- 作者: 與那覇潤
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/11/19
- メディア: 単行本
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中年オヤジとしては、「中国化」した日本の皇帝陛下に虫ケラの如く駆除されてしまっては大変なので、もう少し時間をかけて再読。
なんだそういうことか、だったら大丈夫じゃん、と思いました。
なぜか?
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與那覇潤『中国化する日本』は、
- (a)東大卒30代の頭脳明晰・野心満々の少壮研究者が
- (b)高校日本史を中途半端に勉強しただけのボンクラ学生相手に熱血講義を行って
- (c)その内容を、先生の授業を受けることすらできない愚かな一般民衆にお裾分けする
というわけで、
この講義本の構造自体が、著者が力説する「中華」の構造
- (a)唯一の普遍の真理を体現する皇帝陛下が
- (b)科挙・殿試で地頭の良い子飼いを選出して帝国を中央集権で統治して
- (c)あとは野となれ山となれ、自由競争・自己責任
をなぞっています。
(この構造は、「中国化/江戸時代化」という理念を立てたことが大事なんであって、現実との乖離=個々の記述の不整合などをあげつらっていてもはじまらないのだ!!という風に、メタレヴェルで本書への批判を書物の構造が封殺してしまおうとすることにもなっています。「中国化」とは、実に邪悪な構造であり、それを丸呑みせよ、というわけです。
著者が言う「学会の常識」「大学のプロの歴史学のスタンダード」が本当にそうなのかどうか、疑わしいかもしれないと思う箇所もありますが、でも、教室という権力構造の頂点=教壇というのは、そういう強気発言ができてしまう場所です。著者は、そうした権力構造の誘惑に少々無自覚な感じがあって、そこがまたかわいげのある「少壮」感にもつながっている。「皇帝押込」の憂き目に遭わないことを祈ります(笑)。)
この傲慢と思えなくもない構造に我慢できるかどうかというところが、この本を読む際の関門になっていると思われ、一読したヤマカン混じりの感想は既に書きましたが、
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120220/p1
その後読み直して、「皇帝陛下の強大な中央集権の下での自由競争」というお話を脳内に擦り込み、イメージトレーニングに励むうちに、だんだんと、「これって朝比奈隆全盛期の関西楽壇と同じでは?」という気がしてきたのです。
そういえば、大阪はターミナル駅前の一等地を「三国人」様(誠に失礼な言い方ながら、わかりやすさのために敢えてライトな方々の物言いを借りて表記させていただきました)に長らく占拠されていた「商都」なのですから、日本のなかで「中国化」比率が高かったとしても不思議ではないかもしれない(「近代化」の「原罪」を背負っているとされる琉球や薩摩の島々から出てこられた方々もたくさんいますし、世界へ流通してしまっているインスタント・ラーメン発祥の地ですし)、
- 作者: 速水健朗
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とか、
朝比奈さんは上海と満州で日本版中華理念としての「大東亜」の文化的象徴をやって戻ってきたのだし、
- 作者: 古田博司
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とか、
朝比奈さんが有望な新人さんを大フィルに一本釣りして、「度胸試し」みたいな無茶をする(入団早々抜き打ちで本番に難しいソロを吹かせちゃう、とか)というのは、「科挙・殿試」みたいなものではなかろうか、
[以下、32頁引用]さらに殿試と呼ばれる、皇帝陛下直々に試験監督を行う最終試験が設けられ……という話は高校でも習うはずですが、これは試験合格者に皇帝への恩義を感じさせ、あらゆる官僚を皇帝個人の子飼い同然の扱いにして中央集権を徹底するための策略なのです(宮崎市定『科挙』)。
とか思えてきまして、
そうすると、與那覇史観では最後の「江戸時代」であったとされる80年代バブル経済についてこんな記述が。
そもそも戦時動員のための40年代体制下、日本企業は資金調達にあたり、自社株の発行(直接金融)ではなく銀行からの借り入れ(間接金融)を中心とする慣行が成立し、戦後もそれが続いて、日本の庶民は「預金はするが株は持たない」堅実な生活を送っていました。(240頁)
バブル経済は、銀行が企業に湯水の如くに融資して、株の代わりに土地に投資することで、ドル・ショック&オイル・ショック以後世界的に止めようのなかったインフレ傾向に対処しようとしたところが日本特有だった、という見立てになるようです。
でも、考えてみたら音楽家というのは、チケットを売って資金を集めて興行を打つのですから、非常に分かりやすい「直接金融」なんですよね。
しかもチケット=興行の入場券というのは、商法上の有価証券ではないけれども、刑法上では偽造等が処罰される可能性のある有価証券扱いであるらしく(ウィキペディアによると)、紙を価値付けして商売するなんて、とっても「中国的」じゃないですか! (大量のチラシを捲く、とか、この高度情報社会でありながら、ライヴ・コンサートは「紙」ベースでありまして、このあたり、音盤という「もの」を物神崇拝するような「江戸時代的」なところがありません。終わったら何も残らない潔さです。)
與那覇文体のまねをして、これからは、
- 作者: Th.W.アドルノ,Theodor W. Adorno,三光長治,高辻知義
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「大学のプロレベルの音楽史では、[em]レコードは幼児退行的な物神崇拝である[/em]というのが定説です(参考文献:アドルノ『不協和音』)」
と断言してしまおうかなあ(笑)。
レコードの一見管理的な集配・流通はどこかしら江戸時代の米相場みたいだし、一方、中国は海賊版天国とされ、そうした物々交換市場を脱臼させるのですから。
吉本興業がバルブ崩壊でつぶれなかったのも、借金をしない社風だったからだと言われている。(調子にのって90年代以後どんどん会社が大きくなって、逆に「大阪バッシング」を受けてしまっているようですが……。)
- 作者: 木村政雄
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與那覇史観だと、家元制度で藝能がイエの職分として世襲されるのが「江戸時代的」で、自由競争で興行を打つのが「中国的」ということになりそうですから、松竹とケンカして「歌舞伎界再編」を狙った武智鉄二も、先駆的でほとんどドンキホーテ的に「中国的」だったということになりそうです。
ということは、これは、「あんさん、それ、大阪では昔から当たり前でっせ」と受け流せばいいということでしょうか(笑)。
- 作者: 森彰英
- 出版社/メーカー: 水曜社
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武智鉄二は今年で生誕百年です。
- 作者: 小田幸子,西澤晴美,児玉竜一,志村三代子,権藤芳一,中村富十郎,茂山千之丞,笠井賢一,坂田藤十郎,川口小枝,岡本章,四方田犬彦
- 出版社/メーカー: 作品社
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與那覇さんの言う「気分は陽明学」みたいな市長さんが登場したりもしておりますが、そのうち落ち着いて、収まるところへ収まるのでしょう。
あと、『中国化する日本』は、ノートを取りながら自分でもあれこれ作図したりして検討したのですが、そうすると、與那覇さんは「中国化」へ共感する思いが強いから、もはや「江戸時代化」に未来はない、という結論へ突き進んでいますし、たしかに当面、世間の「中国化」圧力が強い時節が続くのかもしれませんが、
日本と呼ばれる極東の島の来し方を一覧すると、
完全に「中国化」して生き残れるとも思われず、迷走する内乱状態で外から相手にされなかったり(大和朝廷が朝貢をはじめる以前とか、平安末から戦国時代までとか、明治維新から大正までの混乱とか、歴史の大半が実はそうだったんですよね)、「江戸時代化」の引きこもり状態になったりしながら、だましだましグズグズと生き延びるのが、現実的ではないかと思えてきます。
島全体としてはそういう「冴えない」状態のなかで、それなりに活発な領域や地域があったりなかったりする、そういうことになるんじゃないでしょうか?
この現状に苛立つ人が自称「皇帝陛下」として局地的に威張る、というのも、とってもありがちで、そういうややこしい人に対処するノウハウも、(そんなことは歴史書の記録には通常残らず、「大学のプロレベルの日本史」にはでてこないかもしれないけれど(笑))それなりに蓄積されているような気がするんですよね。
↑京都学派の紫禁城・人文研勤務の音楽学の皇帝陛下直々の教えを有り難く拝読しよう!(笑)
- 作者: 岡田暁生
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で、どっちにせよ、そういうなかで、音楽家という藝能者は、これまでもこれからも、だましだまし飄々と生きていくことになるのでしょう。
*與那覇問題、さらに続きます。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120227/p1