即興、シラケ世代から見て

[即興と身体の屹立、即興と活喩prosopopoeiaの話を書き足し。さらに、即興詩人improvisatoreの話に少しだけ加筆。]

即興文学のつくり方

即興文学のつくり方

即興といえばモダン・ジャズであり、モダン・ジャズといえば60年代新宿だ、というような全共闘世代の論調とは、「意図的に」縁を切ったところで書かれた即興論、ということみたいです。

著者は1966年生まれで、70年代に「中学生市民」だったという言い方が出てきたりして、即興のちょっと胡散臭い「その時・その場」感をシラケ世代以後の視点で語る、という風になっているので、わたくしには読みやすく、納得しやすい内容でした。

連詩の「座」の社交性、世紀末文学の形式の隙間にゆらめく神話的な即興舞踊、T. S. エリオットを題材とする即興における(感情や理性を越えた)神経の震え/ヒステリー、即興は「アメリカ的」か、など、どれも即興を考える道標になりそうなトピックですし、論の展開は、英文学の詩論・レトリック論などの下支えがあり手堅い。70年代に出てきた村上春樹と蓮實重彦の「文体」も、文学研究風にきれいに読み解かれています。

(ハルキとハスミはそれでいいけれど、それじゃあ、70年代に出てきたのに「新宿」や「モダン・ジャズ」を言い続けた中上健次はどうなるのだろう、とふと思ってしまったのですが、そんな人物配置図は、狭い狭い文藝批評の「熱い現場」(←まさに「その時その場」感!)が実在すると錯覚するマニアな読者(絶滅寸前)以外には関係ないかもしれないので、別にいいです。即興論として気にはなりますし、即興論にハルキとハスミをさりげなさを装って入れたのは、著者が「文藝批評業界」を思い切り意識した意図的人選に違いなかろうとは思いますが。)

ピアノを弾く身体

ピアノを弾く身体

  • 作者: 近藤秀樹,小岩信治,筒井はる香,伊東信宏,大久保賢,大地宏子,岡田暁生
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一方、1960年生まれでヴィルトゥオーソを闊達に論じたのち、最近はモダン・ジャズにご執心、というのは、意図的なのかそうでないのか、意外に「団塊世代」にも受けそうな品揃えですね。
身体の零度 (講談社選書メチエ)

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白日夢(81年) [DVD]

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愛のコリーダ [DVD]

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『即興文学のつくり方』は、身体が露呈する方面ではスポーツ論とサロメのダンスの話が出てくるに留まっていますが、

大島渚(1976年)や武智鉄二(1981年)がハードコア・ポルノにアートとして取り組んだことにも、「その時・その場」感としての即興の問題が絡んでいそうですね。佐藤慶は緊張のあまり苦戦して、最後はある種の媚薬の助けを借りたらしい、とか、藤竜也は平気で撮影できる人だったらしい、といった「撮影悲話」が伝わっていたりして。どうやら、即興の「その時・その場」感は、身体が禍々しく屹立するイメージと結びつくものであるらしい。

性の「花伝書」―秘すれば花--性愛の奥儀を求めて (ノン・ブック)

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武智鉄二はこういう本を書くし……。

[付記]

最後に豆知識の抜き書き。

improvisationという語の起源は十八世紀に使われるようになったイタリア語のimprovisatoreで、「その場」で詩を詠む詩人のことを指した。(阿部公彦『即興文学のつくり方』、松柏社、2004年、102頁)

そうなんですね。OEDとかを見ると、このあたりがわかるのでしょうか。

即興詩人 (上巻) (ワイド版岩波文庫 (18))

即興詩人 (上巻) (ワイド版岩波文庫 (18))

日本の翻訳文学史で森鴎外の文語訳の話が必ず出てくるアンデルセン『即興詩人』(1835)の原題がまさしくImprovisatoren。ロマン主義時代の音楽のヴィルトゥオーソに関連して fantasia 概念はしばしば話題になりますが、improvisatore のイメージをヴィルトゥオーソ論に導入した例は(私が無知なだけかもしれませんが)読んだ記憶がありません。

リスト ヴィルトゥオーゾの冒険

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ひょっとすると、博識なジャンケレヴィッチあたりが何か言っているかもしれませんね。(個人的には、ドイツ音楽好きがアドルノをもてはやすのと同じくらい、フランス音楽好きのジャンケレヴィッチ礼讃にはうんざりしているのですが……。)

英語散文のスタイル上の分類に「散列文」(loose sentence)と「掉尾文」(periodic sentence)というものがあるが、前者が後づけ的に言葉をどんどん増殖させるのに対し、後者は文におけるもっとも大事な要素を最後まで言わないでおくことでサスペンスをつくり、最後の語の重要さを際だたせるのが特徴である。(100頁)

これは、オスカー・ワイルドの読者に気を持たせる書き方を分析する箇所に出てくる説明ですが、学生の頃ダールハウスの文章を読んで、筋肉質にひきしまった「段落」のまとめ方に感心したのを思い出しました。段落の最後にビシっと決める一文が来る。(今風に言えば「ドヤ顔」(笑)なまとめ方。)あれが「periodic sentence」なんですね。

一方、渡辺裕先生のゼミでイギリスのだらだらしたエッセイを読まされて、どこまで行っても「オチ」のない、ぬるま湯につかったような文体に心底閉口したのですが、あれが「loose sentence」ということでしょうか。

(レチタティヴォをlooseに作り、アリアをperiodicに作る、というイタリア・オペラのシンタクスとも縁遠い話ではなさそうです。近世の音楽論は、音の雄弁術だったわけですから。)

蓮實重彦の「マル」が訪れない文体を、「loose/periodic」の区別は使ってはいませんが、いわゆる日本的なダラダラ続く散文とは違う、と指摘するのも納得できますし、この本の「決め技」は、ほとんどの場合、こうした文体論ですね。そういうところが、私には大変勉強になりました。(いちおう、作文を仕事にしているので。)

絵画詩はここ十年から二十年あらためて注目を集めることの多くなったジャンルで、日本でも森邦夫『詩と絵画の出会うとき -- アメリカ』(2002)のような研究書が出ているが、ひとつ特記すべきなのは九〇年代に入って絵画詩をめぐる議論が大きな方向転換をとげたということであろう。七〇年代から八〇年代にかけてはどちらかというと文学を絵画にひきつけその絵画的な側面をあきらかにしようとする、静止主義的でフォルマリスティックな視点が優勢だった。それに対し、九〇年代に入るとむしろ文学テクストの非絵画性、時間性、歴史性に焦点があてられるようになり、絵画について語ることでテクストは絵画作品をその静止性から解放するのだといったことが議論されるようになってきた。「活喩法(prosopopoeia)という用語は、本来語る言葉を持ちえぬはずの対象に、詩人がみずからの口をとおして語らせるいわゆる、envoicingについて用いられるが、そのような技法の中にある反静止主義的な姿勢、語ることとは動かぬものにダイナミックな命を吹きこみ時間化・歴史化することなのだ、というような考え方がどうやら絵画詩読解の基本となりつつあるようである。(103-104頁)

絵画詩というジャンルがあるのだ、というのもさることながら、prosopopoeia (personify)は、「擬人法」(モノをヒトに擬する)と訳すのではなく、「活喩」(詩人が、本来言葉を持ちえぬ対象に言葉を与える)と呼ぶことでイメージが広がりますね。

「(私のではない顔を私の)顔(prosopo)にすること(poeia)」がprosopopoeiaで、「(名前ではないものを)名前(onoma)にすること(poeia)」がonomatopoeia(いわゆるオノマトペ)なんですね。仮面劇や口移しを連想させて、ギリシャに、詩が演劇であり、神事であるような文化があったことを思わせる言葉遣いですね。