素性の怪しい証言の扱い:歴史と「私の美しい生活」

多忙につき、書き捨て御容赦。思いついたことをメモしただけです。

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完成品としてのレポートにおける論証の一部が素性の怪しい証言に依拠している場合は、その論証自体の信憑性が疑われる。

例:「大栗裕はこの作品を1955年に作曲した」という第三者の証言だけをもとに、この作品の作曲年を「1955年」と判断した場合。

けれども、調査段階では、素性の怪しい証言から出発せざるを得ないことがしばしばあるし、むしろ、素性の怪しい証言をより確からしい証言と付き合わせる作業が歴史調査の大半を占めるといってもいい。

例:上記発言をもとに調査を開始して、自筆資料、演奏記録、関係者の証言を集める場合、調査範囲は、ひとまず「1955年」を起点とせざるを得ない。すなわち、調査者は、「1955年作曲」説を信じているわけではないが、とりあえずの出発点として1955年を選ばざるを得ない。

そして、その調査過程でより確からしい証拠が見つかった場合には、その新しい仮説がレポートに記されることになる。その際、出発点となった素性の怪しい証言についてレポートが言及するか否かは、その怪しい証言の重要度・影響力等、あるいは、レポートの体裁・趣旨などに依存する。

素性の怪しい証言を調査者が取り扱った事実は、結果として出力されるレポートの文面に、あらわれることもあるし、あらわれないこともある。最終出力としてのレポートの背後には、(まともな調査研究であれば)その数倍の作業があるのは当然のことに過ぎないし、そのような作業を怠れば、まともなレポートを作成することはできない。

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信頼性の高い歴史研究の文面が、信頼性の高い資料の連鎖によって論証を進めているからといって、その調査者が、信頼性の低い資料を一歳考慮しなかったとはかぎらないし、まして、そのような歴史研究レポートをみた追随者が、「立派な研究は、素性の怪しい資料を無視して、素性の確かな資料だけを集めて行われるのだ」と思いこんだとしたら、それは愚かなことである。

結果は、かならずしも生成過程を反映しているとはかぎらない、というのはテクスト解釈のイロハだが(例:ベートーヴェンの交響曲の完成品スコアを読むだけでは、この曲がいつどこでどのように書き上げられたということはわからない)、歴史研究のテクスト(論文など)を読む場合にもこの原則があてはまる。

結果と生成の区別というのは解釈のイロハであるというのに、美学(美学史の教養には20世紀のひとつとして解釈学的美学が当然含まれる)の人たちが、しばしば怪しい証言や美的に価値の低い作品を除外して藝術史を考察しようとするのは、すなわち、EnergeiaをGenesisと混同するのは、いかなる精神の規制によるのだろうか? それは美学的教養のなかに立てこもって事たれりとする無教養ではないのか。それは要するに、「私は美しい生活を送りたい」という個人の願望に固執する自慰行為であって、歴史を直視する覚悟が足りないということになりかねないのではなかろうか?

個人が「死ぬまで美と感性のまどろみのなかで暮らしたい」と願望するのは自由であり、勝手にやればいいとは思うが。それに歴史家が仕事は仕事として、美しいものを愛でたり、アホなことをして遊ぶことは当然ありうるだろうけれども。(「Space Battleshipヤマト」の中でだって(あるいは戦場だからこそ?)、若い男と若い女はセックスすることになっているらしいので(映画は未見だけれども)。)

歴史は戦場?

(少なくとも、イタリアのナショナリズムがロハスに投射されて、日本のナショナリズムがサブカルに投影されるように(タミヤの1/700ウォーターライン・シリーズ、私も小学生の頃作りましたよ)、ドイツの戦後のナショナリズムは過激すぎるくらい厳格な歴史主義に向かったのかも、それが国家事業的なバッハ学とか各種音楽学プロジェクトだったのかもしれません。そこを見ずに歴史に手を出すと、なんだか気の抜けた話になってしまうような気がします。)

海底軍艦 [DVD]

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町山智浩が途中で言及している新東宝のこの映画の音楽は伊福部昭で、ムー帝国のテーマがのちに二十五絃箏の「琵琶行」に転用されている因縁がある(ということを、先日、人から教えてもらいました)。

[補足 少し前のmixiの日記より]

実相寺のウルトラセブンが大好きだったという椹木野衣の書く日本美術論を読んで、妙に勇ましい構図ばかりが思い浮かんで困ります。

音楽と美術はアートシーンでシンクロしていたのか、ということをしばらく考えていて、とりあえず椹木野衣があれこれ言うことは、戦争藝術/万博/シミュレーショニズムの3つの時点が諸芸術のシンクロした特異点であった(近代日本に単数形のアートが出現した時期があったとしたらこの3つかもしれない)という風に読めそうに思いました。

若い人たちが情報社会のアーキテクチャにご執心なのは、諸ジャンルの再度のシンクロを自らの手でもたらしたい、という願望なのでしょうか。

さて、ということは逆に言うと、諸領域がそう簡単に日常的にシンクロしているわけではない、ということでもあるかもしれないのですが、なぜなのか。

ヨーロッパのブルジョワ階層が文学・美術・音楽を愛でる態度(貴族社会をモデルにしてはいるけれど、若干意味や範囲がずれる)が「Art/Kunst」と単数形で呼ばれるようになったのは19世紀だけれども、日本が開国したときに、美術は万博に展示できる工芸品としての意義を認められて「産業」として奨励され、フェノロサが日本美術にお墨付きを与えるということがあった一方で、音楽は洋式の軍隊を学んだ人たちが「国民」の基礎教練としての意義を見出して、唱歌と体育を学校に組み入れた。だからたぶん、美術は通産省の管轄であり、音楽は(潜在的にではあれ)軍の管轄すべきテクノロジーだったのであろうということになるかもしれない。

そしてそのあとで「Art/Kunst」の概念が入ってきて、鹿鳴館的な文化国家の権威付けの道具としての意義がクローズアップされて(欧米の外交は貴族社会以来の社交の作法の上に成り立っていますし)、どちらも文部省の管轄になったのかなあと想像しますが(このあたりの経緯はまだよく知らない)、そのあとでも、ときどき「藝術」に産業や軍がかかわってくる。日本万国博覧会は、つめかけたお客さんのイメージとしては巨大な文化祭みたいなものですけれども通産省の管轄だし、第二次世界大戦で音楽・映画・文学が総動員されたのは、ひょっとするとこのような心とカラダを制御するテクノロジーの活用方法として、善悪の道義的な判断はともかく、歴史的な経緯から考えると、必ずしも誤用であったとはいえないことになってしまうかも。音楽・美術は、ふだんは文部省が管轄しているけれども、何かの拍子に、その出自と関連する別の表情をあらわにすることがある、ということになってしまうのでしょうか。

聴覚と視覚をアートとしてコラボレートしようとする試み(前衛的な)がいまいち盛り上がらなかったのは、平時の(文部省が管轄するような)位相でしか音楽・美術をとらえていなかったからかもしれませんね。商品(映画)や広告(国民の動員)という剥き出しの目的をもった領域で、聴覚と視覚を組み合わせる技法が開発されたのは、理由のあることだったのかもしれない……

……というようなことが、椹木流日本・戦後・藝術論の周囲に思い浮かぶのですが、なんとも殺伐とした光景で困ります。

……こんな風なことばかり考えていると、歴史は戦場で、藝術は激戦地帯である(あった?ありうる?あらねばならぬ?あらねばならないのにそうならなかった?)という妄想が再起動してしまうではないですか(笑)。

音楽はわりあいお行儀の良い人が多いですけれど、美術は怪しい世界へ音楽を引っ張り込む「悪い場所の人々」なのか??

美学の人には、美術も音楽もメディア藝術もぜんぶ眺めてものを考えるんだったら、このあたりの「歴史」もうまく整理していただきたいものだと思っております。

日本・現代・美術

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