今年を締めくくるDVDと書籍をひとつずつ(吉田喜重「秋津温泉」、片山杜秀『ゴジラと日の丸』)

[訂正:片山さんの本のタイトル間違えていました。直しました。PM 6:20 最後に片山さんの讀賣新聞書評の今年の3冊にかこつけた結びを書き足しました。]

その1:

大栗裕を起点にして、音楽と映像・所作・芝居というテーマに、なんとか手掛かりを見つけたい、そんな風に七転八倒した一年の締めくくりに、これを観た。

秋津温泉 [DVD]

秋津温泉 [DVD]

吉田喜重と松竹全盛期スタッフの映像、素晴らしすぎる岡田茉莉子、弦楽合奏でひたすら歌い上げる林光、三位一体は自宅の小さな画面で観るだけでも感激。これを大きなスクリーンで観たらどうなってしまうのだろうと思うほどでした。

見終わったあとで、「これをオペラにすればよかったのに!!!」という理不尽な思いが沸々とわいてきました。

林光作曲でもいいですけれど、蓮實重彦あたりが強引に動いて、武満徹に無理矢理にでも作曲させてみればよかったのではないか。演出は、吉田喜重でもいいけれど、三谷礼二にやらせて、彼の名前を残す、というのもあり得たのではないか。なんとしてでも大当たりを取って、再演に次ぐ再演の状態にもっていって、そのうち落成した新国立劇場がレパートリーにする。武満徹作曲「秋津温泉」と、三木稔作曲「春琴抄」と、あとは日本人が丹誠込めて作る「蝶々夫人」。この3本を、三谷礼二、武智鉄二、栗山昌良それぞれの決定版演出で繰り返し上演すれば、これだけでも、「オペラ=新世紀の新派」ということで、着実に日本に歌劇が定着する礎になったのではないか。オープニングが團伊玖磨なのは、まあ許すことにして、内外の集客・芝居好きの奥様方をこの3本でがっちりつかむ、というのが、古典芸能の国立劇場、大阪の文楽劇場に続く日本の第三のナショナル・シアターのあるべき姿だったのではないでしょうか。

まあ、夢は夢として、「いつまでもこの瞬間にとどまりたい」という思いで眺めてしまうところがオペラに通じると思ってしまったのは岡田茉莉子なわけですけれども、プッチーニがオペラとして定着させたサラ・ベルナールと違って、岡田茉莉子の映像は、今でも繰り返し観ることができるのだから、冷静に考えれば、最もオペラにしてはいけない題材なのは、もちろん承知しています。でも、だからこそをこれをオペラに、と理不尽に言ってみたくなってしまったのです。17歳の都会から来た少女のいつまでも聴いていたいコロコロした科白まわしから、34歳のドヨンとした最後まで、映像だけでなく、「短すぎる女の盛り」は耳にも届きますし。

彼女の顔は、常に必ず完璧なライティングで輝いていなければならない。だから、長門裕之は最後の最後まで、彼女の顔に覆い被さって唇を奪うことなど許されない。正しすぎます。これは、プリマドンナがひたすら輝く、瞳のためのオペラでなくて何なのか。

それなのに……、それなのに……。停車場で、男が女を見送るなんて、そんなのアリなのか、と唖然としながら、遠ざかっていく岡田茉莉子の後ろ姿を見つめておりました。振り返って彼女のアップ、いや、絶対そんなことあり得るはずがない、振り返らない……よね、どうするの、え、いったいどうなるの……。吉田喜重、恐るべし。

[補足]

本当は黒澤明「醜聞」も観て、山口淑子がどうというより、最初は三船敏郎が山でのんびり絵を描いたりして、ヒッチコック・サスペンスの巻き込まれ型主人公風だったのに、いつのまにか志村喬の話になって、ドブ池(「酔いどれ天使」を思わせる池をクロサワは松竹にも掘らせたとは!)に星がキラキラ光って、「素晴らしき哉、人生」になってしまう。この途中で話がグイっとねじ曲がる感じがいかにも、らしい、と思ったし、日本のキャプラをやろうとした黒澤明、年末最後に丁度いいのでは、とも思いましたが、これはまた別の機会に。

醜聞 [DVD]

醜聞 [DVD]

本当はこの作品、今、松竹が10人の女優シリーズの企画で別パッケージを出してますが、Amazonでは見つからなかった。クロサワ映画としてはあまり言及されませんが、私は面白かったけどなあ。

その2:

ゴジラと日の丸―片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全

ゴジラと日の丸―片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全

大衆文化というのは、震災後のモダニズム来航で、地方から出てきた人も、代々都会に暮らしている人も、ブルジョワもサラリーマンも丁稚奉公も女中さんも、みんな故郷・起源を捨て去って、みんなが都会のラビリンスのなかを彷徨う文化。定職もなく、映画館や芝居小屋やコンサートに通って、金のないときは名曲喫茶に入り浸って、夜は酒呑んで、女の子と遊んで、そういうお気楽人生な人たちが、いつのまにか「語り部」になるものだった(ような気がする)。片山杜秀が、フリーライターとして1990年代から2002年まで「SPA!」に書いた、正統派の都市文化コラム。コラムの前の執筆者は四方田犬彦だったというから、これは本物、ということになるのでしょうか。

そんな「SPA!」の一人称は「ボク」か「ボクら」で、「私」や「俺」は上手くない、ということになっていたらしい。オタクを擁護する雑誌として名を上げつつあったと著者は書くけれど、オタクとサブカルの中間のような感じなのかなあ、と思う。

その話を読んで、ふと思ったのは、片山杜秀(や私)より一回り若い和製「ロスジェネ」の人たちのこと。

彼らは今のところ自分たちだけで群れる傾向が強くて、仲間に入れてくれないので外側から眺めることしかできないのだけれど、彼らはどうやら、ここまで旺盛に都会を彷徨わないように見える。

代々都会に暮らす者も、地方から出てきた者も、都会の大学へ入って故郷と切れる(ここまでは一緒)。でも、都市特有の無数の部分社会に出入りするのではなくて、ただひたすらにHMVやタワレコやもっとマニアックなショップでディスクを買って、家や下宿で聞き続けるらしい。(飲み会のあとは、やっぱりカラオケなのかしら。)ネットの向こうに広大無辺な情報社会があるように、ディスクのサウンドの向こうに広大な「仮想世界」がある。自宅で聴く、ウォークマンで聴く、カーステレオで聴く、カラオケで歌う。音楽、音楽、音楽、音楽、音楽、音楽、音楽。

……なるほど、これだけヘビーローテンションすれば、「複製技術の時代」という観念が擦り込まれよう、というものです。CDは、LPと違って劣化しないし(←ひょっとして、これ、80年代以後に音楽の「複製技術」論が再浮上した原因のひとつかも)。

ワールド・ミュージックの時代だし、渋谷系とか、過去の音楽資産との太い回路を参照する格好のポインタがあって、子供の頃から親しんできた歌謡曲は「J-POP」と名前を変えて、世はオタク全盛期だから、成人してから聞き続けても、さほど後ろめたくはない。

あくまで、そういう風に見える、という外側からの観察に過ぎないけれど、そうやって積み上げた「ボクらの音楽」の「仮想世界」を、上手に「研究対象」に仕立て上げたところが、ポピュラー音楽学会の成功の秘訣なのかもしれない。

はたして同じような生態の者が日本の全人口のどれほどの割合なのか、よくわからないし、公平に見ると、音楽研究全体に占める「ボクらの音楽」研究者の割合は、ちょっと多すぎるんじゃないかと思うのだけれど、都会の大学に入って、世代も同じで、学歴も均質だから、会えばがっつり話が合う。「お前もそうなのか、オレもそうなんだ」という連帯意識は、時と場所を忘れて、永遠無限にこのコミュニティが世界に広がっているかのような錯覚を与えてくれる(ということのような気がする)。

30歳前後といえば、研究の道に進んだ者にとっても、同世代で大卒就職した者にとっても、それぞれの分野で一歩でも先に進まなきゃならないから忙しく、バラバラに寸断されて、横のつながりが人生で一番希薄になる時期。あとから振り返ると、学校という年齢ごとに輪切りにされた集団から、職種・趣味嗜好にもとづく集団へ組み変わる過渡期で、しばらくすると、それぞれの「仕事」を起点にする新しい横のつながりができて再び安定するのだろうけれど、そんな先のことは当事者にはわからないから、とにかく不安な時期ではある。見事にピンポイントを突くグループ活動と言えるのかもしれない。

あまりにも年齢・学歴が均質すぎるから、いずれ分化していくとは思うけれど、それにしても、よくもまあ大暴れしたものだよなあ、とは思う。

収束したあとの後始末で紛糾しないように、是非とも、今からきちんと体制を整理しておいて欲しいものではある。

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片山杜秀は、読売新聞書評欄の今年の3冊を選ぶ文章で、「音楽書は四半世紀遅れてやってくる」と言う。

音楽は言葉にしにくい。工夫が要る。だから遅れる。今年は1980年代の現代思想ブームのノリの音楽書が大豊作。

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20101227-OYT8T00576.htm

そして、大里俊晴(『マイナー音楽のために』)の断片的文章の集積はさしずめドゥルーズ/ガタリ、椎名亮輔(『狂気の西洋音楽史』)はフーコー的であり、小鍛冶邦隆(『作曲の思想』)の目線はレヴィ=ストロースみたいだと言うのだけれど、その言い方に倣えば、「ボクらの音楽」のヴァーチャル空間に遊ぶ姿は、総体として四半世紀遅れのボードリヤールなのだろうか。(違う、と力強く反論して欲しいのだけれど。)

かつて彼らに大声で「どけ、道を開けないか!」と恫喝されて、そこまでいうのだから、きっとポピュラー音楽研究の潜在的な可能性はその程度のものではないのだろう、と信じ、彼らの邪魔にならないところで音楽評論の仕事を続けて十数年。わたくしがどうしようもなく察しの悪いバカであることは全面的に認めますけれども、当事者たちは、今、自分たちのやっていることを、どういう風に思っているのだろう。

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以上、今年は最後まで好き勝手な作文で遊んでしまいました。すみません。

皆様、よいお年を。