国民、外国語文献、感性メディア - 国家主義者の取引先とニッポンの美学の運命?

昔、日本音楽学会関西支部で音楽とナショナリズムのシンポジウムをやったとき、岡田暁生は nationalism に相当する概念を終始一貫して「国粋主義」と呼んでいた。

そこまで潔く強烈に色づけしないまでも、nationalism を「国家主義」と呼ぶか、「国民主義」と呼ぶかで、日本語としてのニュアンスは随分変わる。

ナショナリズムの歴史と現在

ナショナリズムの歴史と現在

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ホブズボウムが近代の「新しいプロジェクト」であった、とする nationalism は、欧米語圏においては nation の語の色々なものを指し示す多義性を最大限に活用する形で展開したわけだけれども(ヒトラーのドイツ第三帝国の deutsche sozial-nationalistische Arbeiter という表象の怪物はその極北か)、

日本が nationalism に出会ったときには、nation を多義的な語(たとえば「くに」とか)に置き換えて清濁あわせのむ、という風にしないで、文脈に応じて「国家」「国民」等と訳し分け、意味を使い分ける対応が主流になった。だから今でも、実体として「国家主義者」なのかもしれない人々が「国家」ではなく「国民」という言葉を好む、ということになったりするわけだ(旧帝国大学の教授が「歌う国民」を語った本が、未曾有の大災害の当日に政府から顕彰される、とかね(笑))。

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

4月からは日本音楽学会の会長らしいよ、どういうこと?

ところで、

会社なのか役所なのかのミッションで「海外出張」するオトーサン、というのがいて、そういう人たちは、言葉が付け焼き刃で満足に話せなくても、「経済大国ニッポン」を背負って、取引をするために行っているからなんとかなったわけだけれども、

(大日本帝国が「戦争」という、生命をやりとりする国際社会のコミュニケーション手法でどこまでいけるか挑戦したように、20世紀後半のニッポンは、国際市場における「経済」というコミュニケーションを必死にやった、24時間戦いました!)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

経済は文化だ、トロブリアンド諸島に勇敢なアルゴナウタイがいる、という人類学があって、エコノミック・アニマルなわたくしたちは本当に救われましたよねえ。死んだ山口昌男にも感謝!

で、そういう時代が一段落したところで、わたくしたちのコミュニケーション手法は豊かになったのだろうか?

生身の今そこに生きているドイツ人(やドイツの音楽家)にほとんど積極的な関心をもたないまま「音楽の国」と交信しているだけでは、いくらなんでもマズいからビデオゲーム、ということなのだと思うのだけれど、これは先方との新しい「商談」なのか、それともそこには、生身の今そこに生きているゲーマーたちには積極的な関心をもたないままで、新しい「感性の国」が切り開かれようとしているのだろうか?

関心/損得抜き interesselos な感性 Aesthetik (Interesse は関心と利潤・損得の両方を指す)とはそういう境地のことなのか、他者を手段にするなかれ、に引っ掛かりそうだと私は思うのだけれど。

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

ちょっと高いけど、ドイツの歴史と現在の勉強になる。人と土地と政治と文化と……全部わかる。凄い本だった。