の審査が厳しい不況時には使えない。バブル特有のやり口ですが、幸いなことに、1990年代には、学位乱発のバブルが日本の大学を席巻しておりました。そして人間には「認知限界」というものがあることになっているらしいと言うではないですか。だとしたら、限界を超えた情報は、人間の認識能力をオーバーフローさせて、事実上のノーチェック同然になり、結論が先送りされるかもしれない。(審査官は、詳細な脚注、長大な文献リストをいちいちチェックしないかもしれない。)

そうなるともう「書いた者勝ち」ですよ。学問のリーマン・ブラザーズですよ。審査官の「OK」をもらってしまえばそれでいい。審査官だって、数をこなすことが業務・業績になりますから、どんどん判を押しちゃえばいいんですよ。しかも(!)金融債権と違って、文献参照(先行研究の成果の「借用」)は、返済の納期がないから、どこかで取り立て期限がやってきて、不良債権化することはない。どんどん、やっちゃえ、ってなもんですよ。

……というわけで、(何度も言及して申し訳ないのですけれど)先のエントリで指摘したもうひとつの吉田さんのケース(押し出しのいい文献に言及しておきながら、その内容を活用しない)は、どこかしら「担保の金融工学」的なのではないか、と、疑ってしまったのです。

●文献参照バブルははじけるか?!

なんだか、インチキ金融コラムのようになってきましたが、はたして、文献参照のバブルがはじけて、不良債権化する日は来るのでしょうか?

幸か不幸か、株価市場に比べると「文献参照市場」は牧歌的で、そもそも、ある銘柄と別の銘柄の「価格」が異なり、引用頻度によってその「価格」が変動する、というようなことにはなっていないようですし、そこまでシビアに査定への影響がないから、チェックも甘い、(まあ、だいだいの印象で質の善し悪しはわかるっしょ)ということになっているようですが、本当に大丈夫なんですかね。

世間というものは「事件」が起きないと懲りないようですが、誰か実際に詐欺を実行しようと思えばできてしまう懸念はないのか。

(具体的な手順はすぐ思いつくけど書きませんが)何人かがチームを組んで仕掛けたら、架空の論文名を大量に捏造して、その出典論文にたどりつけないような引用の相互参照ネットワークを巧妙に構築しておいて、そうした架空論文の引用だけで組み立てた文章を学術誌に論文を投稿して査読をパスすることも、現状だと、不可能ではないような気がします。

そんなんでいいのか、という話です。

そして、(ここが一番私のムカついているところなのですが)本や論文を、ロクにその中身を読みもしないで、「献本感謝」とか、「今年のイチオシ」とか、「オレも同意」とか書く人、大学教員にもたくさんいますけど、それって、架空論文ネットワークが蔓延する潜在的な温床になるから、止めといたほうがいいと思うんですけど。

(そういえば、コンピュータのプログラムの挙動でも参照referenceとかポインタと呼ばれる機能の扱いは注意が必要で、他から参照されないものはメモリ上から自動的に消去するゴミ集めの機構とか、ウェブの検索システムでも、リンクされている/されていないがページの重み付けの基準になっているけれども、故意に水増しされたリンクをどう弾くかが工夫のしどころであったりするようですが。リアルな文献参照にも、水増し防止策が必要なのかも。)

とりあえず、論文・研究が「信用のネットワーク」で増殖するのは間違っている。ネットワークの駆動力は、ロジックによらねばならない、と、原理主義的かもしれないけれども、そういうつもりでもうしばらくやってみようかと思っております。

(ルシュールを全面的に信頼して、アルマ・マーラーを嘘つき認定する、とか、そういう二分法に異議を唱えたいのも、同じ理由によります。どんぶり勘定禁止。ちゃんと自分の頭で検算しろ、収支の合わない書類を出すな、と。

それから、東大が「最高学府」を名乗るなら、硬くいっといたほうがいいのでは、というのも、ロジックを締めておくべきではないか、という意味です。どこかのバカが曲解したかもしれないように、テーマ・話題の硬軟ではなく、ソフトで親しみやすいテーマを選ぶのであれば、なおさらのこと、話題の硬軟と混同することなくロジックのコーディングを引き締めるべきではないか、ということです。

コンピュータのエンジニアさんは、職人の世界ですから、精度を保つためにいいかげんな態度や違法行為に対して厳しいのが常であるようです。(いわゆる炎上・コメントスクラムは、単なる群集心理の場合もあるでしょうけれど、少し前までは、しばしばそうした職人的な倫理感から厳しいコメントをしてしまってもめ事の火種になるケースがあったように思います。一種の職業病。)論文で勝負する学者さんの世界も、もうちょっとピリっとしたところがあっていいような気がするのです。

批評の作文で生活している皆さんも、外から見ると頭悪い奴らに映っているかもしれませんが、仕事の上では皆さん結構シビアだと思います。基本的には。

で、その上で、まだ機が熟していない、準備が整っていない、と思ったら、バシバシ依頼を断ったり、出すといったものを出さずに堂々と穴を開ける、そのかわり、出すときには完璧なものを出す、とか、東大というのは、そんな風に(かつての東京藝大の矢代秋雄みたいに)、高飛車かつ本格的に浮世離れしていていいんじゃないかと思うのです。

生誕200年なんていうしょーもない企画ものは適当にあしらって(だって、「狂気のなんとか」という自著の宣伝キャンペーンみたいな論文(失礼!)と並ぶんですよ)、以来研究に邁進すること5年にして2015年に岩波書店から箱入りの堂々たる単著が出る、とか、めちゃめちゃカッコイイじゃないですか。トーダイの権威というのは、そーゆーもんでしょう。よく知りませんけど。

誰それと知り合いだ、とか、そういうのはいつの間にか下賤の者(私だ(笑))が勝手にかぎつけるに任せておけばいいのであって、「最高の知性には、最高の舞台が用意されねばならない、それを選ぶのはお前たちではない、オレ自身だ」とか言っちゃえばいいんですよ。どうせ音楽なんて人材が手薄で他に人はいないんだから、どんどん言っちゃえ(笑)。

御殿の上の方々がそれくらい鷹揚に堂々としてくだされば、下々の臣民も己の道に専念できる、それが天下泰平の統治というものではないかと、愚考するのでござります。)

ゴジラと日の丸―片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全

ゴジラと日の丸―片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全

「東大御殿へお入りあそばされましたのでござりますから(←敬語がヘン、でもどう書くのが正しいのかよくわからない)、若様にもご覚悟がおありのはず。軽佻浮薄な慶応の者どものことは、お忘れなさいませ。」

ああ、東大生でなくてよかった。

●週刊誌のコラムだけれど、音楽の話と、日本映画の話もぎっしり詰め込まれている。

補足1:

せっかくたくさん参考文献を集めて勉強したのに、「富豪ライブラリ」をNGにされたら、その成果を申告する場がなくなってしまう。(色々みんながまだ知らないものを読んでいるのに。)という向きには、サーベイ論文というメニューを用意したらいいんじゃないのでしょうか。

音楽学会では、「今や音楽学は多様に分岐して全体像の把握が不可能になった」と嘆息するのが流行のようですけれど、なぜか研究のサーベイを学会としてやる習慣が今までずっとないですよね。それは、整理をサボってるから書庫がゴチャゴチャになってるだけなんじゃないのか。「ドイツ音楽研究1990-2010」とか、そういうのをしかるべき人で分担して定期的にサーベイすれば、かなり見通しがよくなるし、文献をお勉強した人たちに発表の場ができて、一挙両得なのでは、と思うのですけれど。

(お友達の本を「書評」「書籍紹介」で誉める/別の派閥の本をけなす、という不毛な内ゲバより、現状ではよほど効果的だと思うのですが……。)

補足2:

先端的な領域の研究は、多少こなれていなくても推奨すべきだ(いわばゲタを履かせたほうがいい)という考え方がひょっとするとあるのかもしれず、そういう暗黙の温情が、少し前なら民族音楽学、今ならポピュラー音楽研究の追い風になっているところが、ひょっとしたらあるのか、とは思います。

まさか、「全掲載論文の○○パーセントはポピュラー音楽関係とする」というようなルールを決めるわけにもいかないでしょうし、でも、かといって、「暗黙の温情」という不透明なのは、やっぱり良くない気がします。

でも、いきなり「論」を立てるのが難しいんだったら、資料集成プロジェクトを助成する(そしてそれに先立つ論文は「○○集成の意義」とかを論じるものにする)とか、学術研究の世界には、そういう新しい分野を開拓する場合の正攻法の作法というのも装填されているのではないのでしょうか。

なぜそういうことをしないで、いきなり温情にすがる裏取引に走るのか。

あるいは、いきなり学会シンポジウムで人を扇動して「既存の音楽史研究は、土建屋の土地鑑定に成り下がっている」とか、学生運動風のアジテーションで突破医しようとするのか。

こういう話の流れにすると、またマスダ批判になってしまいそうですが、90年代以来のポピュラー音楽研究の進捗をみていると、(色々個別に成果が出て来つつあるのはわかりますが)筋の悪い組織論・運動論をモデルにしてるんじゃないか、と他人事ながら心配になることがよくあります。

(自分たちがこれから研究しようとしている対象(の行動様式)を、研究に先立って模倣して事たれりとするのは、一種の論点先取じゃないか、と思う。「まなび」は「まねび」であるとしても、論壇上で「ミメーシス」を繰り広げるのは、ちょっと野蛮すぎるのではないか。「フィールドワークの報告として、調査してきた芸能を今から舞台上で私が演じます」というのは、実技系大学が演奏をもって卒論に替える、というんじゃないのだから、学問としてはダメでしょう。

新しい分野で大変なのはわかりますが、別に既存分野の研究が「楽」なわけじゃないんだから、自分の苦しさを既存領域への批判に転移させしてはいけない。)

もう手遅れかもしれませんが、誰かちゃんと言ってやったほうがよかったんじゃないのか。それともひょっとして、「アイツはいずれツブれる、これでライヴァルが一人減った」とか、そういう風に考えて黙っていたとか? まさか(恐)。いずれにしても、やっぱり嫌な業界だという私の思いは変わらない……。