武満徹は西洋人をマネして背伸びする

武満徹について調べる必要があり、技法や名声は雲泥の差ではありますけれども、無名時代の右往左往する感じがどこかしら大栗裕に似ているなあ、と考えているうちに、ふと思いついたことを書いてみます。

武満徹の音楽

武満徹の音楽

「極東の島国のアンチャンが、背の高い西洋人のマネをして、ひょいと背伸びをしてみた。さすがに照れくさいから、あれこれ「藝術」にふさわしく見えるような細工・演出を施してみた。長年細工・演出を続けるうちに、その技巧は精緻で堂に入ったものになる。そして、この「東アジアの小男が背伸びする身振り」が、海外ではそっくりそのまま、東洋の神秘と評価されるようになった。それがタケミツ。」

……ということで、どうでしょう?

      • -

武満徹への北米の評価が、「成功する日本人」として礼讃された時代があって、でも、没後10年過ぎたあたりから、彼自身も多分にそれに加担していたと思われる「神話化・神秘化」を再検討する語り直しが行われるようになって、今日に至るわけですが、

「日本の近代化の実像は「中国化」であった」というように、「西洋化」を必要に応じて着脱可能なオプション視する思考モデルを採用すると、武満徹の「背伸び」感を、ある時代の日本人に特徴的な身振りとみなし、歴史の一コマへ相対化して登録することができるのではないでしょうか。

そしてそうなると、デビュー作「2つのレント」の日本旋法と挌闘して、完成までに相当な時間を要したとされる第1曲から、一柳慧からメシアンの「前奏曲集」の楽譜を借りて、メシアン・トーンを上手にパクッた第2曲への路線変更の背後に何があったのか、というところが問題なのではないか。

「2つのレント」は清瀬保二らがやっていた新作曲派の会で初演されたわけですが、第1曲がいかにも清瀬の弟子・早坂文雄の弟分、戦前以来の民俗派な感じなのに対して、第2曲は、神戸から来たハイカラな天才少年の一柳慧だったり、メシアンだったり、いかにも戦後派っぽく意匠/衣装を着替えています。そしてこの「衣装替え」は1950年の出来事だったはず。翌年の「妖精の距離」になると、諏訪晶子に秋山邦晴と一緒に演奏を頼みにいったそうなので、初演は新作曲派の会だけれども、徐々にその後へつながる人脈ができつつあるような印象があります。

「西洋風に背伸びする」という決断は、戦前派の清瀬保二らの路線を見限ったということではないかと思うのです。

      • -

事実、1950年は、柴田南雄の新声会などが台頭して、新作曲派協会はもう古い感じになった節目の年だったと思われます(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110619)。

武満徹全集に入っている吉田秀和の1966年の回想文によると、吉田秀和も「2つのレント」が初演された新作曲派協会の発表会を聴いたようで、彼は、「他の人の曲はまったく覚えていない、武満の印象だけが残っている」と書いています。たぶんこれは、吉田秀和一流のオトボケでしょう。既に柴田南雄と交友していた時期ですから、吉田秀和は、新作曲派ではもうダメだ、という柴田の主張を受け入れて、そういう色眼鏡で新作曲派を見ていた可能性が高い。

1950年というと、早坂文雄も深井史郎も、映画音楽についてはまだこれからいよいよ代表作を書こうか、という時ですが、コンサート音楽については時流から外れはじめている……。

「2つのレント」の第1曲から第2曲への転換は、旋法による作曲の連続的な変化・成長というよりも、若き日の武満徹が戦前派から戦後派へ乗り換えた宗旨替えのドキュメント。成長した・背が伸びた、というよりも、このときから「背伸び」がはじまったのではないでしょうか?

      • -

念のために申し添えますが、これは武満批判ではありません。独学で作曲家を目指していた武満徹が周りから頭一つ抜けるためには、自分の得意・不得意を冷静に見極めながら、ここで「勝ち馬に乗る」勝負に出たのは当然・必然ですらあったと思います。そうでもしなければ、未来に希望はない心境だったはずですから。

そしてこれを処世術というならば、大栗裕が「赤い陣羽織」や「大阪俗謡による幻想曲」で、本当はもっとカッチョよく世に出たかったかもしれないところを、こちらは、お客さん目線で「腰を低くした」ことだって(←ちなみに武智鉄二が推奨した日本のナンバは実際にグッと腰を落とす)、処世術だと思います。

そんな風に姿勢を変える決断をしなければ、独学組が、既に「再江戸時代化」へ向かいつつあった縦割りな戦後日本で生き延びることはできなかったと思われます。

伊福部・早坂・柴田は既に戦時中から作曲家として活動をはじめていますし、「戦後派」の作曲家は、ドイツ系もフランス系も民族系も、ほぼ全員が音楽学校出身で、ほかに独学組は松下眞一くらいだと思います。大栗裕も武満徹も、挽回不可能なハンディをそっくりそのままプラスの札に変えるチャンスをつかんだ。デビュー前後のまだ一目につかないときにこっそり「キャラ作り」の工作・演出をして、そのまま一生やりおおせることができた。

世の中が安定して急速に構図が固定していくときに、抜け道はここしかない、みたいな一点があって、この人たちは、ちょうどうまくそこへはまったんじゃないかと思うんです。ちょっとだけ背伸びをしたり、腰を落とす工夫をしさえすれば。