Fukushimaは一進一退を繰り返しながら、全体として緩慢に廃炉への行程を歩んでいて、昨夜は、日本テレビの夜のニュースを見ていたら、管という人の言動が当初から素っ頓狂であったらしいことを具体的に暴露しはじめていましたが、
クラシック・コンサートのほうは、復興支援を合言葉に、徐々に再起動しつつある、と認識してよいのでしょうか。
東京ではメータがN響と第九を演奏するということで、昔、大阪のカジモトにいた、あのクールでかっこいいお姉様がシンボリックなお仕事を成し遂げようとしていらっしゃるのだなあ、と、具体的には何もできませんが、心情的に応援する気持ちで事態の推移を眺めております。
昨夜、広島から到着した大植英次さんの記者会見は、4/7のチャリティーコンサートについて、大植さんが、ほぼ一時間ぶっとおしで思いを語る会でした。
ボストンの学生だったときにスリーマイル島の事故が起きて、バッファーローにいたときにチェルノブイリで、そういうことが起きる度に、Hiroshimaの人だということを周囲も意識するし、そのつど自分から行動して来られたようで、今回の電光石火の広島・シュトゥットガルト・大阪は、使命感というより、こういうときにサッと動く人なんですね。
こちらが何かを伝えるというよりも、本当に一番やりたいのは被災者の方々の声を(たくさん語りたいことがあるはずのその言葉を)聞くことだ、とおっしゃっていたのも印象的でした。
4/7の演奏会のチケットは本日発売開始。
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そういえば、ドイツは早々と原発脱却を決めた国で、Fukushimaを機に日本の国旗をあしらったバッジが作られているのだとか。日本支援というニュアンスとともに、原発の難しさをこの機会に改めて考えようというメッセージなのかもしれないですね。
Hiroshimaの大植さんは、自分の誕生日10月3日が奇しくもドイツの統一記念日になったのを何かの縁と思っているようで、ハノーファー(ダールハウスの生まれた街ですね)との関係は良好みたい。一連のチャリティコンサート活動もハノーファーからスタートしていますし。(シュトゥットガルトのコンサートのほうは、当地在住のロータス・カルテットの皆さんの力が大きかったという理解でいいのでしょうか。)
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ウィーンやバイロイトの劇場へ行くとやっぱり「魔物」が住んでいて、桐朋で斉藤秀雄に学んだ指揮者さんはそれぞれ大変だったわけですが、街はたくさんありますし、もうちょっと違う付き合い方(住み方?)があるうるということなのだろうと思います。
というより、もともとドイツはつい最近まで街ごとにバラバラで、ゆるやかに連携していただけの地域で、大日本帝国がドイツを近代化のモデルにしたのは、百以上の藩に分かれていた徳川体制を組み替えるときに、バラバラの街をたばねた直近の成功例だったからですよね、たぶん。
で、今はもう一回、街・州がゆるやかに連携する形に戻っていて、EUのなかで存在感があるのは、(政情で多少のブレはあるにしても)東欧・ロシアともつきあったり、街がゆるやかに連携するノウハウを持っているからなのだろうと思います。
ドイツはバッハやベートーヴェンの「音楽の国」で、フルトヴェングラーがいて、最近はオスタルギーを患っているらしい、というように、鬱蒼とした森のガイストが今なお健在であって欲しいと思う方々がいて、本郷の赤門のなかの校舎群は、まだそれらの残留濃度が高いのかもしれませんが、
ドイツと往復している最近の音楽家さんの雰囲気は、もう随分違っているような気がします。
そういうところでも、大植さんは、毎年のようにドイツへ「上洛」(?)していた朝比奈さんが生涯こだわっていたものを、尊重しつつ上手に更新しているかもしれませんね。
Japanerだということと、OsakaのIntendantという肩書きと、Eiji Oue aus Hiroshimaということと、アイデンティティが重層的になっていて、HanoverやStuttgartのメディアでは、そんなの当たり前だからそういうものとして受け止められるのだろうなあ、と想像しております。
「音楽の国ドイツ」なんていう言葉を誰が使うのか、出典は何なのか、「不思議の国のアリス」を仲介して、なんとかのナディアとか、日本アニメのタイトルのようで妙にファンシーだなあと思っていたら、欧文論題は「people of music」なんですね。チュートンの音楽の民。英語圏では、そういう風に言うのでしょうか? ドイツでこれに相当する表現があるのかなあ……。そして2002年刊行のこんな本があったことを知りました。ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ
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神社の縁起を信じれば、同じ名前の神様が数多くの地に降り立たれたことになってしまうわけですが、コミュニティとはそういうものなのでしょう。それぞれの街にKulturが自前である、と。そうした縁起の事実関係は可能な範囲で実証的にたぐることが不可能ではないかもしれないけれども、そのような「暴き」が必要かどうか、認められるかどうかはケース・バイ・ケース。そうした手順をすっとばして、諸Kulturをいわくありげに並べるのは、なんだかなあ、と思うのです。
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