「口パク」のトラック管理と「生歌」の音響設計

私がポピュラー音楽に口だしするのも何ですが(笑)、八尾の母の家へ行ったら朝日新聞があって、フジテレビの音楽プロデューサーさんが番組で「口パク」を認めない、と発言した件が記事になっていた。

もし、元の発言がアイドル番組から「口パク」を一掃する、という趣旨なんだったら、識者コメントに出ていた、「ファンはタレントの成長を応援したいのだから、ヘタでも生歌がいい」という意見がありうるかもしれないけれど、このプロデューサーさんは、記事によるとスタジオのセット・演出を含めて、いわゆる「クオリティ」の高いオリジナル・ライヴを志向するタイプの人らしいので、ちょっと話の文脈が違うような気がした。

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音楽番組の「口パク」というのは、要するに、タレント側が音源を現場を持ち込む、ということですよね(その音源の帰属がマネジメント事務所なのかレコード会社なのかはケース・バイ・ケースでしょうが)。

サウンドトラックの同一性をタレント側が管理するという手法なので、なんとなく、某氏(←この文脈では実在の人物だが、わたくしからリンクされるのが嫌らしいので実名は書かない(笑))が言っているらしいトラック主体の作品概念の格好のサンプルではないか、という気がします。

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一方、朝日の記事のなかでの他の放送関係者のコメントとして出ているように、現場で「生歌」を収録するというときでも、そのために各種機材をガッツリ準備して、きっちりリハをやってから本番という風にパフォーマンスを徹底的に作り込むのは、条件が許せば不可能ではない。

だから、これも記事が指摘するように、「口パク=作り物/生歌=天然自然ありのまま」というわけではない。

ただし、そういう風に「生歌」をガッツリ作り込もうとしたら、タレントさんがあらゆる機材を全部持ち込んで、音響スタッフから何から、全部自前で揃えるというのもあり得ないことではないけれども、通常は、タレントさんを受け入れて興行を打つ側(この場合は放送局)が態勢を整えて、音響を組み立てていくことになるのだと思う。

「口パク」におけるタレント側のトラック管理と対比すると、先の音楽プロデューサーさんの発言は、興行(放送)する側がパッケージを責任持ってまとめます、と言っているようにも読める。つまり、「実力のない歌手は使わない」という上から目線の発言というよりも、番組スタッフが音楽作りに関わる体制で仕事をしたい(うちはその一線をどうにか守ってます、今のところは)という、ひょっとすると絶滅の危機があるかもしれない人たちの生存報告のような気がする。

昭和からの系譜があるタイプの音楽番組とか、こだわりのレコード会社とか、老舗のライブハウスや音楽ホールには、こういうタイプのスタッフさんが今も辛うじているんだろうなあ、という気がします。

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こっちのタイプの音楽を語るときに「作品」という概念に固執するのは理論の構想として筋が悪いんじゃないかと私などは思いますが、

レコード型の音楽とライヴ型の音楽では、ビジネス・モデルやスタッフワークの在り方や力点が違ってくる、ということは、そういうことに詳しい人だったら割合すっきり言えそうな気がするし、ちゃんと言っておいたほうがいいんじゃないかと思う。

(レコーディング・スタジオの編集技術の凄み、というのはもちろんあると思うし、昨年、大阪城西の丸庭園で大フィルを聴いたときには、ああいう場所で違和感なく音楽を楽しませてしまう巨大コンサートの音響スタッフの技術は凄いものだと思った。本番一発で収録した音を電波に乗せるのは、そのどちらとも違った別の技術の蓄積がきっとあるに違いないと思う。せっかくの「音楽」番組をやるときに、その技を中抜きされちゃう「口パク」ばっかりになると、きっと現場は口惜しいに違いなく、そういう話なんだろうと思うわけです。)

もう一回ポピュラー音楽学会で「プロレス」を企画するんだったら、このあたりの話題でやったらいいんじゃないの?

「同録」が売りのミュージカル映画がヒットしたところでもあるし。

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ところで、往年の名画のみならず、今でも映画では、とくにスタジオ外のロケのシーンは、歌だけじゃなくて台詞の少なからぬ部分がアフレコ、いわば「口パク」なんですけど、これは、タレントのありのままの姿を応援したい「生歌」派的にはオッケーなのでしょうか?

現地ロケが売りの「ローマの休日」も、映像はロケだけれども、台詞は、おそらくほとんどの部分がアフレコ(すなわち「口パク」)で、純然たる「同録」は現地エキストラが大量に出てくる1、2のシーンだけだと思います。そしてこの映画の「音」は、精巧なミュージック・コンクレートみたいに複雑に編集されていて、私にはそこが面白いのですけれど。

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そしてこの映画を語り尽くそうとした北野先生も、サウンドトラックの話はしていない。

スタジオ・システムが解体しはじめた1950年代の映画の「音」は色々面白いことがなされていると思うし、それは、テープ音楽(電子音楽やミュージックコンクレート)と同時代現象なはず。武満徹のような人が映画の「音」で色々やれたのは、映画側にも、そういうことのできる条件がこの時代に揃っていた、ということだと思います。