武智鉄二と「岡本太郎問題」

[1/12 最後に漫画をめぐるあれこれを書き足しています。2/28 1959年の「ローエングリン」野外上演について、リンクを追加。武智鉄二の1957年の「アイーダ」に続く野外オペラの第二弾に岡本太郎が参加していたとは、盲点でした。]

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二評伝、読了。

正確には、本を買った日(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110104/p1)に最後まで読み終えたのですが、実は、この本を間に挟んで平行するような形で、椹木野衣の万博論と岡本太郎論を年末年始に読んでいました。

戦争と万博

戦争と万博

黒い太陽と赤いカニ―岡本太郎の日本

黒い太陽と赤いカニ―岡本太郎の日本

武智鉄二評伝の、前の記事に感想を書いた以後の後半、1960年代以後の武智鉄二については、正直に言うとまだ上手く距離を取ることができていないので、私にとっての本題でなければいけない音楽(大栗裕を中心に)について、もう少し考えがまとまるまで宿題にして、あまり性急に「感想」を書いてしまわないことにしようかと思います。

で、万博と岡本太郎は、奇しくも時代が重なりますが、美術評論の視点でカッチリ筋を通して書かかれているので、この時代のことを勉強するのに良い補助線になりそうな気がしました。

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『戦争と万博』は少し前に買って、一度読んだ形跡があるのですが、ほとんど内容を忘れてしまっていました。たぶん、前に読んだときは、そのときの自分の関心と、うまくかみ合わなかったのだと思います。

たぶんそのときに一緒に読んだと思われる、シミュレーショニズムや、日本という「悪い場所」の本は、いまひとつ説得されなかった記憶が残っています。椹木さんの本は、先を急ぎたいこっちの気持ちに逆らうようなリズムというか、立ち止まって絵画的なイメージを自分のなかにその都度しっかり作りながらでないと読み進めない感じがあって、前に読んだときは、ノレなかったのかも、と今回読み直して思いました。

今回は、自分なりに万博のことを人前で話したりしたあとだったせいか、「戦争と万博」のひとつひとつの話題が腑に落ちて、最後に壮大なヴィジョンが見えてくる感じもスリリングで面白かったので、前に遡って岡本太郎論『黒い太陽と赤いカニ』を続けて読みました。

ただし、こちらも本の内容そのものについての感想は保留。

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ひとつだけ、忘れないように書きとめておきたいことがあって、それは、武智鉄二が1912年生まれで、岡本太郎は1911年生まれの一歳違いだということ。

両者に特段の接点はおそらくなかったと思いますが、二人とも1960〜70年代に、周囲からキッチュとか堕落とか言われかねない豹変があって、前半生を知っている人から残念がられるところが、ちょっとだけ似ていると思ったのです。

映画を撮るようになって以後の武智鉄二の「迷走」は、個人の問題というより、変わっていく世の中や状況ゆえに、という側面が少なからずあると思うのです。でも、一貫しているところと、ブレているところ、そうならざるを得なかったのかもしれないところを切り分けるのが本当に難しくて、そこが武智鉄二の「語りにくさ」の核心になっているように思います。

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

アヴァンギャルドを鼓舞する本で、当時かなり話題になったようですが、そういえば、受験生の頃、現代国語の問題集に岡本太郎の文章が出てきて、こういうことを書く人だったのかと意外に思った記憶があります。
日本の伝統 (知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)

松村禎三も、この本の縄文論に衝撃を受けた、と、どこかで書いていた記憶があります。

岡本太郎も、戦前のパリで抽象絵画やシュールレアリズムの渦中にいた前衛が、テレビでみんなにモノマネされる変なおじさんになってしまうわけですけれども、椹木野衣はきれいにこの「ねじれ」(に見えるもの)を読み解いてしまう。

しかも、ハイアート(「本画」)とポピュラー・カルチャー(「漫画」)の境界線をぐいっとねじりきってしまう人、という描き方になっていて、これを、日本という「悪い場所」だからこその振る舞いだ、という風に位置づけて、父親の岡本一平や、ビートたけし/北野武あるいは村上隆との位置関係まで見通せるようになっているのですね。

(マルセル・モースと太陽の塔と民博がひとつの水脈でつながっているという見立ては、地元の身近な場所として子供の頃から親しんでいる万博公園のイメージと、阪大の民族音楽関係の人たちが足繁く通っている場所としての民博の印象がひとつにつながって、個人的にもちょっと嬉しいです。)

フランスから帰ってくると、日本の制度が「擬制」に見えざるを得ない、という感じは、小鍛冶邦隆さんの『作曲の思想』にも通じる話だと思いますし、

1910年代生まれのインテリ芸術家が戦後とどういう風につきあい得たか、伊福部昭(1914年生まれ)が「ゴジラの人」になってしまう在り方と、「爆発のおじさん」というキャラを自ら引き受けたようなところがある岡本太郎は、似ているのか、似ていないのか。そうしたことを整理した上で見直すと、武智鉄二の後半生の語りがたさを解きほぐすヒントが見えてくるかもしれない予感があります、漠然とした話ではありますが……。

[追記:1959年に武智鉄二と岡本太郎には具体的な接点もあった。「ローエングリン」野外上演で一緒に仕事をしていたようです。

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-02-27

昭和に入って、野球場や陸上競技場などでの音楽イベントは夏場に結構たくさん行われています。東京と大阪だけでも通史的に調べる人が出てきていいのではないか。]

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それから、漫画というと(創始者として讃えるにせよ、「テヅカ・イズ・デッド」と宣言するにせよ)手塚治虫以後のストーリー漫画をめぐる議論が多いですけれど、岡本一平は「総理大臣より有名」と言われたそうですから、戦前から漫画が描かれ、読まれていたということですよね。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

「影響の不安」の呪縛から自由になろうとするときに、「偉大な父」の影響力の圏外を新規開拓するやり方とともに、「父」が無数の「子供のひとり」であったような段階へ遡行するという戦略もありうるはずです。たしかに「歴史」は難物で、新発見と遡行を混ぜ合わせて面白く批評化しようとすると、過去が未来とループするポストモダンの奇怪な時空が蘇ってしまいそうで危険ではありますが、そうかといって、いわゆる「ゲーム的世界」の、リセットしたりタイムワープしたりするシステムの枠組みで「歴史」を取り扱うのは、どこかで歴史に共感したい欲望が透けて見えて、断念が足りない気がしてしまいます。(「ボク/ワタシ」だけが過去や未来で唯一のアウトサイダーだ、というタイムワープの設定は、中世風メルヘンの設定のなかに近代的な意識を有する「私」を動かすドイツ・ロマン派寓話と、実はさほど違わないような、いわば疎外論の亜種のような気がするのです。半可通な勘で書いているので、誤解や不当な評価と怒られてしまうかもしれませんが……。それに、タイムワープものは、面白いお話を作ることのできる上手い仕掛けだとは思いますが。)そこまで派手にやらなくても、使い切られていない資料を再利用するリサイクル感覚の「歴史」のスタンスでできることが、まだいろいろあるような気がするのです。(オッサンになると、若い人のように「これは新しい」と突進する初心を忘れて、ありものを上手に使い回して生き延びようと思ってしまう、ということでしょうか。)

単純な話、戦前のダンスホールやジャズ歌謡(これらを見直すことで戦後ポピュラー音楽の見え方は随分変わる)に相当するような、漫画における「モダン・エイジ」が大正・昭和初期にあって、その表現論を面白く語り得たりするのでしょうか。

そしてそこから話を広げて、たとえば、ダンスホールが大好きだったり、ジャズに関心を寄せたりした戦前の作曲家たち、貴志康一(1909年生)や橋本國彦(1904年生)は漫画を読んだのだろうか? 大澤壽人(1906年生)は、ボストンで当地のコミックや風刺画を楽しむリテラシーを身につけていたのでしょうか?

あるいは、

小林秀雄(1902年生)の妹は「のらくろ」の田河水泡(1899年生、ちなみに岡本一平は1886年生まれで13歳年上)と結婚しましたが、吉田秀和先生(1913年生)は、漫画をお読みになるのでしょうか? 誰も恐れ多くて、そんな質問できなさそうな気もしますが……。それじゃあ柴田南雄(1916年生)は?

時代が下って、手塚治虫(1928年生)とほぼ同世代の武満徹(1930年生)や黛敏郎(1929年生)はどうだったのか。岩城宏之(1932年生)は少女マンガが好きそうな雰囲気がありますが、高橋悠治(1938年生)はどうなのだろう。彼らと同世代の一柳慧(1933年生)は横尾忠則(1936年生、ちなみに赤塚不二夫は1935年生まれでその一歳上)の影響を受けて、60年代ポップアート的なものを積極的に身に纏いましたが……。

一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」

一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」

実は武智鉄二は、権藤芳一先生の資料集成に出てきますけれど、黎明期の民放テレビで彼流のサザエさんを演出していたこともあるらしく、そのあと映画を撮り始めたときには、テレビの経験・視聴実態を研究した上で自分の映画演出を編み出したのだと、いつもの雄弁で書いています。

彼のテレビでの仕事というのも、未だ検証されていない領域のひとつとして残されているんですよね……。(武智鉄二演出で大栗裕が音楽を担当した放送番組もあったようですし、前にも書いたかと思いますが、武智鉄二は、歌劇「夫婦善哉」の台本作家に抜擢することになる中沢昭二とその前に放送局で一緒に仕事をしており、おそらくここで知り合ったと思われます。)