このあたりがポストコロニアルとかサバルタンとか、ひと頃一生懸命言われていたことだと思いますが、要するに、やり手のアーチストや言論知識人が、そういう光と影、可視と不可視の狭間を狙う構造は、今も昔もたいして変わっていないような気がします。
ここに何かあるぞ、と広告塔を立てることは、まあ、やればいいと思うし、やめろと言っても、そこに何かがあれば、突っ込んできて、何かをやる人は出てきます。
頭の良さで数式を解くようにスイスイ到達できる臨界であり、ここで引き返すなら、わざわざ行く意味はあまりない。
それはそれとして、地味な取り組みがどうすれば持続するか、ということなわけですよ、やっぱし。
(ぐるっと回転して、いっそ、アートとしては通俗的な「偽善」のほうが有効だ、ということになる局面すらあるはず。)
「スポーツと体罰」にフォーカスすると、高校生がどうして自ら死んだのか、ということが見えなくなるのとカラクリは同じだと思う……。
(じゃあ、そんなカラクリを稼働させているメディアが問題なのであろう、ということで、血の気の多い人は一斉にメディア論(叩き)へ走るわけだけれども、しかしねえ。)
革命・革新を夢見る民衆史観ではない文化史・社会史というのも同じ話だと思うのですが、もし時間ができたら、もう少し書きます。