[記事の日付を一部変更。即興とアヴァンチュールの話は http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111105/p1 へ移動しました。]
【ドラマ Drama】揉め事。人・状況の鋭い対立の構図
【ドラマツルギー Dramaturgie】落としどころ。揉め事をけしかけつつ、決着させること
用例:劇場には「揉め事」がつきもので、観客は揉めれば揉めるほど大喜びするわけだが、一口に「揉め事」といっても、役者が台詞でやり合う新劇と、歌舞音曲が入り乱れる音楽劇では、「落としどころ」は自ずと違う。
西洋では、音楽に長らく「調和(仲良きこと)」が期待されていたが、近代に入り、分派と集合離散が加速度的に進行している。これを「揉め事」(ドラマチック!)であると囃し立てる向きもあるが、ヘーゲルが喝破した如く、人類の歴史から見れば、「内輪揉め」の軋み(=アドルノが大好きな不協和音Dissonanz)がせいせいのところであろう。事件はコンサートホールやリスニングルームで起きているのではない、のである。
ドラマトゥルク経験のある音楽学者が「けしかけ」つつ「落としどころ」を模索する議論を、一説にはかつて学生運動の闘士であったとも囁かれる先生が日本語に訳した本。
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(そのような見方に不服な革命大好き人間は、ヘーゲルを転覆・倒立させようとあれこれ画策しているわけだが、今度はそうした革命騒動全体が西洋の「空騒ぎ」に見えるわけで。好きにやってくれ、と思うわけだが、これを上手に「揉め事」としてけしかけるドラマツルギーというのも、あるにはある。アートとビジネスの巧妙な差配で「シーン」が次々と創出される。)
音は、鳴り響くとともに消えていく「儚い」ものであることは否定しがたく、「揉めた」としても、そのとたんに水のようにサラサラと流れてしまう。音楽の本性は不易流行なのかもしれないけれども……、
劇場では、そういうわけにはいかないらしいのである。
音楽が劇場と手を結ぶべきか否か、については様々な見解があるだろうけれども、音楽が(少なくとも西洋では)自らの内の取り込もうと手を伸ばしてしまったドラマやドラマツルギーなるものの語義を評釈しようとすれば、およそこういうことになるのではなかろうか。
日本の近代化においても、劇場は民権派の壮士劇があったりして、それなりに騒然としているし、演劇の人は音楽家より、はるかに血の気が多い(ような気がする)。
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「どーせ、お約束なんでしょ」とヘラヘラした調子で言ったら、たぶん、ポカンと殴られると思うヨ。
張り倒されて、カエルのように仰向けにノビる、というのが、お調子者の野だいこ(@坊ちゃん)の落としどころ=ドラマツルギーということかもしれませんが……。
参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110521/p1
[追記]
おそらくヨーロッパでは、いまも劇場が藝術の中心・頂点に君臨していることになっていると思われ、それは、デモクラシーとdemos(民)の主権を叫びつつ、代表representativeを立てるという世襲君主制以来のしくみを捨てていない(世襲君主を仰ぐ国が今も少なからずありますし)のと、どこかで連動しているのでしょう。
nationという想像の共同体を批判したり、進歩・前進という時間意識を批判しても、実はそれだけでは代表representativeを立てて物事を治め/収めていく機構が揺らぐわけではないのですから、先頃の世紀の変わり目で何らかのパラダイムが仮にシフトしたのだとしても、それはせいぜい100年か200年単位の中規模のシフトであると思われます。
宗教的権威を押さえて世襲君主が統治の唯一の主体になったのは1600年頃からだとされ、現在も受け継がれているような劇場が整備されたのもおよそこの頃のようですが(ヨーロッパだけでなく日本においても)、この400年存続しているシステムのほうは、揺らいでいるというより、むしろ、「立派な代表を選べるしくみを作ろうよ」という形で、短期見通しとしては強化されそうな気がします。
「帝国(=ほぼ天皇)の大学」(@吉見俊哉)として開設された学校の先生たちが、率先して、進歩主義やナショナリズムを嬉々として再検討する御時世であるということは、そういった意匠を再検討して、場合によっては他と取り替えたとしても、まだ大勢・体制は揺るがない、ということなのだと思われます。
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最近は「歌うこと」のみならず「語ること」にも触手を伸ばしているようで、国家の犬(←左翼用語^^;;)は貪欲です。
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だったら、劇場(もしくはその後継21世紀ヴァージョン(が何なのかはまだよくわかりません))のほうも、もうちょっとメンテナンスして、保たせたほうがいい。音楽の生き残り策も、ひとつの方向としては、だいたいそのあたりになるんじゃないでしょうか。今は劇場をバカにしないほうがいい風向きなんだろうなあ、というように私は観測しております。
音楽(なかでもヨーロッパに由来するタイプ=洋楽)は、およそ200年間「自活」の道を模索して、それなりにうまくやってきたわけですが、もう一回「大樹の陰」に身を寄せるか、さもなければ、「自活」を最優先で維持するために清貧になるか、どっちかを選ばねばならないときがそのうち来るのかなあ、という気が漠然としております。
坂本龍一がしきりに口にする「エコ」な「スコラ」は、選ばれし者たちによる自活の道、という原始キリスト教的な雰囲気を身にまとっていますが、そっちへついていけない人たちが身を寄せる受け皿をどこかに確保しておかないと酷いことになるんじゃないのかなあ、と思うのです。(わたくしは、どう考えたって、「選ばれないその他大勢」のひとりでしょうから。)